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#5 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第2章 CLOVER(前編)

図書館裏の空気は、夕方になると少しだけ薄くなる。
講義棟のざわめきも、サークルの声も、ここまで来ると一枚膜を隔てたみたいに遠かった。
風が通るたび、古びたベンチの背もたれがわずかに軋む。頭上では、もう夏に近い葉の色をした枝が、斜めの光を細かく刻んでいた。
俺と理音は、その古い木のベンチに並んで座ったまま、スマホの白い画面を見ていた。
目の奥にはまだあの増えた下書きの1行が残っている。

せいちゃんへ

下書きのタイトルはそうなっていた。
“せいちゃん”という呼び方が、胸に突き刺さった。
俺をこう呼ぶのは、付き合ってからの小春だけなのだから。
その小春はもう死んでいる。葬儀も終わった。
ニュースにもなった。
俺の中ではまだ終わっていないけれど、それでも結果は確定しているはずなのに……。
まだ終わっていない。
このアカウントはそう言っているようだった。
一昨日死んだ人間が、五分前に新たに記事を更新した。俺が知らない何かが、小春の死んだあともまだ動いている。

「やっぱり、なりすましだよね……」
「でも、なりすましなら、なんで」

せいちゃん、なんだ?
アカウントの中の情報を調べれば、その呼称や、それが誰なのかを小春が残した文章があるのかもしれない。それにしても……。
俺は思わず理音の横顔を見た。
内心はわからないが、怯えの色は浮かんでいなかった。
理音は数秒画面を見つめたまま黙っていた。
それから小さく息を吐いた。

「――あのさ」
「ん?」
「かもめのメールなんだけど」
「ああ……」 
「あのメール、ちょっとおかしいんだよね」
「そりゃあ」

さっきの下書き増加と同じ、小春の死後に送られた現象である。いまさらいうような話でもない。
さすがの理音も動揺しているのだろうか。

「そういうことじゃなくて――」

理音は膝の上のノートに視線を落としたまま答えた。

「かもめの引用部分のこと」
「どこがおかしいんだ?」

理音はすぐに答えなかった。
指先でノートの端を一度だけなぞり、それから大きく息を吐く。やがて、小声でつぶやいた。

「小春が好きだった台詞のはずなのに、引用が不完全なんだよ」
「そうなのか?」
「これ見て」

理音が自分のスマホを操作して、こっちへ画面を向ける。戯曲の紹介サイトか、引用解説のページらしかった。そこにはこう書かれていた。

わたしは――かもめ。 ……いいえ、そうじゃない。 わたしは――女優。

「……途中が抜けてる?」
「そう」

理音は低い声で言った。

「小春のメールは、“いいえ、そうじゃない”が消えてる」

サイトは、その文章の解釈についても記載していた。

わたしはかもめのような、誰かに意味づけられ消費される存在ではない。わたしは自分の意志で役割を引き受ける女優だ。

「単に間違えただけかもしれないだろ」
「小春が? 自分の好きなものに適当なことする子?」

理音のその一言で、俺は口をつぐんだ。
自分の好きなものを、小春は雑に扱わない。
引用するなら確認するはずだ。

「じゃあ、意図的に抜いた?」
「その可能性は高いと思う」
「ならその意味は?」
「そこが難しい」

理音は画面を引っ込めて、今度は自分の言葉で続けた。

「元の台詞は、“わたしはかもめ”をいったん否定して、“わたしは女優”へ言い直す流れでしょ」
「そう書いてあったな」
「でも小春の文だと、その否定がない」
「――つまり、かもめであり、女優である?」

先ほど見た解釈から、否定のニュアンスをなくす。頭に思い浮かんだそれは、あまり受け入れたくないものだった。

――わたしは誰かに意味づけられて消費される存在。そして誰かのの前で役割を演ずる存在。

これが、小春が最後に俺に言いたかった言葉ということなんだろうか……。
俺が黙りこんでいると、理音が先回りするみたいに言った。

「誠司、そうと決めるのはまだ早いよ」

理音の声はさっきまでより少しだけ強かった。

「……何が?」
「利用してるだけと思っている相手に、またねなんて言わない」

理音の言葉が真実とは限らない。
ただ理音は俺がいちばん沈みこんで動けなくなる解釈を潰してくれたのだ。
俺は頭を振ると、理音の言う通り、額面通りに受け取って考えることにした。
もう一度メールの文面を思い返す。

