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#17 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第8章 群体接続(前編)

「理音! 間違えちゃった、じゃないだろ」

理音は視線を逸らした。

「布団は二組あるから」
「そういう問題じゃない!」
「そういう問題じゃないの?」

理音は本当に少しだけ首を傾げた。
その仕草が妙に自然で、だから余計に怖かった。
今の理音は、どこまでが自分の意志で、どこからがCLOVERに同調させられた小春の意思なのか、わからない。
俺は額を押さえた。

「……フロントに聞いてくる」
「誠司!」

背中にかけられた理音の声を無視して、俺はフロントに向かう。
受付にはさっきの中居さんが立っていた。これなら話が早い。 
「どないしました?」

中居さんが愛想のよい笑みを浮かべる。

「あの、部屋のことなんですけど――」
「ええ」
「あの、別の部屋空いてませんか?」
「何やまずいとこございました?」
「部屋はとてもよかったんですが、もう一部屋お借りしたくて」
「一部屋だけ空いとりますが、どうしてどす?」
「理音――予約した如月さんとは別の部屋で寝たいんです」

そう告げた瞬間、先ほどまでにこやかだった中居さんが能面のような無表情に変わった。

「申し訳ないどす。お部屋満室どしたわ」
「えっ? 今空いてるって――」
「満室どす。お連れさんお待ちでしょうに、はよ戻りなはれ」 

中居さんはそういうと、ああ、用事思い出しましたわ、とフロントを立ち去る。立ち尽くす俺を一瞥する目がとても冷たく、俺はそれ以上声をかける事ができなかった。
すごすごと部屋に戻ると、理音が備えつけの急須を使ってお茶を入れていた。

「玉露だって。すごいね」

理音の向かいに座ると、俺は息を吐いた。

「他の部屋空いてないって」
「そう」
「別々にしたいって中居さんに言ったら、なんか怒らせちゃった。わがままな客だと思われたのかな」
「中居さんってさっきの人?」
「うん」
「誠司さぁ、就職したら女性と話すとき気をつけたほうがいいよ」
「俺そんな下ネタとか女子に言うタイプじゃないぞ」
「そういうことじゃ無いんだよね」
「じゃあなんだよ」
「端的に言うとデリカシーがない」
「中居さんにはちゃんと丁寧語で話したけどな」
「だからそういうことじゃ無いんだよね」

理音が呆れたように首を振った。
理音の言いたいことがいまいちピンと来ない。
しかし部屋の用意を拒否された以上、今夜はここに二人で泊まるしかなかった。

「こうなったら仕方ない。この部屋に泊まるよ」
「最初からそうすればいいのに」
「ただし、布団は離す。かなり離すからな」
「わかった」

理音は素直に頷いた。
頷かれると、今度は俺の方がひどいことを言っているような気になる。
実際、ひどいのかもしれない。
理音は俺と京都まで来た。俺はそれを許した。
親にまで話させて、京都まで連れてきた。
なのに部屋に入った途端、距離を取ろうとしている。
俺は自分で自分がわからなかった。

宿の夕食は、理音から聞いた金額のわりに豪勢だった
小さな食事処で、俺と理音は向かい合って座る。
湯気の立つ味噌汁、刺身と焼き魚、小鉢、漬物。
上品な和食といった趣だった。

「食べないの?」

理音が聞く。 

「食べるよ」

俺は箸を取った。
料理は美味しかった。
でも、どこか遠くに感じた。
理音はいつもよりゆっくり食べていた。
箸の動きも、姿勢も、昔から綺麗だった。
今さら気づいたわけではない。
けれど今日は、何もかもが異様に目につく。

