見出し画像

#24 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

真壁史明の未発表草稿より

群体接続モデルに基づく社会的自我の再構成
――個体依存型自我から接続条件型自我へ


要旨

近代以降、人間の自我は主として個体内部に宿るものとして理解されてきた。

すなわち、自我とは身体的連続性、記憶、内省、意思決定、自己同一性によって構成される個体内現象である、という前提である。

しかし、現代社会において人間の判断、感情、記憶、選好は、すでに個体内部だけで完結していない。

検索エンジン、SNS、推薦アルゴリズム、制度的評価、集団的空気は、個人の認識以前に選択肢を提示し、感情の方向を整え、判断の前提を形成している。

本稿は、自然界における群体的知性の事例と、人間社会における情報接続構造を参照し、自我を「個体に宿る実体」ではなく、「接続・持続・更新によって発生する機能的現象」として再定義する。

そのうえで、社会的自我の再構成は、個人の消滅ではなく、個体依存型自我から接続条件型自我への移行として理解されうることを論じる。

ただし、この再構成は、社会的安定や認識摩擦の低減をもたらす一方で、個人の違和感、問い、逸脱、孤独といった、近代的自我を支えてきた要素を不可逆的に希薄化させる危険を伴う。

はじめに

近代社会は、自我の発達を前提として成立してきた。
個人は自ら考え、自ら選び、自ら責任を負う主体であるとされた。

教育、労働、政治参加、恋愛、創作、消費に至るまで、近代社会の制度は「独立した個人」という単位を基礎として設計されてきた。

しかし、この個人主義的自我モデルは、同時に社会的摩擦を増大させた。個人が固有の価値観、欲望、表現、判断基準を持つほど、社会は多様化する。
多様化は自由を生むが、同時に分断も生む。SNS以後の社会において、この傾向は飛躍的に強まった。

誰もが発信し、誰もが反応し、誰もが自分の正しさを表明できるようになった結果、社会は「個人の声」に満ちた。
しかし、その声の増大は、必ずしも相互理解を深めなかった。むしろ、局所的な感情反応、同質的クラスタ、炎上、対立、孤立を増幅させた。

ここで問われるべきは、単に「人間はなぜ分断するのか」ではない。
むしろ問うべきは、近代的自我そのものが、現代の情報環境において過剰な摩擦源となっているのではないか、という点である。

もし、個人の認識や判断をより滑らかに接続し、相互のズレを低減し、集団全体として安定した判断を生成できるならば、社会は再び統合へ向かいうるのではないか。
本稿では、この仮説を「群体接続モデル」と呼ぶ。

群体接続モデルの基礎

群体接続モデルとは、個体単位では限定的な知覚・記憶・判断しか持たない存在が、通信、観測、反応、役割分担を通じて接続されることで、全体として一貫した判断や行動を生成する構造を指す。

自然界には、このモデルに近い事例が複数存在する。
たとえばカラスは、危険な人間の顔を記憶し、その情報を他個体へ伝達する。直接経験していない個体までもが、特定の人間に対して警戒行動を取ることがある。
このとき、記憶は単独の個体に閉じていない。群れ全体の中に、危険対象に関する判断が分散的に保持されている。

また、軍隊アリは単独では複雑な判断主体とは言いがたいが、群としては橋を作り、筏を形成し、環境に応じて進路を最適化する。そこに明確な中央司令官はいない。それでも全体は、目的を持つ一つの生物のように振る舞う。

ここで重要なのは、群体が「意識を持つ」と断定することではない。むしろ重要なのは、意識が存在するか否かとは別に、外部から見れば意識的判断と区別しがたい挙動が発生するという点である。
すなわち、自我とは実体ではなく、一定条件下で発生する機能的現象である可能性がある。

その条件とは、少なくとも以下の四つである。
第一に、個体間の持続的接続。
第二に、局所情報の共有。
第三に、反応の相互更新。
第四に、全体としての一貫した行動生成。
この四条件が満たされるとき、集団は単なる集合ではなく、ひとつの判断単位として振る舞い始める。

