吉田和彦さんとの思い出:その16
振り返ってみると第13回は、2010年春の高松国際ピアノコンクールで一高先生にバッタリ会った後に、僕の「人とハモりたくない症候群」について告白する話、第14回は同年夏の美智子の教えの話、そして第15回は2015年秋ミラノ万博に行った筈なのに、何故だかヴェネツィアの描写が無駄に長い話だった。よって今週は、その続きから筆を起こす。
ヴェネツィア観光を語る上で、ゴンドラの話は避けて通れない。しかしゴンドラ観光の素晴らしさを理解して頂く為には、先ず「水の都」と呼ばれているヴェネツィアの地理について述べなければならないだろう。

この画像からも明らかな様に、ヴェネツィア本島は魚の様な形をしていて、それは小さな島々が177も集まって出来た集合体なので有る。
この小さな「島」の上には人が住む建物が有って広場が有って、そして当然、道も有る。しかし人間は、この「道」を通って隣の島に行くことは出来ないので、そこへ行きたい場合は船に乗るか、或いは橋を架けるしかない。この様に無数の島が「橋」と「運河」によって網の目の様に結び合わさったものの全体が魚の様な形をした「ヴェネツィア本島」の正体なのだ。
そして、この魚の「骨格」を成すのが「カナル・グランデ」で、それは北西から南東へ、逆S字形に約3キロに亘ってヴェネツィアを貫いている。画像を見ても明らかな様に、カナル・グランデは他の運河に比べて著しく太く、そこに架かる橋は四つしかない(その内のひとつが、前回に紹介したリアルト橋だ)。
カナル・グランデに代表される運河はヴェネツィア全体で150以上あり、それらが島を「分けている」と言うことも出来るし、また「つないでいる」と言うことも出来るだろう。そして運河を跨ぐ橋の総数は400を超えると言うから、いつか僕はそれらの全部を渡ってみたいと思っている。
ヴェネツィアの運河が複雑である様に、市街地の道もまた、迷路の様に複雑な構造をしている。或る路地なんかは、両手を真横に拡げられないくらいの細さで、それが垂直に伸びる五、六階くらいの高層建築に挟まれているのだ。この細い路地を通る時の圧迫感と、ワクワク感の為だけでも、僕は実際にヴェネツィアに行ってみる価値は有ると思う。
それがヴェネツィアの道路事情なので、そもそも自動車は市内を通行出来ない。それどころか自転車の使用も禁止されているので、ヴェネツィアの道は通年で「歩行者天国」なのである(但しベビーカーや車椅子は可)。そして、こんなヴェネツィア本島は1846年にオーストリア帝国治世下でイタリア本土との間に鉄道が敷かれるまで、海上に浮かぶ孤島だったのである。
さて、これでようやくゴンドラの話が出来る。言うまでもなくゴンドラとは、ヴェネツィアの伝統的手漕ぎボートのことであり、昔はゴンドラの色は黒でなければならないという法律さえ有ったらしい。
そして何故、ヴェネツィア観光にゴンドラが欠かせないのかと言う理由は、僕が既に述べたヴェネツィアという街の極めて特異な構造と関係している。詰まりヴェネツィアの街並みを充分に満喫したいなら、路地を歩いただけでは片手落ちになってしまうということなのだ。
ヴェネツィアを構成する小さな島は「橋」と「運河」でつながっている。よってゴンドラに乗って「運河」の側から街を眺めるということは、言わば「ヴェネツィアの裏側」を覗き見る様なものなのだ。
これは全く当たり前の話で、基本的に建物というのは通りに面している側を「表」と呼ぶ。よってゴンドラに乗って運河の側からヴェネツィアの街並みを眺めると言うことは、必然的にこの街の「裏」側を覗き見ることになるのだ。だからゴンドラから見える景色というのは何処か「生活間」が漂っている。それは通りに面した観光客用の華やかな「表の顔」とは対照的なものだ。
しばらくすると、どこからともなくコーラスの歌声が聞こえて来る。恐らく、音楽学校か何かが有るのだろう。そして余り上手く無いヴァイオリンの音も聞こえて来る。音楽学校が有るのなら、そこで練習している人が居ても何も不思議ではないだろう。何故だか水の体験と、音楽というのはやたらと相性が良い。
