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吉田和彦さんとの思い出:その17


ミラノ万博日本館の視察も終わったのだから、それからとっとと帰れば良いものを、これがツアー日程の、凡そ折り返し地点に相当する。と言うか前々回の最後に掲載した横断幕の写真で気づいてしまった人もいるかも知れないのだが、そこに吉田和彦さんは居ない。何故なら僕たちが万博の視察の為にミラノに行っている間、彼はドイツに帰国をして仕事をしていたからだ。
しかし、話はこれで終わらない。と言うのも彼はヴェネツィアで「じゃあね」と言って僕たちツアー参加者に別れを告げ、空路でミュンヒェンに帰る。そして数日間、自分の街で仕事をした後に、また僕たちのツアーに合流することになっていたからだ。詰まり僕たちはミラノから北上し、陸路でスイスのアルプス地方に入るのだが、このタイミングで和彦さんは自家用車に乗り、ドイツから南下して、グリンデルヴァルトの貸切の別荘で、それから数日過ごすのだ。
ここに和彦さんの「遊びへの執念」が感じられないだろうか。そして、これこそが正に、僕が彼を「人生の師」と認めている理由でもある。詰まり和彦さんは仕事と音楽にも真剣だけれども、遊ぶことにはもっと真剣なのだ。そして実を言うと、僕の父も和彦さんと似たところがある。と言うのも父は講演の無い日には一日中寝室で寝転がってテレビを見ているのだが、それを彼は「仕事」と豪語して憚らない。何故ならテレビを見ることもまた、彼にとっては「講演の為の取材」だからだ。
かく言う僕も、プライベートで遊んでいる時間は全て、講座の中で話す「ネタ集め」の時間だと思っている節が有る。そして、このNOTEで過去の思い出話を長々と書いているのもまた、純粋な「遊び」であり、また同時に「仕事の準備」でもあるのだ。



さてスイスに行く前に、ちょっとだけミラノのこぼれ話をしよう。
古いものにしか興味のない僕にとって、ミラノは本当に退屈な街だ。そして、その典型例と言えるのがミラノ旧市街の中心に鎮座するミラノ大聖堂だ。とは言え、このドゥオーモはローマのサン・ピエトロと、そしてロンドンのセント・ポールに次ぐ、世界第三位の大きさを持っているキリスト教会だ。だから「由緒正しい」聖堂であることは間違いない。
実際、この教会の建築が始まったのが十四世紀の末であり、完成したのが実に五百年後。詰まりナポレオン治世下の十九世紀初頭のことだ。またミラノ司教区は500万人の信徒を抱え、世界で最大の教区だと言う。そういった意味で権威に弱い僕なんかは泣いて喜びそうな教会のはずなのだが、このドゥオーモに僕の心は1ミリも動かない(これは僕の主観ではないということは、例えば日本語版ウィキペディアの他の司教座聖堂の既述内容の豊富さと比較すればすぐに分かるだろう)。と言うことで誠に失礼ながら、どうしてミラノ大聖堂が、こんなにも誰からも評価されていないのか少し分析してみたいと思う。先ず建造に五百年も要したというのは、大事業を成し遂げたという「勲章」ではなく、単なる怠惰の証拠だ。似た様な例としてケルン大聖堂が挙げられるが、こちらは何故だかミラノと同じゴシック・リヴァイヴァルの十九世紀に完成しているにも拘らず、そんなに冷ややかな目では見られていない。
そもそも「ゴシック」という建築様式は、十二世紀後半から、凡そ二世紀間という、比較的短い時期に建てられた教会建築のみに用いられるべきものだと僕は考えている。そして地理的には、パリ近くのサン=ドニ大修道院教会堂を中心としたイルド・フランス地方に特有のものだ、と僕は強調したい。よってゴシックの傑作は、当該の時代と地域に建てられた、例えばシャルトル大聖堂が挙げられるだろう。
言うまでもなく、イタリアにも伝統的なゴシック聖堂は存在する。しかしシエナ大聖堂を見ても明らかな様に、そこには「イタリアらしさ」が有る。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレもまた一応、分類上は「イタリアン・ゴシック」ということになっているが、そこに「ゴシックらしさ」は欠片も無い。
そんな中でミラノ大聖堂の様式は「フランス・ゴシック」なので興醒めだ。北イタリアだとは言え、矢張りアルプスを越えてしまうと人は、そこに地中海的な要素を求めてしまうのだろう(そういえば南フランスのゴシックは、どうなっているのだろう?)。そしてミラノ大聖堂には、だからイタリアの司教座聖堂に特有の鐘楼(カンパニーレ)も、また洗礼堂も付属してはいない。
……とまあ、こんな感じでミラノ大聖堂のことを散々コキおろして来たが、実際に行ってみるとわりと感動したというツンデレな話が、これから始まる。ミラノ大聖堂本体はそんなに美しく無いが、ドゥオーモ広場と、そこから見えるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアは圧巻だ。だから僕たちは大聖堂の上に登って、それらを眺めようということになった。それで南側から身廊部分の屋根に登ってみてビックリ。下からは見えなかったが、そこには僕の大好きなトニー・クラッグの彫刻作品が、ズラリと展示されているではないか。これこそが正に伝統とモダンの融合、ミラノ万博日本館のコンセプトそのものではないか。


