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#2 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第0章 またね (後編)


翌朝。
駅前に向かうバスの中で、とりとめもなく昔のことを思い出していた。
俺と小春。そして理音。
三人とも同じ高校だった。
文化祭のあと、三人でファミレスに行ったこと。
小春と付き合うことになったと伝えたとき、理音が肩を叩いて「やるじゃん」と喜んでくれたこと。
卒業式の日、校門の前で三人で写真を撮ったこと。
つけ慣れないネクタイを締めながら、自分がここへ行く資格があるのかという考えが頭をもたげる。

最後にいつ会った。春先だ。
最後に何を言った。たぶん「また今度」。
最後に小春の顔をちゃんと見たのは、いつだった。

思い出そうとしたけれど、どれも曖昧だった。
駅に着くと、入口のそばで軽く手を上げる人影があった。
理音だった。黒いワンピースに細いコート。髪もきっちりまとめていて、顔色は悪いのに妙に整って見えた。

「おはよ」

自分でもびっくりするくらい、普通の挨拶が口をついた。
理音は一瞬だけ目を細めて、それから小さく頷いた。

「おはよう」

近くまで行って初めて、理音の目元が少し赤いことに気づく。
泣いたのか、寝ていないだけなのか、その両方か。

「もうすぐ電車来るから。行こ」
「ああ」

高校の頃からそうだった。こういうとき、理音は自分の心情を多くは語らない。
電車に揺られながら、高校の頃の三人の思い出をぽつぽつ語り合った。
久しぶりに友達に会いに行くときみたいに。
理音は事件のことも、CLOVERのことも触れてこなかった。
俺ももちろん口に出さない。
斎場の最寄り駅で降りると、黒い服の人がぽつぽつと同じ方向へ歩いていた。
誰も声を上げて泣いたりしていない。淡々と歩いて、会釈して、建物の中へ吸い込まれていく。
建物の入口で、理音が足を止めた。

「香典は?」
「持ってきた」
「数珠は?」
「……忘れた」
「やると思った」

理音はわざとらしくため息をつくと、自分のバッグから小さな袋を取り出した。

「はい、これ使って」

まるでいつも通りの俺と理音のやり取りで、沈み込みそうな意識を少し逸らしてくれる。
本当にありがたかった。
これが誰の葬儀かを強く意識してしまったら、俺は中に入れないかもしれない。
数珠を受け取るとき、指先が触れた。
理音の手は冷たかった。
俺の手も、たぶん同じくらい冷えていた。

「……ありがと」
「うん」

それだけ言って、理音は先に歩き出す。
斎場の中は、しんと静かだった。
外の風の音が嘘みたいに、空気が重くて、音が全部布越しに聞こえる感じがする。
受付の前には、既に何人か並んでいた。小春の大学の人たちだろうか。
黒いスーツ、地味なネクタイ、抑えた声。その中に見慣れない顔がいくつもあって、逆に小春の知らない時間が大量にあったことを思い知らされる。

俺は小春の大学を、ほとんど知らない。
キャンパスの最寄り駅くらいしかわからない。
どんな教室で、どんな友達がいて、どんな顔をして笑っていたのか。

本当はもっと知れたはずのことを、自分はずっと“今度でいい”にしていた。
受付を済ませて、会場へ入る。
そこで、ようやく本当に息が止まりそうになった。
正面に、遺影があった。
小春の顔だった。
当たり前だ。小春の葬儀なのだから、小春の写真があるに決まっている。そんなことは頭ではわかっていた。
でも、写真の中の小春は、俺の知っているどの記憶よりもはっきりこちらを見ていた。
少しだけ首を傾けて、控えめに笑っている。
高校の卒業アルバムみたいな硬い表情じゃない。たぶん大学に入ってからの、もっと最近の写真だ。
それが余計につらかった。
俺の知らない小春が、そこにはいた。
俺が知らない時間を含んだ顔で、でももうその時間について本人に聞くことはできない。
足が止まる。理音も同じところで立ち止まっていた。俺より半歩前で、遺影を見上げたまま動かない。

