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#9 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第4章 教授の式(前編)


九条恒一との面談をした2日後。
俺と理音は真壁教授の講義を聞いていた。
今日の講義に共同認知モデルの話は出てこなかった。
黒板に並ぶのは、近代自我論、社会的役割、環境の認知への影響。

どれも本来なら面白い話なのかもしれない。
けれど、俺の頭の中では、九条恒一の言葉ばかりが残っていた。

――整流層の調整は共同認知モデルに基づき。
あの言い方は、ただ単語を借りただけには聞こえなかった。

講義が終わる。
教授が板書を消して、出席表を閉じ、革鞄に資料をしまった。
学生たちがぱらぱらと教室を出ていく。俺と理音は、席を立つタイミングを少しだけ遅らせた。
最後の学生が出ていったところで、教授がこちらを見た。

「何か」

短い一言だった。
理音が先に立ち上がる。

「少し、お時間いいですか」

教授は腕時計を見た。

「次のコマは空いています。手短にお願いします」
「ありがとうございます」

理音が頭を下げる。俺も慌てて続いた。
教卓の横に立つと、妙な緊張感があった。教授は普段と変わらない顔をしている。
こちらが何を聞こうとしているのか、見当もついていないように見える。
あるいは、ついていても出していないだけかもしれない。

「共同認知モデルについて伺いたいです」

理音が言った。
その言葉を聞いても、教授の表情はほとんど動かなかった。

「講義の内容に関する質問ですか」
「半分は。もう半分は、外部でこの言葉を見かけたことについてです」

教授の目が、ほんの少しだけ細くなる。

「外部?」
「Locus Worksのウェビナーで、九条恒一さんが使っていました」

俺はそこで、教授の顔を見た。
一瞬だけ、空気が止まった気がした。
けれど本当に一瞬だった。教授はすぐに、いつもの平坦な顔へ戻る。

「Locus Works。名前は知っています。学生向けの対話支援サービスを作っている会社ですね」
「九条恒一さんとは面識がありますか」
「直接はありません」

教授は即答した。
嘘をついているようには見えなかった。

「では、その父親である九条道隆さんは?」

今度は、ほんのわずかに間が空いた。

「……昔の知人です」

昔の知人。
その言い方だけで、そこに何かあるのがわかった。
距離を置きたい相手に使うような言い方だった。
理音が続ける。

「共同認知モデルは、教授のお考えになったものですよね」
「そうです。少なくとも、私が講義で扱っている形では」
「それを九条恒一さん、もしくはLocus Worksに提供したことはありますか」
「ありません」

教授の返答は、迷いがなかった。

「共同研究や監修、助言も?」
「ありません」
「では、Locus Worksが共同認知モデルを使っていることは?」

教授はそこで、初めて少しだけ目を伏せた。

「今日、あなた方から聞いたのが初めてです」
「本当にですか」

思わず、俺が口を挟んでいた。
教授は俺を見る。怒ってはいなかった。ただ、少し疲れたような目をしていた。

「高科くん。疑うのは構いません。ただ、疑うなら言葉を選びなさい」
「……すみません」
「私が扱っている共同認知モデルは、意識や判断が個体の内側だけで完結しないということを説明するための概念です。講義でも言ったはずです。人は一人で考えているように見えて、言語、環境、他者の反応、道具の影響を受けながら考えている」

教授は淡々と続ける。

「ですが、それはあくまで理解のためのモデルです。なにがしかの技術として実装することを、私は想定していない」
「コンセプトが技術として使えるとお考えになったことは?」

理音の声が少し硬くなった。
教授は答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。

「教授」

理音が一歩踏み込む。

「共同認知モデルを、対話支援の設計に使った場合、人の判断や行動に影響を与えることはありますか」
「不可能でしょう。足りない要素がある」
「――そのおっしゃり様ですと、何が足りないのかご存じなのでは?」

理音の声は、静かなのに強かった。
教授はしばらく黙ってから、教卓の上に置いたチョークを一本、指先で転がした。

「思考の補助は、いつか前提になります」

その言葉だけ、講義とは違う温度があった。

「最初は、ただ助けるだけです。言葉を整える。情報を探しやすくする。判断の負荷を減らす。
けれど、人は負荷の少ない経路に慣れる。一度それを前提にしてしまえば、何を自分で考えたのか、何を外部に選ばされたのか、区別は少しずつ曖昧になる」

