吉田和彦さんとの思い出:その2
僕が吉田先生に教えて頂いたことは、大きく二つの領域に分けられる。
第一に僕はプリースターゼミナールの学生として、吉田先生の儀式音楽の授業を受けている。そもそもプリースターゼミナールというのは、キリスト教の司祭を養成するための学校なのだから、礼拝の中で演奏される音楽、即ち「儀式音楽」が、音楽の授業の中心に有ることは当然だと言える。しかし第二に僕は、学校での正規の授業とは全く別に、彼からピアノの個人レッスンを受けていたのだ。
これは今にして思えば、どうしてそういうことが可能だったのか全く理解できない。そもそも吉田先生はミュンヘン在住で、学校の有るシュトゥットゥガルトまで、毎週火曜日にICEでニ時間半かけて来ていた。そして一日のうちで4コマか5コマの授業をしていたので、吉田先生の火曜日の予定はびっちり埋まっていたに違いない。だから僕にピアノの個人指導をするとしたら、僅か10分しかない休憩時間を使うか、或いはドイツ人にとっての「聖域」であるお昼の休憩に手を出すしかない。
結局、僕たちがどういうかたちで時間を作ったのかは全く覚えていないが兎に角、毎週火曜日に吉田先生は、かなり時間を取って僕の下手クソなピアノを見てくれた。頼んだ僕は随分と厚顔無恥だが、それを受けてくれた和彦さんの方も、それはそれでどうかしている。何故なら客観的に見て「時間がないので、残念だけど無理ですね」と応じて当然の状況だったからだ。
さてレッスンの形式は、特に珍しいものではない。先ず僕が、その週までに仕上げてきた曲を弾く。それは一楽章を通しての場合も有れば、「今週はここまでです」と言って曲の途中で弾き終わることも有った。そうすると吉田先生は少し黙って「じゃあ、ココに戻ってみましょうか」と言って、良くなかった箇所をもう一度弾かせる。納得いけば次のパッセージを弾かせてくれるが、納得いかない場合は「戻って」と言われる。
そして三回くらい同じところを弾いても上手くいかない場合は、そこから長い長い「お説教」が始まる。詰まり、そのパッセージが、どうしてこの曲のこの箇所に必要なのかという「説明」だ。そして当然、それに付随して「お手本」も見せてくれる。特に僕の参考になったのは、鍵盤の「触り方」が直接的に音色を決定づけていることだ。(実際、ピアノで「嫌な音」を出す人は、鍵盤を「嫌な触り方」をする。)
さて、ここから先は吉田先生が、レッスン中に何に注目し、そして生徒に何をさせようとしているかを、誠に僭越ながら僕の言葉で解説したいと思う。但し音楽の指導内容を言葉で表現するのは殆ど不可能なので、ここでは仮に吉田先生は絵画の先生だということにする。
この喩え話の中で僕は油絵を習い始めたばかりの素人で、ゴッホの《ひまわり》を自分で模写したものを先生に見てもらっているところだ。お分かりだとは思うが、この喩え話では《ひまわり》が楽譜で、僕の模写した作品が僕がピアノで弾いた曲だということになる。そして以下の様な遣り取りが為される:

92.1×73cm
1888年
ロンドン・ナショナル・ギャラリー ロンドン(イギリス)蔵
吉田:ゴッホの描いた方の《ひまわり》を見ると、この花びらに対して、こっちの花びらのほうが僅かに白っぽくなっていますが、哲生くんの模写は全く同じ色で塗られていますね。
竹下:ええ、確かに違うと言われれば違っている様な気がしてきましたが、そんな微妙な違い、誰も気がつきませんよ。

100.5×76.5cm
1889年
SOMPO美術館 東京(日本)蔵
吉田:そんなことはありません。何故なら、右のひまわりはこっちを向いていますが、左のひまわりは向こうを向いているからです。詰まり同じ花びらを裏から見るのと表から見るのとでは、色が同じはずはないのです。
竹下:まあ、そう言われてみれば確かにそうですが、花びらの表と裏の色調を、僕のテクニックで描き分けられるかな……

95×73cm
1889年
ファン・ゴッホ美術館 アムステルダム(オランダ)蔵
吉田:大丈夫です、大切なことは実際に出来るかどうかではなく、どうあるべきかをちゃんと理解して、それをやろうとすることです。じゃあ、もう一回……」
以上の様な遣り取りが、「言葉」ではなく、ピアノで出す「音」で行われていたと想像してみて欲しい。これが僕が吉田先生から、ピアノ・レッスンの時に教えて頂いたことだ。
