#21 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第10章 消失(前篇)
俺は内心の動揺を悟られないよう、黙ったまま睨み返した。
「老いた学者が群体の神になると語った。学生がそれを録音した。面白い話だ。だが、それ以上の価値はない。せいぜい、いかれた科学者の妄想として消費されて終わりだよ」
「でも、今あなたは認めた」
俺は食い下がった。
「否定しなかった。群体化も、中心になろうとしてることも」
「認めたとも」
道隆はあっさりと言った。
「だが、認めたから何だというのだね」
言葉に詰まる。
道隆は静かに続けた。
「君は賢い」
道隆は、机の上で指を組んだまま言った。
「動画は全て見たよ。構造理解も悪くない。整流層へ自力で辿り着ける学生は、そう多くないだろう。だが、もっと興味深かったのは別の点だ」
道隆は少しだけ笑う。
「君は、“群体の神”という言葉を動画で使わなかったな」
背筋が冷えた。
「使えば終わると、理解していたのだろう?」
道隆の声は穏やかだった。
「整流層。認識同期。共同認知モデル。そこまでは“先端思想”として扱われる。だが、“神”を混ぜた瞬間、人は思考を止める」
「……」
「陰謀論。妄想。不安定な学生。そう処理される」
道隆は俺を見た。
「君は、その社会的受理構造を直感的に理解していた。だから切り分けた。その賢明さが、君に声をかけた理由の一つだよ」
俺は何も言い返すことができなかった。
そのとおりだった。
だから動画で九条親子の目的を金目当てとしたのだから。
道隆が話を続ける。
「だから、今君の録音が公に出たとして、まず疑われるのは私ではない。君の方だ」
「……何?」
「恋人を失い、友人を傷つけ、責任から逃れられずにいる学生。そんな青年が、ひとりの老学者に妄想を投影した――そう読まれる方が、社会的にはよほど自然だ」
その言葉は、まっすぐ胸の奥に刺さった。
「違う」
「違うかね」
道隆の声は静かだった。
「君は本当に、沢渡小春の死に何の責任も感じていないのか? 友人がそうなったことに、一片の負い目もないのか? もし少しでもあるのなら、その録音は最初から純粋な告発ではない。喪失に意味を与えるための物語だ。人は、そういうものをあまり信用しない」
言い返せなかった。
言い返せないこと自体が、腹立たしかった。
道隆はわずかに肩をすくめた。
「誤解しないでほしい。私は君を侮っているわけではない。むしろ逆だ。ここまで辿り着いたことへの労いとして、少し講義をしているだけだよ」
「講義……?」
「そう。真実であることと、流通することは違う。正しいことと、効力を持つことも違う。君はそこをまだ混同している」
「警察はそうかもしれない。マスコミなら」
「仮にマスコミに行ったとしよう。センセーショナルに騒がれるかもしれない。
集団自死事件の自殺者の元恋人が自責の念に取り憑かれて陰謀論に走った悲劇の事件として。
SNSの弊害や規制を訴えて、それで終わりだろう」
「学校に訴えて――」
「学校には採用した責任がある。認めると思うかね? こんな都合の悪い妄想を」
道隆は淡々と語った。
その姿には動揺や焦りは感じられなかった。
この男は、自分が捕まらないことを信じているというより、世界がこう動くと知っている感じだった。
情報は、文脈ごと流通する。
正しいことが、そのまま力になるわけじゃない。
それをこの男は、俺よりずっとよくわかっていた。
強く握っていた手の中のスマホが、急に安っぽいものに思えた。
録音している。
証拠がある。
だから何だ。
この男の言う通り、誰も信じないのではないか。
CLOVERは社会的に広く普及し始めている。
俺が訴えたところで、聞いてもらえない。
こうして呼び出したのは、九条道隆の掌の上だったのだ。
俺には、何も止められない。
何も変えられない。
現実を突きつけられ、目から涙が溢れ落ちそうだった。
ここで泣いたら負けだ。
必死にこらえて考える。
せめて、せめて何かないのか。
この男の妄想じみた計画を穿つ一欠片。
全てを思い通りにさせるなんて耐えられない。
でも、あいつの言う通りただ学生の俺に一体何が――。
その時ふと、脳裏をよぎった。
死んだ小春が誰かを通じて俺に残したメッセージ。
群体の神は空っぽの神。
最後に会った時、理音は言った。
『どこまでなら理音なの?』
――わたしはかもめ。わたしは女優。
かもめであり女優である。
そうだ。
小春は最初から俺に答えを教えてくれていたのだ。
自分が取り込まれた構造の答えを。
最後に残っていた小春の欠片が。
俺は、群体の神の何たるかを理解した。
この男の計画は、根本が間違っている。
「あなたは間違っている」
俺は確信をもって告げた。
「何をかな。先ほどわたしの予測は――」
「そうじゃない。それはあなたの言う通りなんだろう。俺は子供で、CLOVERは社会に組み込まれている。きっと俺が何をしてもだいたいあなたの言うとおりになるんだろうな」