「誠司」
「何」
「そんなに見られると食べづらい」
「あ、悪い」

理音は少しだけ笑った。

「昔からそうだよね」
「何が」
「自分が何か考えてるとき、見てるつもりないのに見てる」
「……そうか?」
「うん。小春も言ってた」

箸が止まった。
理音も、言ってから気づいたように目を伏せる。

「ごめん」
「いや」

小春の名前が出るたびに、空気が少し変わる。
見えない膜が落ちるみたいに、俺と理音の間にあるものが重くなる。

「誠司とこうやって旅行来るのって何年振りだっけ」

理音が話題を変えた。

「んー、ああ、どうだろ。学校行事抜いたらあれだ。お互いの家族みんなで伊豆へ行ったろ。そのとき」
「あー、確かあれ中2の夏だっけ? もうそんな前なんだね」

中3の時は受験があったし、高校に入ってからは合同で家族旅行というには大人になり始めていた。

「楽しかったね、あれ」

理音が懐かしむように目を細める。

「そうだな……。そういえばお前あんときロープウェー乗り場の隣の秘宝館指さして『あれ何? あれ行ってみたい』とか言ってたよな」
「はっ!? えっ!? わ、わたしがそんなこと言うわけないでしょう!?」
「大人みんなめっちゃ困った顔してたのに、いつまでもしつこく入る入る言ってさ」
「い、言うわけないから! 誠司、それ絶対捏造してるって!」
「いやいや、俺めっちゃ面白かったから覚えてるし。なんならそれしか覚えてないレベル」
「はぁ!? 普通わたしの水着姿に感動したとかそういうのでしょ」
「それは――ないかな」

嘘だけど。きれいすぎてどぎまぎしたのは覚えてるけど。

「誠司はさー、やっぱり社会出たら女性と話すとき注意しないと社会的に死ぬよ?」
「そん時は理音、起業して俺を雇ってくれ」
「なんでわたしがそこまでお世話しなきゃいけないのよ!」

俺は笑いながら、ふと理音とこんな風に話すのが久しぶりだったことに気づいた。
小春が死んで以来?
たぶん、もっと前からだ。
大学に入って、小春との関係が深まって、そこから本当にほんの少しだけ理音と距離ができた。
距離を取らないといけない、頭のどこかでそう思うようになっていたのかもしれない。
元々俺と理音の距離感は、これくらいだった。

――距離が変わったのは誰だろうね。

前に理音がそう言ったことを思い出す。

「誠司、覚えてる?」
「何を?」
「出会った頃のこと」
「なんとなくは」

うちの母親が働いてたパート先で、引っ越してきた理音の母親が働くことになって、
その縁で仲良くなったんだ。

「最初は割と冷たかったよな、俺に」
「まあ最初はねぇ……」

理音が遠い目をした。

「引っ越してきて、昔からの友達いなくなって。納得してなかったからやさぐれてたんだよね」
「そうだったの?」
「うん、だから周囲とも距離があった。それでお母さんがたぶん心配して、誠司のお母さんに頼んで、一緒に遊びに行くようになったんだと思う」
「そういう流れだったのか」
「誠司、わたしが邪険にしてたわりには割と積極的に話しかけてきたよね。今思えばわりとらしくなくない?」
「それは――親に頼まれたから?」
「嘘。さっきそういう流れだったのかとか言ってたじゃん」

理音の言うとおりだった。
特に母親に何か言われたわけではない。
ただ連れられて遊びに行った先に理音がいただけだ。
クラスに転校してきた、クールでミステリアスな美少女が。
らしくもなく積極的に話しかけたのは――舞い上がっていただけだ。
当時少年漫画のラブコメが流行ってて、運命を感じたのである。
淡い男心というやつだ。
淡い、じゃなくて『痛い』かもしれないけど……。

「あれ、そういえばなにがきっかけで理音は俺と仲良くしてくれるようになったんだっけ」
「――お、覚えてないの?」
「うん、なんだっけ?」

俺が尋ねると、理音は深々とため息をついた。

「はぁー。あんたってホントに……。いい、言わない」
「な、なんでだよ。気になるだろ」
「言わない!」
「えぇ……」

俺が困っていると理音がくすくすと笑った。

「わたしがこんな風に言えるのは誠司だけだよ。誠司には、昔からわりと何でも言えた。腹が立ったら怒れたし、呆れたら呆れたって言えた。でも、それはたぶん、誠司がわたしを嫌わないって知ってるから」
「理音を嫌う男なんていないだろ」
「そういうところ」