誠に恥ずかしながら、僕は吉田先生のレッスンを受けるまで、「楽譜を読む」ということがどういうことなのか、全く理解していなかった。音楽で言うところの「楽譜を読む」というのは詰まり上の《ひまわり》の模写の話の様に、「文脈を理解する」ということなのだ。
同じ画面内の同じ種類のひまわりであったとしても、既に述べた様に花びらの裏と表は別の色で塗らないといけないし勿論、陰になっているところは少し暗くなっているだろうし、光の当たってる箇所は少し明るい色調になっているはずだ。
ところが、そんな「微妙な違い」の全てを無視して、全ての花びらを同じ色にしてしまうなら、なんと詰まらない作品になることだろう。音楽においてもそうで、例えば「ミ」の音を毎回同じように弾いていたのでは、機械で出した様な音になってしまう。実際は、同じ「ミ」でも毎回違うように弾くべきであって、それは楽譜の「文脈」が読めれば理解できる。だから僕は、レッスン中に「ここの箇所は、こうやって弾くんです。そう楽譜に書いてあるでしょうと吉田先生に何回言われたか分からない。「そう楽譜に書いてある」と言われても、僕に見えるのは並んだ音符と強弱記号だけだ。
絵画が二次元の芸術であるのに対して、音楽は一次元の芸術だと言うことが出来る。一次元だということは詰まり、スタートとゴールが明確で、尚且つ分岐や袋小路の無い迷路の様なものだ、ということである(実際、昔はテープレコーダーといって、一本の長い「帯」に音楽が記録されていた)。だから最初の音はコレで、次の音はコレ、第三の音はコレ、またその次は……と繋げていって、最後の音を鳴らすことが出来れば、音楽は「完成」する……と考えてしまう、
しかし、この考え方はゴッホの《ひまわり》を模写する時に「キャンバスの右上から左に6センチ、下に9センチのところは赤、その3センチ右で、2センチ上のところは緑……」ということを根気よく続けていけば、いつかはキャンバスの全体が色で埋まり、美しい絵が出来るだろう、と考えるくらいにバカげている。
《ひまわり》を模写したいなら先ず、それは「色彩を持った点の集合体」などではなく、ひまわりという花が描かれていると言うこと即ち、その絵画の「モチーフ」が何かを理解しなければならない。そしてモチーフを理解したら、次に来るのは「全体像」だ。ひまわりは決して空間の中で宙に浮いている訳ではなく、花瓶にさされて、その花瓶はテーブルの上に置かれている。これが差し当たり重要な「構造」であって、例えばひまわりの「背景」に、どんな対象物が有るかはどうでも良い。
そして模写する人が、そういったことを「理解」するならば、例えば植物で有るひまわりと、陶器である花瓶は違った風に描かなければならないと言うことが自ずと分かる。花瓶は円筒形のものなので、それを塗る時には「丸さ」が出る様に筆を運ぶはずであって、それは最早「点の集合体」ではない。
音楽も同じで、それは確かに一次元なのかも知れないが、その中には明らかに「構造」が有る。最初の音から始まって、最後の音で終わるのは誰がやっても同じだが、音と音が「どう繋がっているのか」を「読む」ことが出来るかどうか、で既に音の出し方が異なって来る。
そして音楽に詳しくない人は信じられないかも知れないが、この「音と音とのつながり」というのは、最初の一音を出す前から決定されている。何故なら殆どのクラシック音楽には「調性」というものが有って、ぞれぞれの音は最初から「役割」を与えられているからだ。これを《ひまわり》の喩え話に戻すならば、未だ何も描いていないはずの真っ白なキャンバスをよくみると、そこに複雑なグリッドが引かれている様なものだ。そして調性の有る音楽というのは基本的に、このグリッドに従って音を出すことしか許されてはいないのだ。
もっと言うならば音楽では、ひとつのスケールに七つの音しか存在しない。
それは絵画で言うならば、たった七色で絵を描かなければならない様なものだ。小学生がお絵描きで使う色鉛筆でも十二色なのに、音楽かはプロであっても七音しか使わせてくれないのだ。しかも音楽には「インターヴァル」という概念が有るので、絵画の様に異なる色を「混ぜて」自分でオリジナルな中間色を作ることは許されていない(或いは、そういった中間的な音は、普通の人の耳には「濁った音」として認知されてしまう)。