「ならば一体――」
「間違っているのは、あなたの理論だ」
道隆が初めて、わずかに眉を動かした。
「――どういう意味だ」
「群体意識に、中心なんて存在しない」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「あるように見えるだけです。もし本当に境界が溶けていくなら、そこに固定の王座なんて残らない。最初の座標とか、方向づける者とか、そんなの全部途中までの幻想だ。あなた、自分が神になるつもりでいるけど、そんな場所は最初からない」
俺はそこで一度言葉を区切ると、道隆の目を見据えた。
「あなたが唯一神になる道は、存在しない」
道隆は、数秒黙った。
その沈黙に、ほんの少しだけ期待した。
もしかしたら届いたかもしれない、と。
だが次の瞬間、その期待はきれいに砕けた。
「だからこそだよ」
道隆は、ひどく静かな声で言った。
「永遠の王などいらない。固定の玉座など、もちろんない。だが、最初に火を入れる者には意味がある。最初の収束点。最初の座標。最初に人々が“そこだ”と向く場所。中心とは保持される点ではなく、起動点だ。君はまだ、群体を静的なものとして誤解している」
違う。
それは破綻している、と言い返しかけて、やめた。
もう無理だった。
この人は論理を間違えている。
でも、その間違いを自分の欲望に都合よく読み替えるところまで行ってしまっている。
理解できないんじゃない。
理解した上で、そこに自分の夢を差し込んでいる。
戻らない。
これだけ高い知性を持っていても、自分に都合のいい夢を見続けているのだ。
そして、俺にその夢から目覚めさせてやる義理は欠片もない。
「帰ります」
そう言って立ち上がろうとした時だった。
「君、大学院に進む気はないかね」
道隆は湯呑を持ったまま、何でもないことのように言った。
「……は?」
「その頃、私がまだ神になっていなければ、の話だが。君のような学生は、今どき貴重だ」
道隆は演説でもするかのように両手を大きく広げた。
「特待生として迎え入れ学費は免除しよう。研究室に入った際は最大限便宜を図る。研究員で終わるようなことはさせないと約束しよう」
道隆の言葉に、俺はゼミの飲み会の時に真壁教授から聞いた話を思い出した。
教授は研究員時代が長かったそうだ。
先の見えない研究生活に何度も心が折れそうになったと。
就活をしなくていい。
その上研究者としてのレールが保証される。
これから社会に出ないといけない俺にとって、魅力的な提案だった。
俺はしばらく黙った。
それから、吐き捨てるように小さく言った。
「……ふざけるな」
立ち上がり、道隆に背を向けた。
息子の代わりの部品にでもするつもりなのか。
俺にはこの男のことが理解できなかった。
「帰るのか」
「ええ」
「君は社会に出たら苦労するだろうよ」
その言葉に振り返りそうになって、やめた。
「――知ったことか」
それだけ言って、俺は部屋を出た。
町家の外に出ると、京都の夕方の空気がやけに乾いていた。
観光客の笑い声が遠くでしている。路地の向こうからタクシーが曲がってくる。どこもかしこも普通の街だった。
駅まで歩く間、足の感覚がなかった。
録音は残っている。
道隆の声も、俺の声も、全部手の中のスマホに入っている。
再生ボタンを押せば、さっきの会話は何度でも聞けるはずだった。
道隆は本音を語った。
CLOVERが自我を溶解させ、集合意識に同調させる力があることを認めた。
そして群体の神の中心となり、自分が社会を支配すると述べた。
証拠はある。
それでも何も止められない。
道隆の言うとおり、因果を物理的に証明できたわけじゃない。
そもそも科学的な証明が不可能な領域だ。
誰が信じる?
あの声が、耳の奥にこびりついて消えない。
京都駅へ着いたころには、空が少し暗くなり始めていた。
夕方とも夜ともつかない色だった。
観光客の声。
キャリーケースの車輪の音。
土産袋を下げた人たち。
ホームへ向かう人波。
ホームへ向かう途中で、俺は自販機の前にいる女性に視線が止まった。
セミロングの髪。
整った顔立ち。
女性は振り返って、勝ち気な笑みを浮かべた。
「誠司?」
理音、こんなところにいたのか。
「飲み物、何にする?」
飲み物なんかいい。一緒に帰ろう。
その言葉に、少しだけ安心しかけた時だった。
掌の中のスマホが震えた。
なんだよ、せっかく理音と会えたのに。
俺は無視しようとした。
しかし電話はいつまでたっても切れない。
ごめん、理音。
少しだけ待っててくれ。
観念して画面を見ると、母からの着信だった。
ちょうどいい。理音が見つかったことを伝えよう。
通話に出る。
「……もしもし」
『誠司、落ち着いて聞いて!』
母さんの声は、嗚咽まじりだった。
「理音ちゃんが――」
「え?」
俺は理音を見る。
自販機の前。
確かに、いる。
いや、いた?