「……小春だ」

理音が、小さく言った。
その声は昨夜よりずっと危うかった。理屈で整える余裕がなくなっている時の声だった。

「……うん」

違う、と言いたかった。
まだ現実感がない。これは妙に細部の揃った悪い夢なんじゃないか、と本気で思った。
会場の前方では、小春の家族らしき人たちが挨拶を受けていた。父親だろうか、深く頭を下げ続ける男性。
母親らしき人は、誰かに肩を支えられている。
その光景を見た瞬間、急に自分がここに立っていることの場違いさに襲われた。
俺は何だ。
元恋人か。友人か。
もう、そのどちらですらない気がした。
春からろくに会っていない人間が、今さら一番苦しい顔だけしに来たみたいで、吐き気がした。
たぶん顔に出ていたのだろう。理音が少しだけ俺の方へ向き直る。

「誠司」
「……うん」
「あんたはここにいていいから」

理音はいつもより静かだった。怒っているわけではない。でも、逃がさない声だった。

「ああ……」

理音の言うとおりだ。もっともらしい理由をつけて、逃げ道を探していただけだ。
理音は一瞬だけ目を伏せて、それから遺影の方を見たまま言った。

「見ないままで済ませたら、もっと後悔する」

その言葉は、たぶん小春のためだけじゃなかった。俺にも向けていて、理音自身にも向けていた。

見ないままで済ませる。

それは俺たちがずっと得意だったことだ。
忙しいから。
今度でいいから。
変に踏み込まない方が楽だから。
そうやって先送りにして、今日ここにいる。
焼香の列が少しずつ進む。
俺たちも無言でそれに加わった。
前の人の背中を見ながら、何を考えればいいのかわからなくなる。悲しいのは当然のはずなのに、その悲しさがまだうまく形にならない。
代わりにあるのは、現実感のなさと、後悔と、自分の鈍さに対する嫌悪ばかりだった。
順番が来る。
香をつまんで、額の高さまで上げて、落とす。
覚えのない所作なのに、身体はなんとなく真似できてしまう。
そういう“わかったふり”の動きが、今はひどく嫌だった。
場に合わせて振る舞っているだけに思えてしまうから。
手を合わせる。

わたしは女優。

その言葉が、また頭をよぎった。
小春は、いつも落ち着いて見えた。
泣きたいときも、怒りたいときも、言葉を整えて優しく振る舞っていたとしたら――
小春は、ずっと小春を演じていたのか。

そう考えた瞬間、ぞっとした。遺影の微笑みまで、何か別の意味を持ちはじめた気がしたからだ。
もちろんそんなはずはない。今ここで、自分が勝手にそう見ようとしているだけだ。
なのに、目を逸らす直前、写真の中の小春がほんの少しだけいつもより静かに見えた。
まるで、もう一度だけ何かを言おうとして、言わないままこちらを見ているように。


葬儀が終わったあと、昼食のため理音とファミレスに入った。
冷房が効きすぎていた。席について、水を飲んでも喉のざらつきが消えない。ランチメニューを食べ終えたところで、理音が切り出した。

「で、通知が来たってどういうこと?」
「通知って?」
「誤魔化そうとしても無駄」

俺は観念して、ポケットからスマホを出した。画面を開く指が少し震える。昨夜から何度も見た本文が、昼の光の下だとまた別物みたいに見えた。暗い部屋で見たときより、かえって現実味がない。

「まずこれなんだけど」

俺はメールを見せる。

最期にこれだけ
わたしはかもめ
わたしは女優
ID:clover_45sh
PASS:0415spring
またね

理音はそれを見つめたまま、しばらく黙っていた。

「……どういうこと?」
「わからない」
「ハッキングか……」
「もしくは予約送信」

最も考えられる線はこれだろう。 

「その可能性が高いけど……」

理音が首を傾げる。

「遺言だと、おかしい」

俺も同じことを考えていた。理音はもう一度メールに目を落とした。

「……それに、小春らしくない」

理音の言うとおりだ。
小春は言葉を雑に使う方ではなかった。
相手への負担もすごく気にする。だから、「またね」は二重におかしい。
ただ小春が最後の最後に何を選ぶかを、俺がわかっていないだけの可能性もある。そこまで見てやれていなかった、というだけのことかもしれない。
理音は低い声で言った。