わたしはかもめ わたしは女優 IDとパスワード またね。

「どう考える?」
「これが小春自身の意思――予約送信とかそういうものだとするなら、やっぱり自分について調べてほしい、じゃないかな」
「自分について?」
「正確には、自分に起きていたこと、かも」

理音は少しだけ言葉を選んで続ける。

「小春は他殺じゃない。そこはもう、葬儀の空気とか、周囲の話し方でもほぼ間違いない」

それはニュース記事にそう書かれていたというだけでなく、葬儀のときの漏れ聞こえる言動や雰囲気で間違いなかった。
他殺なら犯人を捜してほしいという意図だと考えられる。
けど自殺ならば、ここで俺に一体何を見つけてほしいのか。
なぜ死後に届く形にする必要があったのか。
なぜただのSNSであるCLOVERなのか。
どこまで行っても、つながらない。

「……結局、あの下書きを調べるしかないか」
「そうなるね」

理音は頷いた。

「怖いけど、少し覚悟ができた」
「確かにな」

見るべき理由ができた。
それだけで恐怖心が少し和らぐ。
人間は未知なるものに輪郭ができると、その分安心できる生き物らしい。
俺はCLOVERの画面へ視線を戻した。
ヨツハは相変わらず、画面の右端で静かに待機している。
白と灰緑の曖昧な色。顔立ちは整っているのに、印象が残らない。
数秒前に見たはずなのに、少し目を離すと輪郭が薄れる。

『前回の閲覧位置から再開できます』

何も言ってないのに、ヨツハから突然音声が発せられた。

「話を聞いてたみたいだ……」
「よくできてるね。具体的な指示なんか出してないのに。どういう原理なんだろ」
「――今のAIはできがいいんだろ」

そう答えながら、俺はまだ少しだけためらっていた。
いま画面の下に増えたあの一行を開けば、もう戻れない気がしたからだ。
それでも、見ないという選択肢は、もうなかった。

俺はヨツハに、増えた下書きを開くよう依頼した。
表示が切り替わり、本文が浮かび上がる。

せいちゃんへ
まだ、わたしの残響が残っているうちに。
たぶん、これが最後になりそうです。
わたしがわたしとして伝えられる何か。
最初はただ、便利で安心できるだけでした。
自分で考える前に、もう“こう言えばいい”が用意されていて、しかもそれが、ちゃんと正しい。ちゃんとやさしい。
だから否定しづらい。
否定されても、否定されたのはわたしじゃない。
少しずつ、わたしは与えられたわたしになっていきました。
前よりちゃんとしていて、前よりやさしくて、前より小春らしいのに、前よりわたしじゃない。
このまま、いろんな境目がなくなっていくんだと思います。
でも安心できるはずなのに、なんだか少し寂しい。
何もかもが一つになって、不和もすれ違いもなくなるはずなのに。
虚ろなる群体の神の中で、形なく漂うわたしを見つけてくれるのは、やっぱりせいちゃんなのかもしれない。
だから、またね。


読み終えたとき、すぐに言葉が出なかった。理音も沈黙していた。
これは、なんだ?
これは本当に小春が書いたものなのか?
しかし小春でないなら、なぜこんなものを俺に残す。
これは明確に俺に向けたメッセージだ。
助けて、でも許せない、でもない。
これは別れの言葉なのか、約束なのか、それとももう小春じゃない何かの言葉なのか……。
小春の身に一体何が起きたんだ!?