僕は2024年、両親と一緒に島根県の松江城のお堀を船に乗って一周するというツアーに参加したが、この時の船頭さんの歌声も、また格別だった。そして皿洗いをしている時に、或いは手を洗っている時に、何故だか鼻歌を歌いたくなるのは、僕だけだろうか。
そしてゴンドラに乗っていると、どうしてヴェネツィアの橋が太鼓橋の様な形状をしているのかが分かる。何故なら、そういう構造にしておかないとゴンドラをはじめとして運河を移動する船舶が、その下を通行できないからだ。詰まり、この独特な形状の橋は陸と海の「立体交差」なのだ。
ここで読者の皆さまには、ヴェネツィアの市街地には自動車の乗り入れが禁止されているということを思い出して欲しい。よってヴェネツィア本島内での陸上物流は、全て、人力によるということになる。だからヴェネツィアの街を歩いていると、大八車を押して荷物を運んでいる人を頻繁に見かける。そして興味深いことに、この大八車にはヴェネツィア特有の太鼓橋の階段を登って行ける様に、荷台の前面にも車輪が付いているのだ。


パドヴァはヴェネツィアから一時間弱の距離に有る。パドヴァと言えば矢張りスクロヴェーニ礼拝堂で、ヴェネツィアに行く予定の有る人は是非、こちらにも立ち寄って欲しい。と言うのもお恥ずかしながら僕もスクロヴェーニ礼拝堂に関しては、長らく注目して来なかったからだ。
確か2008年か2009年だったと記憶しているが、この時に僕は初めて徳島県鳴門市の大塚国際美術館に行った。大塚美術館というのは、主に西洋絵画の名作を原寸大の陶板で再現しているという、詰まり「本物がひとつもない」という稀有な美術館なのだ。そして大塚美術館の白眉は、何と言ってもミケランジェロの天井画と《最後の審判》で有名な、システィーナ礼拝堂の原寸大模型だろう。
僕は、この「システィーナ・ホール」についても、色々と言いたいことが有るが、話を余り逸らさない様にしよう。それで大塚美術館では、その隣にスクロヴェーニ礼拝堂の原寸大レプリカも展示されているのだ(詰まりローマからパドヴァまで、徒歩30秒という訳だ)。
大きくて自然光の入る、明るいシスティーナ・ホールに対して、このスクロヴェーニ礼拝堂の模型は、照明が人工のもので有ると言うこともあって、何処か陰鬱な印象を与えた。しかし、壁に描かれている、ひとつひとつの「場面」に注目するとそこには見覚えの有るジョットの名作が並んでいる。詰まり僕はジョットの《磔刑》については長らく知っていたけれども、それがスクロヴェーニ礼拝堂の壁画の一部だと言うことは、この時まで意識してはいなかったのだ。
レオナルドの《モナ・リザ》という絵画は知っているけれども、それがイタリアに有ると思っている人もいるかもしれないし、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》がスペインに有ると思っている人も居るだろう。同様に僕はジョットの活動範囲を、勝手にトスカーナに限定していた。何故なら僕はアッシジの大聖堂には、2002年に行っているからだ。
さてジョット・ディ・ボンドーネは、あのタイトルだけは知っているけれども誰も自分では読んだことのない『神曲』のダンテと同時代の人物であり、また同時にイタリア・ルネサンス最初期の画家だ。ジョットの先進性は、その「後継者」と呼べる画家が、その後に実に百年間も現れなかったことからも示される。
実際、教科書的な意味でのイタリア・ルネサンスは1401年、即ち十五世紀の最初の年に開催された、ブルネッレスキとギベルティのコンクールから始まる。ここに彫刻家のドナテッロ、そして画家のマザッチョを加えて、僕は、イタリア・ルネサンスの「第二波」と呼んでいる。そしてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロというお馴染みの三巨匠が活躍する「第三波」は、同じクワトロ・チェントの最後なのである。そう考えると「第一波」としてのジョットは、そこから遡ること実に二百年も前に「ルネサンスの萌芽」を世界の美術史上に植えたことになるのだ。
