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吉田和彦さんとの思い出:その1


僕は基本的に、何らかの能力を身に付ける時には、とにかく独学で乗り切ろうとするタイプの人間なので、そもそも自分の人生を振り返って「先生」と呼べる様な人が殆ど居ない。しかし、ほぼ唯一ミュンヒェンの吉田和彦さんだけは、僕の「師匠」だと言える人なので、これからしばらく彼について書いていこうと思う。


僕が吉田和彦さんに初めてお会いしたのは2002年、即ち僕がプリースターゼミナールに入学した時だ。これでピンと来た人も居ると思うが、これは僕がイェッセさんに初めて出会ったタイミングと全く同じだ。僕は自分のバイオグラフィーを物語る上で、何度もこの「プリースターゼミナール」という言葉を使わなければならない。それは僕が、この学校に特別の愛着が有るからではなく、ここでの体験が明らかに僕の「人生の分岐点」になっているからだ。そして、この年に僕は二十一歳に成っていたと言う事実も、実に意味深に思える。

「プリ―スターゼミナール」について


さて、この学校に入学する時、僕は学長から「ウチの学校には日本人は一人もいないよ」と聞かされていた。これは僕にとって実に好都合なことで、何故なら、その前に僕が居たユーゲントゼミナールでは十五人中五人が日本人という有様だったからだ。詰まり、そこは「小京都」ならぬ「小日本」みたいなもので、とても「ドイツに留学した気分」にはなれなかったのだ。
だからドイツに留学して一年半、田舎のエンゲンから都会のシュトゥットガルトに出て来て「日本人フリー」の空気を満喫しようと思っていた矢先、僕は学生用のポストで「Yoshida」という文字列を発見する。


ヨシダ?


明らかに日本人っぽい名前だが、何かの間違いに違いない。何故なら僕は学長から「君以外に日本人は居ないよ」と聞かされていたからだ。
因みに、この「学生用のポスト」というのは凡そ集合住宅の郵便受けの様なものなのだが、形状が少し違う。それは週刊少年ジャンプがスッポリ入るくらいの縦長の穴が一人分のスペースで、それが二段にズラッと並んでいるものなのだ。この学生用のポストは外部からの郵便の私信や、学内での連絡事項や資料配布などに使われていて、そこは言わば学生生活の「ハブ」だったのだ。
程なくして分かったのは「ヨシダ」というのは音楽の講師で、毎週火曜日だけミュンヒェンからシュトゥットゥガルトに出て来るらしいということだ。学長が「日本人は居ない」と言ったのは飽くまでも「生徒」の話であって「講師」だとは言っていない。これを僕は「日本人フリー」だと勘違いして舞い上がっていた訳なのだが、なんだか騙された様な気分でモヤモヤしていた。
さて一方、吉田和彦さんの方も同じくモヤモヤしていた。何故ならプリースターゼミナールは伝統的に日本人の少ない学校で、和彦さんは数年前赴任して以来、「日本人フリー」の職場を満喫していたからだ。
と言うのも当時の和彦さんは、かなり重篤な苦手意識を日本人に対して持っていて、そんな中で新入生に「タケシタ」とか言うい輩が居ると聞かされていたからだ。日本人嫌い二人の日本人の出会い。ムムム、これはのっけから不穏な雰囲気だ……。