ミラノ大聖堂


改めて考えてみるまでも無く、ゴシックというのは鰻の様に掴みどころの無い概念だ。教科書的な説明をするならば、尖頭形アーチや、リブ・ヴォールトや、或いはフライイングバットレスを持った、主に教会建築を「ゴシック様式」と呼ぶのだが、そもそもそれらの建築要素は全て、ゴシックから始まったものだという訳ではない。ならば部分から攻めるのではなく、全体として最も典型的なゴシックの大聖堂は何かと問うならば、僕は既に述べた様に「シャルトル」と言いたいのだが、それはロマネスクではないのか、と言う人まで居る。他にもパリのノートルダムや、ランス大聖堂、またアミアン大聖堂などの有名な代表例が有るが、そのどれを見ても「ゴシック建築って、もっとバランスが取れたものなんじゃないのか?」と僕は思ってしまう。それで、ここからがようやく本題なのだが、ゴシックには十四世紀後半から十五世紀にかけて、火炎スタイル(フランボワイヤン様式)と呼ばれるものが付け加わる。しかし、この様式はその後にヨーロッパ全土に広がり、時代的にも長く保持され続けるものなので、「国際ゴシック」と呼ぶことで、取り敢えず「本来のゴシック」とは区別して欲しいと言うのが僕の切なる願いなのだ。結局のところ、僕のミラノ大聖堂に対するモヤモヤは、ここに由来する。丁度ルネサンスに対するマニエリスムの様に、僕にとっての国際ゴシックというのは「安心して身を預けられる相手」ではないのだ。特に装飾的意図の強い火炎尖塔を、ボコボコと剣山の様に並べたミラノ大聖堂は珍しくはあっても美しくはない。ところがミラノ大聖堂は、この火炎尖塔を減らすことではなくトニー・クラッグの彫刻という「現代の火炎尖塔」を増やすことで問題を解決しているのだ。この時以来、僕のミラノ大聖堂に対する評価は180度転換した。だから僕がミラノに行く人に会ったら必ず「大聖堂の屋根」に登ることをお勧めしている、という次第なのだ。


ミラノ大聖堂の屋上・トニー・クラッグの尖塔彫刻もまじかに見える


ツアー参加者のひとりである入交享子さんは、大阪で家庭科の教師をしており、その教え子さんが当時ミラノに住んでいた。折角だから、お会いしましょうと言うことになって、ドゥオーモ広場で待ち合わせをする。結局、これがオフィス弁当の日主催である万博ツアーの、最後の「公式」プログラムということになる。万博は二日連続で終日見学して、その後にレオナルドの《晩餐》に行った。それからガレリアで土産物をちょこちょこ買ってから、夕暮れに教え子さんに会った。その後、比良松先生、平尾先生、そして入交夫妻とはミラノでお別れして、僕たちはシレノス、ファウヌス、パンだけを連れて、詰まり「蛇足」と一緒に翌日にミラノ中央駅から陸路でスイス入りした。