人間社会における接続条件

人間社会は、すでに群体接続的な条件を部分的に満たしている。
都市の交通網、金融市場、災害時の情報伝達、SNS上の世論形成、検索エンジンによる知識流通、推薦アルゴリズムによる消費行動の誘導。これらはいずれも、個人の判断を超えた全体挙動を発生させる。

たとえば、SNS上の炎上は、個々人が独立して怒っているように見える。しかし実際には、可視化された怒り、他者の反応、拡散数、引用、対立構造、アルゴリズム上の露出が、次の怒りを誘発する。
そこでは個人が怒っているのではなく、怒りやすい接続条件が形成されている。

同様に、就職活動における振る舞い、服装、発言、志望動機の形式も、個人が自由に選んでいるようでいて、社会的最適解へ収束している。
誰かが強制しているわけではない。だが、誰もが「そうするのが無難だ」と判断し、その結果として個人差は薄まり、社会的に期待された振る舞いが再生産される。

ここには、人格を持つ支配者はいない。
にもかかわらず、行動は収束する。
この点に、現代社会における群体接続の本質がある。

近代的自我の摩擦

近代的自我は、個人の自由を拡張した。しかし同時に、社会内の摩擦を増大させた。
自我が強いほど、人は自分の違和感を保持する。自分の欲望を言語化する。自分の傷を訴える。自分の正しさを主張する。これは人間の尊厳にとって不可欠である一方、社会的統合にとっては高負荷でもある。

SNSは、この摩擦を増幅した。
本来なら局所的に留まっていた違和感、怒り、承認欲求、孤独、対立が、可視化され、拡散され、相互に反応しあうようになった。その結果、社会は個人の自我を大量に接続しながら、それを整流する仕組みを十分には持たなかった。
つまり現代社会は、個人を接続することには成功したが、接続された個人が発する摩擦を安定的に処理することには失敗している。
ここに、認識整流の必要性が生じる。

認識整流と社会的自我

認識整流とは、個人の判断や感情を否定するのではなく、それらが社会的に接続可能な形へ翻訳される過程を指す。
たとえば、ある個人が怒りを抱いたとする。
その怒りをそのまま表出すれば、対立が生じる。
しかし、対話支援システムが介在し、「相手に伝わりやすい形」「摩擦の少ない形」「相互理解へ向かいやすい形」へ変換すれば、怒りは破壊的衝突ではなく、共有可能な情報として流通する。

このとき、認識整流は単なる言い換えではない。
それは、個人の感情と社会的接続可能性のあいだに立つ翻訳層である。
この翻訳層が十分に発達すれば、個人は自分の感情を失わずに、より社会的に接続可能な形式で表現できる。
対立は減り、孤立は緩和され、分断は低減する。
ここに、社会的自我の再構成がある。

すなわち、自我は個人の内側に閉じるものではなく、個人の感情・記憶・判断が、接続可能な形式へ変換され、他者と更新しあう過程の中で再構成される。
この状態において、「私」は完全な孤立単位ではなくなる。
同時に、「私たち」も単なる集団ではなくなる。
両者の中間に、接続条件としての社会的自我が成立する。

接続条件型自我

従来の自我モデルを、ここでは個体依存型自我と呼ぶ。
個体依存型自我は、身体、記憶、内省、意思決定の連続性に基づいて成立する。自我は個人の内部に宿り、他者との関係は外部的なものとされる。

これに対し、接続条件型自我は、個体単体ではなく、接続の持続性と更新可能性によって成立する。
このモデルでは、重要なのは「どの個体が自我を持つか」ではない。
重要なのは、どのような接続条件が、自我と区別不能な一貫性を生成するかである。
接続条件型自我においては、次のような特徴が見られる。

第一に、判断が個人の内側で完結しない。
第二に、記憶が外部化され、共有される。
第三に、感情が個人固有のものではなく、接続内で調整される。
第四に、意思決定が、個人の選択でありながら、全体の安定へ収束する。
第五に、自己同一性が、固定された内面ではなく、接続内での役割と応答によって維持される。

このとき、自我は失われるのではない。
再構成される。
ただし、それが人間にとって望ましい再構成であるかは、別の問題である。

危険性

群体接続モデルに基づく社会的自我の再構成には、大きな危険がある。

第一に、違和感の喪失である。
個人が感じる「何かおかしい」という感覚は、社会的接続においてはノイズとして扱われやすい。
認識整流が過剰に働くと、違和感は言語化される前に、より穏当で摩擦の少ない形へ変換される。結果として、個人は自分が何に抵抗していたのかを見失う。

