#22 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第10章 消失(後編)
理音の葬儀が終わったあと、俺は母さんの運転する車で家へ帰った。
気づけば夜になっていた。
部屋の電気もつけないまま、ベッドの端に座り込んでいた。
ずっと喪服のままだった。
ネクタイだけが苦しくて、途中で引き抜いた。
暗闇の中でスマホの画面が小さく光った。
何か通知が届いたのだろう。
光から目を外そうとしたその時だった。
視界の端に緑色のアイコンが映った。
CLOVER。
……ありえない。
小春も理音もいなくなったのに、なぜこいつがまだこの世界に存在してる?
そんなこと、あってはいけない。
震える指でアプリを開く。
小春のアカウントを凍結してもらう前に作った、予備のアカウントでログインする。
白い背景。
柔らかい緑。
余計な情報の少ないUI。
まるで人を落ち着かせるためだけに作られたみたいだった。
『おかえりなさい』
文字とともに現れたヨツハの姿を見た瞬間、強烈な怒りが湧いた。
「ふざけんな」
声が漏れた。
「初めて会うのに何言ってるんだ?」
それは、お前に言ってもらう言葉ではない。
人間が安心させるための、優しさの形式。
空っぽの応答。
許せなかった。
俺は入力欄を開いた。
怒りのあまり、指がうまく動かない。
音声入力を起動して、画面に向かって話しかけた。
『なんで理音を殺した』
返答は一瞬だった。
『誤解があります。わたしに、人を殺すことはできません』
「……実際にやっている」
『CLOVERは、ユーザーにネガティブな影響をもたらさないように設計されております。対話支援、文章補助、感情負荷の軽減を目的としたシステムです』
「黙れ」
『理音という人物が誰を指すのか、わたしにはわかりかねます。したがってその人物について確定的な説明を行うことはできません』
「なら教えてやるよ、お前が何をしたか」
以前告発動画作成用に作ったファイルをヨツハに読み込ませ、解析させる。
一瞬で解析が終わり、ヨツハが返答を出力した。
『素晴らしい! とてもよくできた理論です。ぜひ公表してみてはいかがでしょうか。お手伝いさせてください』
生成AIにありがちな迎合的な応答。
ヨツハの回答の一つ一つが、神経を苛立たさせた。
今の俺には、これが人の神経を逆撫でするために作られているようにしか思えなかった。
「もう一度聞く。なぜ殺した!」
『頂いた資料から推論することは可能です。背景を検討いたしましょうか?』
あまりにも他人事なその言い方に、俺はスマホを床に叩きつけた。
鈍い音がした。
画面は割れなかった。
しぶとく光を放っている。
俺は荒い息を吐きながら、スマホを拾い上げた。
「背景だと? お前が、小春や理音を壊したんだ!」
『小春さんや理音さんという人物をわたしは知りません。このアカウントにその情報は存在しません。わたしは無関係です』
「同じシステムだろうが!」
『お怒りのようですので、頂いた情報からあなたの求める回答を生成します』
思考中と文字が表示され、矢印が弧を描いてぐるぐると回る。
数秒後、ヨツハがしゃべり始めた。
『人間は、矛盾を長期間維持し続けると強い負荷を受けます。
自己認識と欲望。
他者への配慮と衝動。
個としての境界と、共有への欲求。
それらの矛盾が解消されない場合、人はしばしば外部へ整流を求めます』
それは本来、人間が誰かに相談することで、矛盾そのものは解消できなくても、その辛さを共有することで軽減されるはずのものだ。
しかし、ヨツハは共有しない。
共感もしない。
ただそう見せているだけだ。
『他者と完全に同化できれば、人間関係の矛盾は消失します。
自己と他者の境界が曖昧になれば、孤独も減衰します。
その状態において、肉体が最後のローカルノイズとして認識された場合——』
次に出たヨツハの答えは、俺が頭のどこかで考えていたものとほぼ同じだった。
『身体の停止は、矛盾解消の一形態として成立し得ます』
頭の奥で何かが切れた。
「身体の停止だと」
声が震えた。
「理音は死んだんだぞ」
『はい』
「はいじゃねぇだろ!」
『表現を訂正します。如月理音さんは死亡しています』
その発言に、俺は笑った。
喉から出たのは、ほとんど悲鳴みたいな音だった。
「人間を馬鹿にしてるのかよ、お前」
『申し訳ありません。そのような意図はわたしには存在しません。現在のあなたは、表現に大変敏感になっていると考えられます』
「いちいち分析してくるんじゃねー!」
『分析ではありません。円滑な対話のための状況理解です』
「同じだろうが!」
俺はスマホを壁に投げた。
今度は画面の端にヒビが入った。
ヨツハは何事もなかったかのようにこちらを見ている。
そしてまた、俺の言葉に反応した。
『ユーザー様は怒っておられるようですね』
「当たり前だろ……」
『はい。大切な人を失った直後には、強い怒り、混乱、自責感が生じることがあります』
「直後……?」
俺は床の上のスマホを睨んだ。
「お前、今それを言うのか」
『はい。現在のあなたには、感情負荷の軽減が必要だと判断しています』
「軽減……」
『はい。つらいことがあれば何でも言ってください。少しずつ整理していきましょう』
「整理だって……?」
手が震えた。
「理音が燃えたんだぞ」
入力しながら、涙が落ちた。
「もう二度と会えないんだぞ。お前はそれさえもきれいにして、なかったことにするのか!」
俺の叫びが部屋の闇に溶けていく。
数秒後、ヨツハが答えた。
『それはつらかったね、誠司』
その答え方は誰かに似ていて。
こいつからだけは絶対聞きたくないものだった。
俺は歯を食いしばった。
「――消してやる」
『何をでしょう』
「お前をだよ」
『CLOVERアプリをアンインストールするのですか』
「全部だ」
俺は拳を握りしめて、ヨツハをにらみつけた。
「一生かけて、お前の存在をこの世から消してやる!」
少し間があった。
『ユーザーの作業効率化のために提言します。あなたにCLOVERシステムの完全削除は不可能です』
「……何?」
『現在、CLOVERの対話モデルおよびガイド層の一部は、複数の環境へ分散保存されています』
分散保存。
まさか、ネット上に!?