背筋が冷えた。
CLOVERの白い画面が頭に浮かぶ。
ヨツハの声。小春の言葉に似た、あの待ち方。

「それって、危険じゃないんですか」

俺が聞くと、教授は静かに答えた。

「危険です」

あまりにあっさりした返答だった。

「なら、なんで講義で扱ってるんですか」
「危険だからです。理解しておく必要がある」

教授はそこで初めて、少しだけ表情を崩した。
笑ったわけではない。ただ、何かを思い出したように見えた。

「理解しないことは、無垢ではありません。それは無防備ということです」

理音が小さく息を呑む。
俺は、もう一つ聞いた。

「九条道隆さんは、共同認知モデルを知っていましたか
?」
「――わかりかねます。しかし共同認知モデルについて、わたしが彼に直接話をしたことはありません」

教授はそこで話を打ち切るように革鞄を閉じた。

「今日はここまでにしましょう」
「でも」
「これ以上は、今のあなた方には早い」

その言い方に、少しだけ腹が立った。

「早いってなんですか。小春はもう死んでるんですよ」

自分で言ってから、教室の空気が変わったのがわかった。
教授は俺を見た。
さっきまでの講義の顔ではなかった。

「――あの事件で亡くなられた方……確か沢渡小春さん、でしたか」

俺は言葉を失った。
理音が、俺の横でわずかに身を固くする。

「……知ってるんですか」
「ニュースは見ました。亡くなった方の名前も、確認しました」

教授はゆっくりと言った。

「沢渡さんはあなたたちと?」

教授が小春の名前を覚えている?
ニュースで大学生が五人死んだことは、記憶に残るかもしれない。
けれど、そのうちの一人の名前まで、講義のあとで即座に出てくるものだろうか。
少なくとも、俺なら覚えていない。

たぶん理音も同じことを考えていたのだろう。隣で、ほんの少しだけ呼吸が浅くなった。
教授はCLOVERに直接関わっていない。そこは、ひとまず信じるとしてもいい。けれど、あの事件をただのニュースとして見ていたわけではない。
教授は、何かに気づいている。
小春の名前にではなく、事件の形に。

「俺の交際相手で、理音の友達です」

俺は教授を責めるつもりではっきりと告げた。
教授は大きく息を吐いた。

「あなた方が聞きに来た理由がわかりました」
「なら」
「だからこそ言います。CLOVERに関わるのはやめなさい」
「それは、止めてるんですか」

教授はすぐには答えなかった。

「警告です」

そう言って、教授は鞄を持った。

「止める資格が、私にあるとは思っていません」

その言葉だけを残して、教授は教室を出ていった。
俺と理音は、しばらくその場に立っていた。

「……今の、どういう意味だよ」
「わからない」

理音はそう言った。でも、その顔はわかっていない人間の顔ではなかった。

「ただ、教授は何か知ってる」
「でも協業はしてないって」
「そこは本当かもしれない」
「じゃあ何だよ」

理音は、教授が出ていった扉を見つめたまま言った。

「教授の式を、別の誰かが勝手に使ってるっていうこと?」

その言葉が、妙に重く残った。



それから次の講義を聞き流しながら、教授の言葉を思い出していた。
教授はニュースの被害者の名前を記憶していた。
それはそのニュースが教授にとってありふれた悲劇ではなかったということだ。

何が教授に引っかかった?
CLOVERか? 
それとも同じ時間に別々の場所で自殺すること?

教授がCLOVERに直接かかわっていないのはとりあえず信じよう。
そしておそらく関西の大学でCLOVERが広まっていることまでは知っていた。
だからニュースを見て引っかかった。

しかしそれだけで被害者の名前まで記憶するか?
やはり共同認知モデルに何かあるのか?

――最初は、ただ助けるだけです。言葉を整える。情報を探しやすくする。判断の負荷を減らす。

教授はそう言っていた。
ふと、休日の間に見たCLOVERの記事のコメント欄が脳裏をよぎった。
小春の記事へのコメントもそうだし、ほかの人の書いた記事のコメントも同じ傾向だった。
どれも優しく穏やかで、書いた本人への承認と称賛、そして感謝の言葉を述べている。
表向きはとても成熟したコミュニティに見える。学生が中心とは思えない秩序だった空間。

しかし俺はそれを見て強烈な違和感を覚えていた。
おそらく投稿前に事前にヨツハに修正させた、もしくは記事を読ませてヨツハが出したものをそのまま載せているのだろう。
その行動は理解できる。

引っかかったのは、それらのコメントが実は全く記事の内容について触れていないということだった。
一見内容を見て共感や承認を寄せているようで、実はほかのだれかの記事へのそのまま転用できるような書き方。

相手の書いた内容に沿ってコメントを書くと、その解釈があっているか、踏み込みすぎていないかなど考えないといけない。

場合によってはそんなつもりがないのに相手を不快にしてしまうかもしれない。
だから予めヨツハに整えさせた穏当なコメントで交流を行う。

それは合理性とやさしさから生まれたものだけど、果たして交流しているといえるのだろうか。
ただ反応しあっているだけではないのか?

誰かが何かを言ったら一定のパターンにそって応答を返す。
その行為は、フェロモンに反応して行動する虫と、果たしてどれほど違いがあるのだろう。
俺にはそのあり方を疑問なく受け入れられない。

だけど、例え違和感があっても少なくとも悪意から行われた行為ではない。
それそのものに事件と結びつく何かがあるようにも思えない。

――俺は、自分の非をシステムに責任転嫁しようとしているだけなのだろうか。

小さくかぶりを振ると、講義室の黒板の上の時計を見た。
あと30分。
俺はどんよりとした気持ちのまま、残り時間を数え続けた。


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