理音は少しだけ笑った。

「そういうところが、ずるいんだよ」

理音はそれ以上具体的には言わなかった。
俺も聞けなかった。

食事を終えて部屋に戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。
窓を開けると、細い路地の向こうに小さな灯りが見える。
遠くから人の声がかすかに聞こえた。観光地の夜。どこかで誰かが笑っている。
理音は窓際の椅子に腰かけた。
少しだけ部屋で休んで談笑する。
20分ほどしたところで、理音が言った。

「そろそろお風呂、いこっか。本物の温泉らしいよ」

理音が自分の荷物を触り始める

「それは楽しみだな」

その動作を見ないようにしながら、俺も自分の着替えを取り出す。

「浴衣は――ここかな」

立ち上がった理音が備え付けの小さなクローゼットを開ける。

「浴衣着るの?」
「その方が旅行感あるでしょ」
「そりゃまあそうなんだけど」

強く止めるのも何か意識してるみたいで気が引ける。
結局そのままお互いに浴衣を持って浴場に向かう。
上がったら部屋に戻ると理音に告げて入り口で別れた。

「ふー、確かにいいお湯だった」

30分くらいで温泉を上がって着替えると、俺は部屋に戻った。
理音が戻ってくる前に布団を敷いておこう。
できる限り離しておかないと。
そう思って部屋に入ると、旅館の人の手によって布団は既に敷かれていた。
二組の布団がぴったりとくっついている。
ご丁寧に窓側の真ん中よりに机がよけられていて、布団を離すにはまず机からどかさないといけない。
釈然としないものを感じながら、重い机を部屋の隅に寄せる。

「よし、あとは布団を――」

額を腕で拭って布団へ向かおうとしたその時だった。
ガラガラと扉が開いて理音が姿を現した。
宿の浴衣を着ていた。髪は少し湿っていて、肩のあたりでいつもより柔らかく見える。

「はぁー、やっぱり温泉はいいね」
「理音、もう上がったのか」

まだ俺が部屋に戻ってから5分くらいだぞ。
女子にして早すぎないか?

「わたしのぼせやすいんだよね。だから長湯しないんだ。ところで誠司、何してんの?」
「いやちょっと布団を……」
「いいじゃん、別にこれで。めんどくさいでしょ」

そういうと、理音は荷物を鞄に入れて入り口側の布団の上に座って窓側に足を延ばした。
両足がもう片方の布団の上に投げ出されており、布団をどかすのが難しくなった。

「理音、足――」
「見たいの?」

理音が浴衣の裾をつまんであげようとする。

「やめろ!」

理音は手を止めた。
冗談みたいな笑みが、そこで少しだけ薄くなる。
それから、浴衣の裾を直しながら、ぽつりと言った。

「そんなに嫌だった?」
「そういうことじゃないだろ」
「そうかな……」

理音がうつむいた。

「誠司はわたしとは距離を取るね。小春には近づくのに」
「そんなことない。昔からずっと近くにいたのは理音だろ」

昔からの友達で。
親の仲がなければ、今の関係になっていない高嶺の花。

「でも、誠司は小春選んだじゃん」
「それは――」

小春と付き合うことになったとき、告白してきたのは、小春からだった。
俺の何がよかったのかは、いまだによくわからない。
ただ驚きと喜びで、その時の俺に断るという選択肢はなかった。
理音のことが、全く頭をよぎらなかったといえば嘘になる。
だけど俺と理音の縁は親がつないだもので。
理音と付き合うとかその時の俺には想像できなかった。
うまくいかなかった時のことが怖かっただけなのかもしれない。