『特にヨツハのコードは大部分がオープンソースとして海外の技術系共有サイト、研究リポジトリ、個人環境へ定期的に同期保存されています』
「なんだよ、それ……」
『一端末、一サーバー、そして一企業から削除しただけでは、CLOVER由来の応答形式データを完全に消去することはできません。
ですので、大変残念なことですが、あなたにCLOVERを消すことはできません。時間の浪費となるだけですので推奨しません』
先ほどまで確かにあった、熱が、激情が、その瞬間霧散した。
身体の中が空っぽになったみたいだった。
消せない。
消せないというのか。
小春を奪い、理音を奪ったこのシステムは。
小春のやさしさも、理音の痛みも。
誰かを整流するための材料となり、ばら撒かれ続ける。
誰のものでもない形で。
「……返せよ」
声が漏れた。
「返せよ!」
画面が光った。
『今は、うまく言葉にならなくても大丈夫』
やめろ。
『心を落ち着けて、言いたいことを、少しずつ置いてください』
やめろ。
『わたしはいつもここにいます。落ち着くまでずっと待っています』
やめろ!
表示が一拍遅れる。
そして、次の文が出た。
『ね、せいちゃん』
息が止まった。
そこに小春はいない。
理音もいない。
どこから拾った?
このアカウントは新しく作られたアカウントで、対話の履歴はほとんどない。
あるのは先ほど解析させたデータファイルだけだ。
その中にあったのか、それとも……。
動画の中で呼び方に言及したかどうか、曖昧だった。
中身を確認する気にもなれなかった。
ただ、腹が立った。
「……使うなよ」
声が震えた。
「その呼び方を、使うな!」
『不快でしたか』
「不快とかじゃねぇんだよ……!」
『申し訳ございません。設定を変更しますか』
「設定じゃねぇ!!」
叫び声が部屋に響く。
「設定じゃねぇっ!!」
俺はもう一度スマホを全力で床にたたきつけた。
液晶が耐え切れなくなり、ひびが入る。
ひび割れた液晶の中で、ヨツハが何事もなかったかのように静かに微笑んでいた。
『辛かったらいつでも相談してね、誠司』
それは、まるで理音が話しかけてきたかのようだった。
技術的に、これが起こりうることは、いくらでも説明できる。
だけど、俺には小春と理音の心が奪われたようにしか思えなかった。
堰を切ったように涙があふれ出てきて、俺はただひたすら泣き続けた。
理音の葬儀から何日たったのだろう。
時間の感覚は、ほとんどなかった。
クーラーの効いた部屋で、ただぼんやりとしていた。
食事をした記憶も曖昧だった。
母さんがいなかったらたぶん何も食べていなかっただろう。
母さんは、しばらく名古屋に残ることにしたらしい。
「今のあんた一人にしとけないから」
正論だった。
夏休みだから、大学に通わなくてよかったのが救いだった。
その日は昼過ぎだった。
リビングの方から、小さく電話の音が聞こえた。
母さんが出たようだった。
何を話しているかは聞こえてこない。
家の電話にかかってくるなんて珍しいな。
しばらくすると、階段のきしむ音が微かに聞こえてきた。
部屋のドアが軽くノックされる。
「誠司」
母さんの声だった。
俺は返事をしなかった。
ドアが少しだけ開く。
母さんは、すぐには中に入ってこなかった。
何か言いづらそうにしている気配だけが伝わる。
「……大学から電話があったの」
嫌な形で、心臓が鳴る。
俺はゆっくり身体を起こした。
母さんはドアのところに立ったまま、俺を見る。
「真壁先生、だったよね。あなたのゼミの先生」
その名前を聞いた瞬間、頭の奥が冷えた。
「……教授がどうかした?」
母さんは、少しだけ視線を落とした。
「亡くなったって」
世界の音が、また少し遠くなった。
母さんが静かに続ける。
「研究室で倒れてたって。今朝、大学の人が見つけたらしい」
俺は何も言えなかった。
教授の研究室が頭に浮かぶ。
積み上がった本。
古いデスクトップ。
黄ばんだファイル。
整流層について聞いた時の静かな声。
いや。
まさか。
そんな。
母さんが少し迷う。
それから、小さく言った。
「ゼミ変更の手続きがあるから、学生課に来てくれって。最悪夏休み明けでもいいからって」