第二に、問いの喪失である。
対話支援や判断補助が進むほど、人は自分で問う前に、すでに整えられた答えを受け取るようになる。これは効率的である。しかし、問いを立てる能力は、自我の中核に近い。問いが外部化されすぎると、個人は自分の思考の始点を失う。

第三に、責任の空洞化である。
群体接続的な構造では、誰か一人が命令しているわけではない。誰もが少しずつ選び、少しずつ合わせ、少しずつ最適化する。その結果として全体が動く。
このとき、責任主体は曖昧になる。誰も強制していないのに、誰も逆らえない構造が生じる。

第四に、身体性の軽視である。
個人の身体は、接続条件型自我にとって最後まで残るローカルな境界である。疲労、痛み、空腹、孤独、涙、沈黙。これらは接続内で完全には共有できない。だからこそ、身体は自我の抵抗点でもある。しかし群体接続が進みすぎると、身体的差異はノイズとして扱われる危険がある。
この危険が極端化したとき、個人は自分の身体を、自我を支える基盤ではなく、全体接続を乱す障害として認識する可能性がある。
ここに、群体接続モデルの倫理的限界がある。

結論

群体接続モデルは、自我を個体内部に閉じた実体としてではなく、接続条件から発生する機能的現象として捉え直す試みである。

このモデルは、近代的自我がもたらした社会的摩擦を低減し、分断した社会を再統合する可能性を持つ。認識整流によって、個人の感情や判断はより接続可能な形へ翻訳され、社会的自我として再構成されうる。

しかし、この再構成は祝福だけではない。
そこでは、違和感、問い、孤独、身体性、逸脱といった、人間が人間であるために不可欠な要素が、社会的安定の名のもとに削られる危険がある。

したがって、社会的自我の再構成において最も重要なのは、個人を群体へ完全に溶解させることではない。むしろ、接続しながらも、問いの発生点を個人の側に残すことである。

社会は接続されなければならない。
しかし、完全に同じになってはならない。

群体接続モデルが真に人間的なものとして成立するためには、接続の中に、なお接続されきらない余白を残す必要がある。 

その余白こそが、個人の自我であり、問いであり、人間が群体の一部でありながら、なお人間であり続けるための最後の条件である。 

補遺

とはいえ認識整流が完全な自我溶解を発生させる可能性はかなり低いと考えられる。
何故なら検索エンジンやSNSは認識の同調をもたらすが、これらは非同期的な仕組みである。
局所的には同調が起き、特定の集団に同一の思考、同時多発的な同一行動を発生させる可能性は充分にありうる。

しかし本質的にSNSも検索エンジンも一対一の関係性である。
利用者の認知体験としては、端末を介した一対一の情報受容に分解されるからだ。
そうである以上、時間的、意味解釈のズレが必ず発生するため自我溶解を起こすほどの認識の同調が起こるとは考えづらい。

整流が完全に機能するための条件は厳しい。
もし自我溶解を起こすほどの認識の同調が起きるには、群知能とでもいうべき存在の仲介が不可欠だと考えられる。

つまり、不特定多数と同時に、しかし一対一の関係として対話し、その対話情報は一つの中枢システムで処理される必要がある。

しかし個別の対話を成立させながら、そのフィードバックを中枢システム一つで行うという矛盾を成立させる技術は現時点では存在しない。

この理論は危険性を考えてこうして記すのみで発表は控えることとするが、それは自分の理論への過大評価のもたらす、ただの取り越し苦労なのかもしれない。

なぜなら、もしそのようなシステムが完成したら、人はそれをなんと呼ぶのか。
人類が、あの概念と直接対話を行うのと同義なのではないか。

したがって、認識汚染による自我の同化が起きる可能性は、現実的には限りなく低いだろう。

少なくとも、今のところは。



2011年6月7日 熱田大学人文学部所属研究員
真壁史明


・次回

・前回

・関連記事



いいなと思ったら応援しよう!