#4 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第1章 春の後ろ姿(後編)
昼休み、学食はいつも通りうるさかった。
トレーのぶつかる音、椅子の擦れる音、注文番号を呼ぶ声。
その全部が大学の日常の音で、今日はその日常に少しだけ距離を感じる。
理音と空いている席をようやく見つけたところで、後ろから声が飛んできた。
「おや、高科先輩じゃないですかー」
振り向くと、藤崎陽芽がいた。短く切った髪に、ラフなパーカー。片手にうどん、片手にお茶。
姿勢も言い方も雑なのに、不思議と雑に見えない。
「いつにもまして悪い顔してますね」
「開口一番それか。ふつー顔色が悪いだろ?」
「忖度ない感想を言っただけです。それと比べて理音さんはいつもおきれいですね」
「――ありがと」
理音はそう言ってふいと陽芽から顔を背ける。照れてるのか?
「いやー、誰かと違って素直ないい反応ですね」
陽芽はそう言って、向かいに当然みたいに座った。
「え? お前ここくんの? あっちいけよ」
「だってここしか空いてないですしー」
言われて周囲を見渡す。確かに割と混んでるな……。
だけどこのままこいつのペースに巻き込まれるのは釈に触る。
「それでもやだ。しっし」
「うわ、ひど。理音さん、いいですよねー?」
「――ええ」
「やった! ありがとございます」
「俺の意見は?」
「どちらの考えが尊重されるかは明らかでありまして」
「そりゃ俺だろ」
俺は陽芽に言い返すも、
「は?」
理音のそのひと言で何も言えなくなった。
その様子を見て陽芽がにやりと笑った。
立場よえーな、俺。
陽芽はうどんの蓋を開けながら、ちらっと俺たちを見比べた。
何気ない視線だった。でもその一瞬だけ、何かを測るみたいな間があった気がした。
「ていうか」
陽芽が箸を割る。
「二人とも、なんか変じゃないです?」
「何が」
「空気」
「空気ってなんだよ」
「なんかこう……昨日までと違う感じ」
俺は思わず理音の方を見た。理音はトレーの上の味噌汁を見たまま、表情を動かさなかった。
「気のせいだろ」
妙に勘がいい。しかし小春の話なんて重すぎてできるわけがない。
「そうですかね」
陽芽は首を傾げた。
考え込んでいるというより、ただ引っかかったものをそのまま見ている顔だった。
「……もしかして、付き合い始めたりしました?」
「ぐほっ」
思わずむせた。食べてたパスタ吹き出すところだった。
「は!?」
声が少し大きくなって、近くの席のやつが一瞬だけこっちを見る。
「何言ってんだお前」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで言うな」
陽芽は悪びれもなくうどんを啜った。
「だって、理音さんの雰囲気ちょっと違うし」
「お、お前なあ。んなことあるわけないだろ!? なあ理音」
その瞬間、理音がぴたりと止まった。
本当に一瞬だけだった。箸を持つ手も、視線も、呼吸も、全部が止まったみたいだった。
「……理音?」
俺が呼ぶと、理音は少し遅れて顔を上げた。
「――ええ、そうね」
理音の顔は、照れたというより一瞬だけ血の気が引いたみたいに見えた。
次の瞬間、理音はもう席を立っていた。
「ごめん。わたし、用事思い出したから先行くね」
「え、ちょっ――」
「誠司、何かあったら連絡して」
食器のトレーを持ち上げる動作だけがやけにきれいだった。そのまま理音は、俺たちの返事を待たずに歩いていく。
俺はぽかんとその背中を見送った。
「……ほらみろ。お前が変なこと言うから」
陽芽は箸を止めたまま、珍しく少しだけ気まずそうな顔をした。
「いや、先輩。あれは――」
何か言いかけた陽芽が口をつぐんだ。
「いえ、何でもないです」
そのまま微妙な空気になり、あまり会話もないまま昼休みは過ぎていった。
学食を出たあと、俺は一人で講義棟の廊下を歩いていた。
歩きながら、ふいに昔の記憶が甦った。
高校二年の冬。
期末テストが終わった日の夜だった。
小春と付き合いだして2ヶ月になるかならないかくらいの頃。
俺は部活帰りに別のやつらとラーメンを食って、そのままゲームセンターに寄って、帰るのが遅くなった。
夜まで小春に一言も連絡してなかったから、さすがにまずいかと思って「ごめん、今日バタついてた」とだけ送った。
既読はすぐについた。
でも、返事は来なかった。
さらに二十分くらいして、ようやく返ってきたのは、たった二行だった。
『ううん、大丈夫。
テストおつかれさま』
翌日、朝教室で会った小春は少しだけ眠そうだった。
「昨日、寝るの遅かった?」
「……ちょっとだけ」
「何してたの」
「んー」
小春はすぐには答えなかった。思いついたまま喋るんじゃなくて、一回どこかで言葉を選ぶ。
その小さな間が、小春にはあった。
「返事、どう書こうかなって少し考えてた」
「え」
「いや、あれ二行じゃん」
「二行だよ」