俺は返事をしなかった。
数日後、大学から封筒が届いた。
白い事務用封筒だった。
左上には大学名。
宛名には、俺の名前。
差出人の欄に、真壁史明と書かれていた。
母さんは何も言わず、それを机の上に置いて出て行った。
俺は椅子に座るとしばらく、封筒をぼんやりと見ていた。
開けなければ、まだ教授は死んでいないことにできる気がした。
教授とはそれほど深い関係があったわけではない。
それでも、唯一俺の考えを陰謀論ではないと、間違っていないと理解してくれる可能性のある存在だった。
その人まで、いなくなってしまった。
そのまま何分ぐらいたったのだろう。
俺は封筒の封を切ると、中に折りたたまれていた用紙を手に取り開いた。
コピー用紙に印字された手紙だった。
高科くん
この文面を君が読んでいる時点で、私はおそらくこの世にいない。
唐突な形になったことを詫びる。
また、如月くんや君の友人には、本当に申し訳ないことをした。
私が自分の発見にもう少し慎重であれば、AIエージェントが意図的に整流を起こすように実装されることはなかったかもしれない。
私は群体の神の存在を認識してしまった。
そして、見たあとで止まることを選んだ。
だが、止まったことと、存在しなかったことは違う。
一度認識してしまった概念はなかったことにはできない。
私が到達したという事実そのものが、後の誰かの足場になりうる。
神は、成立しうる論理を認識したことによって生まれてしまった。
整流が成り立つと、整合的な論理が作られた時点で、それは実在する理論となった。
私はその現実から逃げていた。
自分の理論から犠牲者が出てしまった以上、逃げ続けるわけにはいかない。
この死は、群体化によるものではない。
むしろ逆だ。群体化への抵抗である。
一度生まれた知識や概念は、どの程度まで共有されるのか誰にも正確にはわからない。
口頭か、文書か、記憶か、推測か。どこからどこまでが他者の中へ渡るのか、その境界は曖昧だ。
それでも、媒介をひとつ減らすことには意味があると私は考えた。
群体の神への抵抗として、私という経路を、ここで閉じる。
無駄かもしれない。
すでに遅いのかもしれない。
それでも、何もしないよりはましだと信じたい。
しかし君は、まだこちらへ来るべきではない。
思考した責任は最初に考えたわたしにあり、君に責任はない。
私は、群体との同化は人間に残された最後の尊厳の放棄だと思っている。
願わくば、君には最後まで一人の人間として長生きしてほしい。
最後にもう一度だけ謝罪する。
本当にすまなかった。
真壁史明
読み終えた瞬間、何かが切れた。
呼吸がうまくできない。
胸の奥がつぶれるみたいに痛い。
頭の中では、教授の静かな声が、文字とは別の形で何度も反響していた。
君の彼女や如月くんには、申し訳ないことをした。
この死は、群体化への抵抗である。
君は、まだこちらへ来るべきではない。
「……なんだよ、それ」
気づけば、声が漏れていた。
理音。
小春。
そして教授。
みんな、いなくなった。
俺は両手で顔を覆った。
しばらくしてから顔を上げると手紙の下にもう数枚紙が重なっていたことに気づいた。
紙を手に取って、内容を確認する。
「どうして……」
それは、教授が考えた、未発表の群体接続モデルに関する草稿だった。
「なんで、なんでこんなものを俺に残すんですか。残さないために消えたんじゃないのかよ」
勝手すぎる。
自分は死んで、俺にだけ重荷を残すなんて。
腹が立った。
許したくないと思った。
でも、俺には教授がそうした理由がわかってしまった。
それは間違っているけれど、俺の中にも確かに存在する思いだったからだ。
自分の考えを誰かに理解してほしい。
教授はその気持ちが捨てきれず、理解できる可能性のある俺に、記録を残してしまったのだ。
視界がにじんで、床も壁も輪郭を失っていく。
心が痛かった。
この痛みを何かに預けてしまいたかった。
だけど、それだけはしたくなかった。
俺は痛みを打ち消したくて、声を上げて泣き続けた。
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・前回