入交さんと教え子たち


グリンデルヴァルトはツェルマットと並んで、典型的なアルプスの観光地だ。グリンデルヴァルトからはアイガー、メンヒ、ユングフラウという三名峰が肩を並べているのが、よく見える。因みに最後の「ユングフラウ」にはヨーロッパで最も標高が高い鉄道駅が有り、「トップ・オブ・ヨーロッパ」と呼ばれている。そこに和彦さんが、ドイツから車で合流する。奥さまの恵美さんと、同僚の堀江伸吾さんという「道連れ」を載せて。「ヨーロッパ最高峰」と言っても、登頂は楽チンだ。何故なら頂上まで、登山鉄道が敷かれているからだ。だから電車に乗ってしばらくすると、ユングフラウの頂上に到着する。ここでの特に貴重な体験は氷河の中を歩かせてくれることだ。何万年も前に積もった雪の塊に穴を掘ってトンネルにしているのだから、この中だけは冷凍庫の様に寒い。この為だけに防寒具は必須だが、それ以外は全て建物の中なので、軽装にサンダル履きでも問題は無い。そしてグリンデルヴァルトでの僕の最高の思い出は、モンゴル話の第七回でも書いたパラグライダーだ。その時には写真を掲載するのは忘れてしまったので、ここで改めて掲載しておこうと思う。


パラグライダー 父の足下のグリンデルヴァルトの家並み
アイガー山麓を背景にパラグライダー


こんなカンジで、スイスで散々遊んだ挙句、そこから更に陸路でドイツ入りして数日滞在してから帰国した。この時にも色々とエピソードが有るが、紙面の都合から大部分は割愛する。但しミュンヒェンのレストランで、ヘルベルト・マイヤーホーファーさんと会食をしたことだけは書いておこうと思う。何故なら僕はヘルベルトと、2008年に日本旅行をして以来の仲だからだ。第12回で簡単に述べたが、僕は和彦さんの引率するドイツ人の日本旅行に同行している。そしてヘルベルトは奥さんのマリアと一緒に、そのツアーに参加していたので面識があった。そこから三年後、日本で東日本大震災があった日に、僕はヘルベルトの家にホームステイしていた。そして、その翌々年だったと記憶しているが、僕がドイツから帰国する直前に母の大好きなブレッツェルを、機内持ち込みのトランクに一杯に買ってくれたのもまた彼なのだ。そして、この年もまた彼にお世話になっている。和彦さんがイタリア人で勿論イタリア語が堪能だった彼にお願いをしてくれて、ミラノ万博ツアーの為に、レオナルドの《最後の晩餐》のチケットを予約してくれたのだ。今はどうなっているか知らないが、少なくとも当時は電話で予約する以外の選択肢は無かった。そして、その場合は二つの「障害」が有る。第一は電話予約なので、イタリア語が出来ないと文字通り話にならない。そして第二に、プラチナチケットなので、いつ電話しても基本的にずっと話中でそもそもオペレーターに繋がらない。そして。ようやくつながったところで希望の日時でチケットを取れる保証は何処にも無いのだ。しかも僕たちは、和彦さんを抜いて10人という大所帯、僕は状況次第では予約を二つに分割することまで考えていた。結果的には、ヘルベルトが朝から何度も電話をかけて、午前中いっぱいを使って希望通りのチケットをとってくれたのでことなきを得たのだが。恐らくヘルベルトは、和彦さん、清隆さんに次いで、万博ツアーの第三の功労者なのでは無いかと思う。と言うことで僕たちは「ベントウ・ボックス」という日本食レストランに、ささやかな感謝の気持ちとして彼を招待した。食事の最後に、父はいつになく凛々しい顔で「お代は、私が持ちますから」と言って支払いを済ませた。勿論、僕のカードを使って。


二週間のミラノ万博ツアー全体を通して、僕の父に最も感銘を与えたのは、和彦さんの食器洗浄機の使い方だった。和彦さんは食事で使って汚れた食器を、食洗機に仕舞うのをまるで何かの宗教儀式で有るかの様に丁寧に行った。だから父は「和彦さんの食洗機に対する真剣さを、自分も見習わなければならない」と何度も述懐している。そして帰国後、父は食事の片付けをする時に、折に触れて「自分の師匠は和彦さんだ」と言う様になった。ドイツ留学時代から、僕は和彦さんに絶対服従を誓っていた。そして留学から帰国後に、程無くして母もまた、和彦さんの言うことを僕の言うことよりも優先する様になった。そして2015年のミラノ万博ツアーで遂に、竹下家は和彦さんに完全にオルグされてしまった。だからもし僕が何時か、このNOTEで「和彦さんからウン千万の有難い壺を買わせて頂いた」みたいなことを書いていたら、そういうことなので皆さま、今後とも監視の方ヨロシク!!!


食洗機に向き合う和彦さん


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『 大天使 』
100×65cm
1938年パウル・クレー、ベルンのアトリエで 油絵
レンバッハハウス、ミュンヘン(ドイツ)