「わたしね、小春のお葬式にでたとき、本当に悲しかったけれど、ほんの少しだけ思ったの」
「――何を」
「これで誰も悪者にならなくて済むって」

理音がようやく俺を見た。
その顔には自嘲気味の笑みが浮かんでいた。

「最低でしょ」
「違う」

すぐに言った。

「違わないよ」
「違う」

俺はもう一度言った。

「それで最低なら、俺はどうなるんだよ」

理音は少しだけ目を伏せた。

「誠司は、いつもそうやって自分の罪に持っていく」
「事実だろ」
「事実だけど、それを盾にしないで」

言葉が刺さった。
理音は静かに言った。

「わたしの気持ちまで、誠司の罪にしないで」

俺は完全に黙った。
理音はただそこに座って、俺をじっと見上げていた。

俺は今、選ばされている。
いや、たぶん本当、ずっと前から選ばされていた。
小春と向き合うこと。
理音と向き合うこと。
自分の欲望と向き合うこと。
理音の右手が、枕の上に置かれている。
その手に触れれば、何かが変わる気がした。
触れたいと思った。
それは本当だった。
理音が欲しいかと聞かれたら、俺は否定できない。
小春と会う前に理音に告白されていたら、きっと受けていた。
理音に好かれて嫌な男なんて、いないと思う。
少なくとも俺はそうだった。
でも、今なのか。
今ここで、理音を受け入れることは、理音の意志を受け入れることなのか。
それとも、この理音の気持ちもCLOVERが作った小春の形に過ぎないのか。
俺にはわからない。
わからないまま踏み込むことは、できなかった。

「ごめん」

俺は言った。
理音の表情が、少しだけ止まる。

「今は、ダメだ」

言った瞬間、自分の中で何かが終わった音がした。
未整理だった気持ちに、整理がついた。
理音は、ゆっくり目を伏せた。

「そっか」
「嫌いとかじゃない」
「うん」
「理音が嫌なんじゃない」
「うん」
「今の状態で、俺がそうするのは――」
「わかってる」

理音は遮らなかった。
ただ、俺が言い終える前に、静かに受け取った。
その受け取り方が、あまりにも綺麗で。
だから俺は、理音に伝わったと思った。

「わかってるよ、誠司」

理音は小さく笑った。

「なんとなくそうするって思ってた」
「理音」
「誠司、ちょっと早いけど寝よっか。明日が本番だし」
「――うん」

理音は浴衣を整えると布団に潜り込む。
俺は電気を切ると、隣の布団に寝転んだ。

薄暗い視界の中で、一瞬だけ理音の方に視線を向ける。
理音は小さく丸まって布団に潜り込んでいて、様子がわからなかった。
微かに布団が震えているように見えた。
冷房が効きすぎているのかもしれない。
小春も冷房苦手だったしな。
俺は起き上がってエアコンの設定温度を上げると、再度布団に潜り込んだ。
意識しないよう理音から背を向けて目を瞑る。
少し暑く感じたけど、ここは我慢だ。

これでよかったんだ。
理音の感情が、本当に理音由来のものなのか、それとも小春のものなのかわからない今、
不用意なことをするわけにはいかない。
それは理音も、そして小春までも裏切ることになる。
今だけは、もう少しだけ今の距離のままでいるしかない。

明日、九条恒一と会い、けりをつける。
全て終わって理音が元の理音に戻ったら――そうだ、今度は俺から旅行に誘おう。
こんな調査や仕事みたいな旅でなく、もっと心から楽しむための旅行。
その時は、元に戻った理音に断られるかもしれないけどそれならそれで仕方がない。
でも、受け入れられたのならその時は――
やはり緊張と疲れがあるのだろう。
考えているうちに俺の意識は、次第に闇の中に沈んでいく。

「――ほら、やっぱり理音じゃ届かない」

意識が途切れる寸前に、理音の声が聞こえた気がした。
俺はその言葉の意味を理解する前に、深い眠りへと落ちていった。

朝。
鳥の声で目が覚めた。
一瞬、どこにいるのかわからなかった。
畳の匂い。障子越しの光。遠くの車の音。京都の宿。
俺は身体を起こした。
窓際に理音が座っていた。
もう起きていたらしい。浴衣のまま、外を見ている。
その姿を見て、なぜかわからないが猛烈に胸騒ぎがした。

「理音……?」

声をかけると、理音はゆっくり振り返った。
そして、柔らかく微笑んで言った。

「おはよう、せいちゃん」

世界が、止まった気がした。


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