「そんな考えることあった?」
小春は視線だけ少し下げた。
「なんかね。別に怒ってるわけじゃないのに、疲れてるとちょっと違う言い方しそうになるときあるじゃん」
「……あるかも」
「だから、そのまま返すと少しズレる気がして」
そのときの俺は、そこまで深く考えなかった。小春はそういう子なのだと思った。
丁寧で、優しくて、変な言い方をしないように気をつける子。
でも今思えば、あれは違うのではないか。
小春にとって言葉は、自分の気持ちをただ相手へ伝えるものじゃなかったのかもしれない。
相手の中にある小春のイメージを壊さない形にしてからじゃないと、外へ出せなかったんだ。
3ヶ月前、小春の部屋で、机の端に伏せたままのスマホを見た夜。
画面にはメモアプリが開きっぱなしになっていた。
言いすぎない。
でも、なかったことにもしたくない。
自分に言い聞かせている様なその2行が目に入った。
そこで俺は知ってしまった。
小春は、自然に優しいだけじゃなかった。
そうあるために何度も立ち止まって、言葉を選び直していたのだと思う。
そんなことはよく考えれば当たり前のことだろうに、
俺はその踏みとどまりの上で、ずっと楽をしていた。
部屋に行けば受け入れてくれる。
疲れていれば寝かせてくれる。
触れれば拒まない。
そういう小春の輪郭を、俺は“恋人なんだから普通だろ”みたいな顔で受け取っていた。
でも本当は、そのたびに小春には、迷いや選び直しがあったのかもしれない。
もしそうなら、俺は優しい相手によりかかって、自分の寂しさも、甘えも、欲求も、都合よく片づけていただけなんじゃないか。
そう思った瞬間、急に自分がひどく嫌になった。
あの夜から、俺は少しずつ連絡の頻度を落とした。
課題が忙しい。ゼミが重い。就活についても考え始めないといけない。
遠距離なこともあり、理由はいくらでもつけられた。
でも本当は違う。
これ以上あいつの優しさに慣れたら、自分がもっと嫌いになる気がした。
そう思った瞬間から、俺は小春の部屋へ行く回数を減らした。会おうと言われれば断らなかったけれど、自分からはあまり言わなくなった。
勝手だったと思う。
でもあの頃の俺には、それがせめてもの誠実さに思えた。
もうこれ以上、受け入れられる側のまま居座らないための。
それは誠実さじゃなくて、たぶんただの逃避だった。
向き合うことを避けただけだったんだ。
その時ポケットの中のスマホが震えた。取り出すと、理音からメッセージが来ていた。
『講義のあと時間ある? 昨日の続き、CLOVERの画面が見たい。図書館裏に来て』
図書館裏のベンチは、夕方になると少しずつ人が減る。理音はもう来ていた。ベンチの端に座って、膝の上にノートを開いている。
「早かったね」
ノートを見ていた理音が顔をあげた。
「もう来てるだろうと思って急いで来たんだよ」
「偏見」
「事実だろ」
「普段の誰かさんが適当すぎるだけ」
理音は少しだけ硬い声で言った。
「ところでさ、これからCLOVERを観る時、“意味があるもの”でなくただの記録としてみるようにしよう」
「どういうこと?」
「小春からのメッセージ、って形で読むと深く考えすぎるから。まずは、何が残ってるか、データとして確認する」
「……感情抜きで、ってことか」
「少なくとも今は、その方がいいと思う」
俺は頷き、CLOVERを開いた。
ガイドアバター、ヨツハが昨日と同じ位置に静かに立ち上がった。白と灰緑の、無機質で清潔な姿。
『前回の続きから閲覧しますか』
インターフェースとしてそう設定されているだけだろうに、俺たちの合流を待っていたかのように思えて、背中がわずかに粟立った。
俺はふと思い立ち、チャット欄に「未公開記事が見たい」と打ち込む。
『承知しました』
画面が切り替わる。
未公開の下書きの一覧は、思っていたより短かった。日付と時刻の下に、タイトルが並んだ。空欄もある。
『言葉通りに受け取らないと』
そのタイトルの下書きだけ、時刻の横に小さな鍵マークがついていた。
「鍵つき?」
「共有範囲を設定しているみたいだね」
「取り敢えず試そう」
鍵付きのタイトルをクリックしたその一行が目に飛び込んできて、俺は指を止めた。
3月29日:せいちゃんは、きっと本当に忙しいだけ。
心臓が、嫌な鳴り方をした。3月29日。俺が何かしらの嘘をついて、彼女からの誘いを断り始めて少しした頃の日付だ。
――ただの記録として読む。
俺は理音の言葉を思い出し、努めて冷静を装って言った。
「……このあたり、公開する気はないけど書いたみたいなものが並んでるな」
「うん。ここに書くことで外には出さないようにしていたんだね」
理音が淡々とした調子で返す。
「――少なくともこの時点では、悩みはあるにせよ自殺までは考えてないように見える」
「そうだね。となるとここから2ヶ月で急に思い詰めるほどの何かがあったのかな」
俺との距離の開きが決定的になったことでそこまで思い詰めた?