「群体の神って……」

理音が恐れのこもった声で呟いた。

神。小春には似つかわしくない言葉。
小春はどちらかといえばまじめな性格だったとはいえ、宗教とかそういうものにさしたる興味はなかった。
文学が好きだから多少は知っているけれど、知識として把握しているといった程度。
その小春が、自分で最後かもしれないというメッセージに残した言葉が神……。
確かに小春の文章なのに、まるで小春ではない別の何かに思える。

「やっぱりこれ、おかしいよ。集団自殺事件だから、そりゃ普通じゃないけど、そういうのじゃなくて……」

理音の言う通りだった。
俺の見たニュース速報には、大学生五人が集団自殺と報道されていた。
しかしここまで、小春の残したCLOVERの記事の中に自死をほのめかす文言はない。誰かとそういったことについて語り合った形跡も。
もちろん、違うツールを使って相談していたという可能性はある。

しかし、それならなぜ自死した翌日にCLOVERのアドレスを送る必要がある?

わからないことばかりだ。何一つ繋がってこない。これまで避けてきたけど、もう少し事件そのものについて調べる必要があるかもしれない。

「一旦ここまでにしよう」

俺は大きく息を吐き出すと、理音に告げた。

「今日は帰ったら、ニュースで事件について調べる」

理音が顔を上げて俺を見た。

「大丈夫なの?」
「避けてたら何もわかりそうにない」
「わかった。わたし夜バイトあるけど……。もし何かあったり、辛かったら遠慮なく電話して」
「ああ。本当にしんどくなったらそうさせてもらう」

理音に頼ってばかりではいけないけれど、いざというとき逃げ場があるというだけで、少し勇気がわく。

「じゃあ、わたしそろそろ行くね。バイトあるし」

理音が立ち去ったあと、俺はもう一度ベンチに腰を下ろした。
風が抜けるたび、頭上の葉がこすれ合って、乾いた音を立てる。
手の中のスマホは、さっきから妙に熱を持っている気がした。
CLOVERの画面を閉じることができず、俺はそのままヨツハの待機している画面を見つめる。
白と灰緑の、曖昧な配色。整っているはずなのに印象に残らない顔。
なのに、目を離せない。

……少しだけ、試してみるか。
俺はチャット欄を開いた。文字入力欄の下で、淡いカーソルが規則正しく点滅している。しばらく見ていると、それだけで急かされているような気分になった。
小春が最近よく見てた記録、出せる?
送信する。
既読も何もない。ただ、画面の右端でヨツハの輪郭がわずかに明滅した。
数秒の間があった。
すぐ返ってこない。その、ほんの短い間の置き方が妙に人間くさかった。

『表示できます。ただ、閲覧者の心理的負荷が高まる可能性があります』

その一文を読んだ瞬間、指が止まる。
使う単語こそ違う。
彼女は負荷なんて硬い言い回しはしない。
だけど――

聞いたらしんどくなるかもしれないよ。

ふいに、そんな声が頭の奥でよみがえった。小春が何か重い話をするとき、相手の逃げ道を先に作るみたいに、よくそういう言い方をしていた。

無理なら、いま返事しなくていいから。
気が向いたらでいいから。

似ている。
言葉そのものじゃない。
でも、距離の取り方が似ていた。

『表示して』

打ち込んでから、少しだけ後悔した。
何を期待してるんだ、俺は。
何が見たかったのか、自分でもよくわからなかった。
記録の続きかもしれないし、ただもう少しだけ、この応答を聞いていたかったのかもしれない。

『わかりました。辛くなったら、中断してくださいね』

まただ。
こうやって相手の心を先回りして、角をひとつ削って返してくる感じ。
小春が、俺に何かを頼むときの言葉に少しだけ似ている。
……学習している、ってわけじゃないだろうな。
リアルタイム学習なんて、さすがにないはずだ。せいぜい履歴を拾って調子を合わせているだけ。
……たぶん。

「やりすぎたら止めてくれるか?」

何聞いてんだ、俺。
数秒の沈黙。
それから、ヨツハはいつも通りの淡々とした速度で答えた。

『もちろんです。本当に無理しないでくださいね』

俺はその文を見つめたまま、息を吐いた。
胸の奥に、ほんの一瞬だけ湧いたものがある。救われたような気持ち。
懐かしいような気配。
本当に小春の何が残っているのではないかという都合のよい想像。

たまたま似ているように思ってしまうだけだ。
どこまでいってもヨツハは小春ではない。

『他に何かありますか?』

短い問い。
俺はすぐには返せなかった。
画面の白さが、斎場の光と少しだけ似て見えた。


・続き

・前回


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