「これ、遺書っていうより」
「うん」
「……誘導っぽい」
「誘導?」
「ここに“入って”って意味。IDとパスワードまで残してる」

小春の残したCLOVERのID。

「つまり、ここに入れば小春の残した何かが見られる。だから『またね』、なのか?」
「そう取れるよね」

理音は少し考えてから、まっすぐ俺を見た。

「誠司、どうするの?」

そう聞かれたら、答えはひとつだった。

「家に帰ったら見てみる」
「だめ」
「えっ?」
「一人では見ちゃダメ。私も入る」
「理音……」
「あんた一人じゃ危なっかしいったらありゃしない」

俺は小さく頷いた。

「……うん。ありがと」

ファミレスを出ると、外の光がやけに白かった。
理音が小さく息を吐く。

「……暑いのか寒いのか、よくわかんないね」
「わかる」

二人で駅の方へ向かって歩き出す。駅までの道の途中、小さな公園の前を通る。
ベンチに座っている親子がいて、子どもがコンビニのアイスを落として泣いていた。母親がしゃがんでなだめている。
その光景があまりに普通で、逆に変だった。

「……こういうの見てるとさ」

気づけば、理音が先に口を開いていた。

「小春はどこかで生きてるんじゃないかって思う」 「そうだな」

即答だった。
理音は少しだけ頷いた。

「遺影見ても、現実味ないし」
「うん」
「見ちゃった今でも、まだ……」

その言葉の重さに、俺は少しだけ視線を落とした。
しばらく歩いて、信号待ちで止まる。赤信号の下で、理音は前を向いたまま言った。

「小春と、最後に会ったのいつ?」
「……春」
「春って、何月」
「三月かな」

今は六月だ。
理音は何も言わなかった。責めるでもなく、驚くでもなく、ただ少し長く黙った。その沈黙の方がきつかった。

「――理音は」

俺から聞き返す。

「……いつ?」
「ゴールデンウィークに」

理音はすぐに答えた。

「駅前で、たまたま。帰省してるとき」
「えっ!?」

少し驚いて理音を見ると、理音は困ったように視線を落とした。

「そのとき、最近どうって聞いたら、小春は普通に『うまくいってるよ』って」
「……そうか」

それだけ返すのがやっとだった。

「私、そのとき何も知らなかったから。ほんとにそうなんだと思ってた」

理音は少しだけ言いにくそうに続けた。

「そういえば、誠司について聞かれたな」

胸の奥が少しだけ強張る。

「……なんて」
「せいちゃん、大学忙しいの?って」
「……どう答えたんだ?」
「ううん、暇してるよって」

足が止まった。
理音の顔を見ると、口元が引きつっていた。

「いつもの軽口のつもりだった」

胸の奥がぎゅっと痛んで、膝から崩れ落ちそうになる。

「誠司、ごめん」
「その謝罪を受ける資格、俺にないよ……」

理音は少し黙ってから、かすれた声で言った。

「……ちゃんと見てなかった」
「え?」
「そのときの小春の顔。思い出せない」

俺も、想像したくなかった。

「……小春、ごめんね」

理音が泣き出しそうな声でつぶやいた。
それきり、駅で別れるまで理音と一言も言葉を交わさなかった。

駅からの帰り道、俺は決意した。
CLOVERを開く。
小春は『またね』と残した。
メールを開いたときからずっと、あの文面が頭の奥に引っかかっている。

わたしはかもめ
わたしは女優

あれは助けを求める言葉だったのか。
ただの引用だったのか。
それとも、もう本当の小春の言葉ではなかったのか。

考えるたび、胸の奥がゆっくり冷えていく。
だから見ないままではいられなかった。


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