本当にそうなのか?
大学生が遠距離恋愛の自然消滅なんてありふれた話である。
心の傷になることがあっても、その一件のみでそこまで思い詰めることがあるのだろうか。
俺の存在が小春にとってそれほど大切だったというのは、自意識過剰なのではないか。
それともそう考えること自体が自分の罪から目をそらしている?
答えは出ない。
俺はかぶりを振ると、ほかの下書きを開いた。
何もなかったみたいに返すの、ほんとうは少し違う。
相手を困らせたくないのと、自分が困るのを避けたいのが混ざる。
混ざったまま優しくすると、たぶんあとで変になる
理音が隣で、小さく息を呑んだ。
「……これ」
「どうした」
「小春、自分でわかってたんだね。優しくしてるつもりの中に、自分のための『逃げ』が混ざってるって」
その言い方に、葬儀の帰り道で交わした会話が重なる。理音自身が、自分の感情を「綺麗じゃない」と断じたこと。小春もまた、自分の善意の濁りを見つめていたこと。
ちゃんと悲しいのに、落ち着いた言い方をすると軽く見える
でも、取り乱して見せるのも少し違う。
ほんとうの大きさと、外に出る言葉の大きさが合わないそういうときの言葉が一番むずかしい
「……なあ。小春って、いつもこんなこと考えてたのかな」
「いつもではないと思う。でも……」
理音が画面を見つめたまま続ける。「小春は、“こういうとき”が、人よりずっと多かったのかもね」
俺たちはしばらく黙りこんだ。
それから俺は一覧に戻る操作をした。
白い画面がふっと閉じ、下書きのリストが表示される。
その瞬間だった。
「……え、今、増えた?」
理音の声に、俺も画面を凝視する。
さっきまで「下書き6件」だったはずの右上の表示が、吸い込まれるように書き換わった。
『下書き 7件』
「……いや、見間違いじゃ」
「見間違いじゃない。さっきは、間違いなく6件だった」
理音の声が、一気に低くなる。
そこには、さっきまで影も形もなかったはずの新しい行が増えていた。
タイトルは空欄だが、確かに項目が増えていた。
「……何だよ、これ。誰が更新してるんだ」
「これ、開いて大丈夫なのかな」
俺は理音の横顔を見る。
震えているわけではないが、彼女の理性が全力で警鐘を鳴らしているのがわかった。
そこへ、ヨツハが静かに口を開く。
『必要であれば、関連する未送信下書きを参照できます』
背筋を、氷の粒が滑り落ちるような寒気が走った。
昨日から何度も感じている違和感。
小春本人ではない。見た目も声も、似ても似つかない。なのに、小春が言葉に詰まったときに見せていた「やわらかい待ち方」だけが、このシステムの中で平然と再現されている。
「……なんでこいつ、こんなタイミングで、こんな言い方をするんだ」
理音はすぐには答えなかった。ただ、ガイドのいる画面の端を一度だけ睨みつけ、それから再び画面へと視線を戻す。
「……警察に言う?」
理音が声を震わせる。
「何て言うんだよ。死んだ人のアカウントの記事が増えました、って?」
「乗っ取りとか成りすましとかで……」
「具体的な被害が出てない」
誰かが不正アクセスしてるとして、クローズドなSNSで故人であることが知られてしまっているアカウントで詐欺の類はできないだろう。
成りすましによる嫌がらせとしても、正直あまり意味がない。
今のところ俺にメールを送り、記事を追加しただけ。
異常なことが起きているのに、強い悪意や動機を感じない。
それが薄気味悪かった。
「しかも俺たち自身、故人のアカウントを開いてる。その説明もしないといけない」
「そっか……。もしそれでアカウント凍結されたら、もう中が見られなくなるね」
そうなったら調べるための手がかりを失う。
そのまま忘れて日常に戻る気にはなれない。
ここにあるのは、小春が生きていたとき、言わないまま喉元で止めていた痕跡だ。
――そしていまこの瞬間も、小春に関わる何かが勝手に動き続けている。
これ以上、見落とせるか。
俺は画面のいちばん下、増えたばかりの一行から、どうしても目を離せなかった。
・続き
・前回