絵画を専門にされている方なら、最初からグリッドが引かれていて、それに従ってキャンバスを七色で埋めるのならば、音楽は「塗り絵」みたいなもんじゃないか、と思われるかも知れない。それは悪く無い喩えで実際、この白紙の塗り絵を僕たちは「楽譜と呼んでいる。しかし既に述べた様に音楽は、指定の箇所に指定の色を配列するだけでは完成しない。そうではなく、楽譜が示そうとしている「全体像」をちゃんと読み取って、作曲者の「意図」に従って音を出さなければならない。そして、これが「楽譜を読む」ということなのだ。
日本の職人さんは、よく「神は細部に宿る」と言うが、どうして「細部」なのかは、この「楽譜を読む」という考え方が教えてくれる。《ひまわり》で花びらの裏と表では色が違うと指摘されたとき、僕は「そんな細かいこと」と、細部を軽視する様な発言をした。しかし僕が見えていなかったのは花びらの「色の違い」ではなく、右と左のひまわりでは向きが違うという「構造の違い」なのだ。詰まり僕が見えていなかったのは「細部」ではなく「全体」なのである。
そして興味深いことに、「全体が見えていない」という、僕の「芸術家としての欠点」は、僕が花びらの微妙な色彩のニュアンスを描き分けられていないという「細部」に現れるのだ。芸術家というのは、普通の人ならば見過ごしてしまう様な「細かいこと」――例えば、その楽器の調律が1ヘルツ狂っているとか、そういうことばかりに拘っている、神経質で高飛車な人たちというイメージが有るかも知れないが、それは文学作品などで、過度に誇張された芸術家像に過ぎない。或いは別の表現を用いるならば、その人は芸術家を、或いはもっと言うならば芸術そのものを正しく理解していないのだろう。
芸術において本質的なことは、先ずは「全体」を理解することだ。だから例えば葬送行進曲を、勇ましい軍隊マーチの様に弾いてはならないし、柔らかい羽毛布団を硬い陶器の様に描いてはならない。しかし「恐らく、このくらいのことは誰でも分かっている。問題は、ここから更に「全体の理解」の精度を上げていこうとしたら、確かに普通の人が「誤差」だと感じる様な細部にも、微調整をかけていくしかない、ということなのである。
以上の話で明らかになったと思うが、芸術において「理解する」という認知的な側面は本質的な意味を持っている。芸術的な創造行為に、「感性」が求められることは言うまでもない。しかし「感性」だけを頼りにした芸術は、容易に「独りよがり」になってしまう。何故なら「感性」というのは半ば無意識的なものだからだ。詰まり人間は、或る意味では「感性」を完全にはコントロールすることが出来ないのであって、その為に人間は「理性」の助けを必要としているのである。
この考えが信じられないという人は是非、YouTubeに幾らでも転がっているピアノ・レッスンの動画を見てみて欲しい。そうすると殆どの先生は、鍵盤の上でのちょっとしたアクションを実演して見せた後に或いは、その前にやたらと長い説明をしていることに気がつくと思う。そして、こういった説明を、どうして「無駄に長い」と感じてしまうのかと言うと、その大切さが実際には何も分かっていないからである。かく言う僕も、吉田先生の有難いお説教の間中「うるせ〜なコイツ、早く弾かせろよ」と思っていた。
しかし全ての花びらを同じ色で描いても良いと思っている限り、或いはひまわりの中心部の茶色と、花瓶の茶色では「意味」が違うと言うことを理解しない限り、芸術における前進はない。
だからショパンはレッスンの時に、生徒に「知性と集中力」を常に求めた。芸術において認識的要素は、不可欠であるばかりか、それを深めていくことは感性も高めてくれるので有る。
芸術は感性から生まれる。それは全くの事実だ。しかし自らの感性を高めていきたいのであれば、そこで理性の助けを借りることを怠ってはならない。
同様に学問は理性から生まれる。しかし理性は自らを高める為に、感性の助けを必要としている。
前者は吉田先生のお仕事であり、後者が僕のお仕事なのである。

24.5×37.3cm
1921年
パウル・クレー、バウハウス時代の水彩画
フェリックス・クレー ベルン(スイス)蔵
その3 🎹
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その1