以上の様な意味で僕は、スクロヴェーニ礼拝堂に入る前のツアー参加者に「中世と近代の分水嶺としてのジョット」の話をした。詰まりジョットの絵画には中世の様な硬直した描写と未成熟な遠近法が見られるが同時に近代的な写実性の発端も見られるので、その点に注目して欲しい、と(この時に僕はウフィッツィの《マエスタ》を前提に話していたが、それを画像でお見せしなかったのは、僕がマヌケだからだ)。
横にいた和彦さんには「哲生くんその話、本当に約束の三分で終わるの?」と言われたが、ちゃんと三分で終わった。後から「五時間の講演が始まるかと思いましたよ」と冷かされたが。
僕たちは、この他にもヴェネツィアン・グラスで有名なムラーノ島や、レース編み産業の地であるブラーノ島にも行ったのだが、そろそろ読者の方から「いい加減に万博の話をしろ」という声が聞こえて来そうなので、この辺りでミラノへ移動する。

ミラノ万博の会場は、中心市街地から北西に電車で30分くらい離れた郊外に有った。開場時間前に入場ゲートに着くと、既に長蛇の列が出来ていて、オープンの時間が来ると同時に何十もあるゲートが一斉に開き、大勢の人が万博会場に流れ込んで行く。僕たちの目標は日本館だ。
と言うのも前回に述べた農水省の方の計らいで、僕たちは一般来場者の入る正面玄関ではなく、裏口からの入館が許されていた体。そして、この「裏口入館」には時間指定が有ったので兎に角、遅れてはならないということで万博会場に入ると同時に僕たちは、一目散に日本館を目指した。
ミラノ万博は、東西に細長い約110ヘクタールの敷地に建設されている。そして、この細長い敷地を貫く様に、「デクマーノ」と呼ばれる目抜通りが通っていて、その左右に54の国別パビリオンが配置されているという構造になっている。日本館は、この全長で約1.5kmあるメイン・ストリートの、ほぼ終端に経っていたので、僕たちは右と左に様々な国の国旗を横目に見ながらひたすら歩いた。この中央通りの上には日差しと雨を避ける為にトンネル状のテント幕が張られていて、それが左右非対称の構造になっていたのを、今でも印象的に覚えている。
日本館に着くと、そのすぐ手前で殆ど人通りの無い路地に折れて裏口をノックする。暫く待って通されたのは、一般の来館者が入るのと同じ展示スペースだ。展示内容はイタリア人にイタリア語で日本を紹介するものだったので、僕たちにとっては意味不明だとも言えるし、またもともと全部知っているとも言える。
プロジェクション・マッピングや自動音声のナレーションが流れる「体験型展示」のスペースを後にすると、次に普通の美術館の様に歩いて見て回るギャラリー・スペースが続く。……とスッカリ忘れていたのだが、そういえば本題は「子どもが作る弁当の日」の食育実践が、どう紹介されているかを視察することだった。そう思っていると:
あった!!!
見覚えの有る父の写真だ。日本館の全体から見れば、確かに小さなスペースではあるが、ひとつのコーナーというか部屋が父の食育実践の紹介に割り当てられていた。こういった形でのオフィス弁当の日の支援もあって、日本館の来館者数は228万人にも昇り、パビリオン賞で「金賞」を受賞した。これは博覧会国際事務局によるもので、何でも登録博では史上初の快挙だと言う。
それで展示スペースを出ると、宮崎県産の食材のプロモーションに来ていた河野景子さんに偶然お会いした(あの元フジテレビアナウンサーの方だ)。それで父は恰も「関係者」の様な顔をして河野さんとしばらく談笑した後に、ちゃっかりツーショット写真も撮って貰っていたりもした(先方にご迷惑をおかけする訳にはいかないので、ここには公開しないが)。
日本館のコンセプトは「伝統と技術の調和」で、恐らくそれを象徴するものとして建物の外側が木組みの細工で装飾してあった。僕は目が悪いので、この木組みの細工が建築全体に対してどういった意味を持っているかまでは分からなかったが、少なくとも近くから見る限りは非常に印象的なものだった(大阪万博の「大屋根リング」も多分こんな感じだったのだろう)。



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100 x 126 cm
1932年パウル・クレー、デュッセルドルフ時代の点描画
ベルン美術館蔵、ベルン(スイス)