向こう側で、誰かが泣いている声がした。
『理音ちゃんが、見つかったの』
世界の音が、急に遠くなった。
「……見つかった?」
母さんは何を言ってるんだ。
理音は、今ここで、俺が……。
『マンションの屋上から——』
何を言われているのかわからなかった。
俺はもう一度、理音の方を見る。
さっきまでいたはずの場所に、誰もいなかった。
自販機だけが光っている。
俺の喉が、引きつった。
「待て、待ってくれよ」
声がうまく出ない。
「理音なら今そこに……」
そこまで言って、止まる。
今、俺が見ていたのは……。
『……誠司? 大丈夫? しっかりして!』
「……」
周囲の人間が、普通に歩いている。
新幹線の発車メロディが鳴る。
駅員のアナウンス。
旅行客の笑い声。
全部そのままなのに、俺だけが世界から落ちたみたいだった。
気づくと、俺は新幹線に乗っていた。
どうやって乗ったのか覚えていない。
どうやって家に帰ったのか、記憶がない。
俺は未来を失った。
いつのまにか、黒いネクタイを締めて通夜に出ていた。
理音の写真が、祭壇の中央に置かれている。
読経の声が右から左に流れていく。
写真の理音は笑っていた。
大学の入学式の頃に撮った写真だろうか。
まだ髪が長い。
小春に似る前の理音。
俺は焼香の列に並びながら、ずっと考えていた。
いつからだった?
どこで間違えた?
わかっていた。
間違えたのは最初からだ。
小春のときから。
俺はずっと、“正しい人間でいよう”として逃げていた。
自分自身や相手と傷ついてでも向き合う覚悟が足りなかった。
「誠司くん」
理音の母親だった。
目が赤い。
なのに、俺を見る顔は優しかった。
それが余計につらかった。
「来てくれてありがとう」
「……」
言葉が出ない。
理音の母親は、少しだけ笑った。
「最後に、一緒にいてくれたんでしょう?」
胸が潰れそうになった。
「理音ね」
彼女が、祭壇の写真を見る。
「幸せだったと思うの」
違います。
その言葉が、喉まで出かかった。
違うんです。
俺は。
俺が。
「俺が――」
言葉が漏れかけていたことに気づいて止めた。
何を言うつもりだった?
娘さんは、俺のことをずっと好きだった。
でも、自分では届かないと思った。
だから小春に寄っていった。
だから――。
そんなこと言えるわけがなかった。
口にした瞬間、理音を侮辱していることになる。
理音の父親が、静かに俺の肩に手を置いた。
「誠司くん」
低い声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
「君が背負うべきことじゃない」
その優しさに、耐えられなかった。
「違うんです……!」
気づけば、泣き崩れていた。
情けない声だった。
子供みたいに。
でも誰も怒らなかった。
周囲の大人たちは、ただ静かに見ていた。
『恋人を亡くした若者』を見る目だった。
違うんです。
俺は、そんな綺麗なものじゃない。
でも、その否定すらできなかった。
真実を言えないことが、俺に与えられた罰なのかもしれない。
翌日。
火葬場へ向かう車の中で、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。
空は曇っていた。
灰色だった。
なのに火葬場は、妙に綺麗だった。
白い壁。
静かな空調。
理音の棺が運ばれていく。
白い花が周囲にたくさん乗せられていた。
理音のイメージではなかった。
あいつに似合うのは、もっと明るい――
そんなことを考えているうちに炉の前で、最後の別れをする時間が来た。
親族たちが、棺に花を入れていく。
俺も促された。
ほとんど親族みたいな扱いだった。
一緒に旅行に行ったことを、みんな知っていたからだ。
理音が一緒にいたかった相手。
理音が想っていた相手。
そういう場所に、俺は立っていた。
俺は白い花を一輪、棺の中へ置く。
理音の顔は、見られなかった。
見てしまったら、立っていられる気がしなかった。
係員が静かに頭を下げる。
棺が炉の奥へ滑っていった。
重い音を立てて、炉の扉が閉まった。
それまでおぼろげだった光景が、急に現実のものとなった。
理音が、この世界から完全にいなくなったことをわかってしまった。
扉の向こうで、理音が燃えていく。
身体が。
声が。
髪が。
全部。
気が付くと、待合室で座っていた。
誰かがお茶を配っていた。
テレビでは昼のニュースが流れている。
理音がいなくなったのに、世界は何事もなかったかのように進んでいく。
俺はかつて理音が貸してくれた数珠を握り締めたまま、ただ炉のある方向を見続けていた。
・続き
・前回