と言うことで僕と和彦さんは出会ってから最初の半年ほどは、ずっとドイツ語で話していた。只、これに関しては二つの言い訳をさせて欲しい。第一に、確かに僕と和彦さんは互いにアウトボクサーの様に「距離」を取っていたのは確かだが、ドイツ語で行われている音楽の授業中に、僕だけ日本語で話しかける訳にはいかない。
そして第二に――まあ、こちらの方がよっぽど大きな問題なのだが――そもそも外国語を学んでいる途中の人間にとっては、言葉を「切り替える」ということ自体がカナリ億劫なのだ。但し、この状況は「日本語で考えたことを、ドイツ語に翻訳して喋っている」間は起きない。そうではなく、「ドイツ語で考えてドイツ語で喋っている」のが普通になっているからこそ、それを「日本語に翻訳する」のが億劫なのだ。
この「言語の切り替え」の問題は、自動車の運転で言うところの右ハンドルと左ハンドルの違いみたいなもので、一度慣れてしまえばどうってことはない。しかし、日常生活のなかで、その「切り替え」を頻繁に行わなければならない状況が無いのだ。例えば日本で運転免許を取得して五年間、左側通行で走った後にドイツに移住して右側通行で走らなければならないとなると、最初は随分と戸惑うと思う。しかし一ヶ月もすると右側通行が寧ろ「普通」になって、日本で長らく走って来た左側通行が「不自然」に感じられる。よっって「僕は右ハンドルでも左ハンドルでも、どちらでも大丈夫ですよ」と言える様になる為には、右側通行の国と左側通行の国を複数回、往復しなければならない。
さて僕は今、通訳の話をしている。詰まり通訳をするということは、この「切り替え」を1分ごとに行うということなのだ。もっと具体的に言うと、講師の先生がドイツ語で喋っている間、僕は日本語で考えている。そうすると僕が「喋る」段階に入った時に、自分の思考内容を「翻訳」する必要が無くなる。反対に日本人が日本語で質問している時に、僕はドイツ語で考えているのだ。僕は前者を「下り」、後者を「上り」と勝手に呼んでいるのだが、どれだけドイツ語に堪能でも「上り」が出来ないので通訳は出来ない、という人は決して珍しくない。
そういった意味では「ドイツ語が喋れる」ということと、「ドイツ語の通訳が出来る」ということは、全く異なる能力だと言っても差し支えない。前者がピアノ曲を聴いてピアノ曲として採譜する能力だとするならば、後者は歌謡曲を聴いてピアノ曲にアレンジしたものを採譜する能力だと言い換えることが出来ると思う。そして通訳は、これを「即興」で行わなければならないので、最初から「手数」を蓄えておく必要が有る。
或いは外国語学習には、三つのフェーズが有ると言っても良い。第一は言いたいことを日本語で考えて外国語で喋っている状態で、この段階は誰もが通過する。第二は外国語で考えて外国語で喋れる様になる段階で、この状況を日本語では「ペラペラになる」と言う。外国語を学んだ経験の無い人は、この「ペラペラになった」状態が外国語学習の「ゴール」だと思っている節が有るが、それは全くの勘違いだ。
例えば僕が「楽譜さえあれば、どんな曲でも一日有れば仕上げて来ますよ」と言ったとすると、音楽を良く知らない人は「竹下さんは、きっとスゴいピアニストに違いない」と勘違いするかも知れない。しかし仮に、僕が幼稚園の保育士さんだったなら、どうだろうか。その場合「どんな曲でも」というのは「園児が歌う童謡の伴奏ならば何でも」と言う意味であって、文字通りにどんな曲でもという意味ではない。同様に「仕上げる」というのは「幼稚園の歌の時間に必要な程度にまでは弾ける」という意味であって、単独コンサートで披露できるレベルという意味ではないのだ。
これと似た様なことが、外国語学習における「ペラペラ状態」にも言える。そこでは単に「日常生活では困らない程度に外国語が喋れる」ということを意味しているだけであって、そこにはその人がどんな「日常」をおくっているかは述べられていないのだ。その人が医者や弁護士や大学教授ならば、高度の語学力が求められる「日常」だということが想定されるし、単なる旅行者ならば「日常」の中で求められる語学力は、さほど習得困難なものではない。
話を元に戻して、第二のフェーズというのは詰まり「外国語で考えたことを、外国語で喋れる状態」なのだが、但し「何を考えているか」は、その人の日常によって大きく異なる。そして第三のフェーズが既述の「切り替え」の話なのだが、殆どの人はここまでに至ることはない。何故なら通訳をすることが無い限り、そもそも「切り替える」必要が無いからだ。
幸いなことに僕は、ドイツに留学して半年くらいの時点で通訳の仕事を任されていた。だから「ドイツ語を聞いて理解できる」という第二段階の次には「理解したドイツ語を日本語で表現できる」というフェーズが有ることをずっと意識していた。僕は、或る人が「海外に長く住んでいると、日本人から『通訳なんて出来て当たり前でしょう』と思われてしまうけれども、私には出来ないので迷惑している」と愚痴っているのを聞いたことが有る。実際、殆どの人の外国語学習は第一フェーズから第二フェーズに移行した段階で頭打ちになる。そして通訳や翻訳を生業としている人間だけが、無限に続く第三フェーズの中でもがき苦しんでいるのだ。
と言うことで以上が、吉田和彦さんに初めてお会いした当時、未だ第二フェーズに引っ掛かっていた僕は、しばらく彼とドイツ語で話していたという長い言い訳だ。


さて和彦さんとのファーストコンタクトは、実に劇的なものだった。
それはプリースターゼミナールで行われた、最初の音楽の授業でのことだった。そこで彼は生徒に「一番好きな作曲家」を尋ねていった。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、ヴァーグナーと、矢張り「クラシック音楽の国ドイツ」だけあって、沢山のドイツ語圏出身の作曲家が並ぶ。でも確かドビュッシーとかドヴォルジャークとか、他の地域の人も居たかと思う。
それで僕は、順番から言って最後から二番目か三番目だったので、自分の番が回って来る頃には言おうと思っていた作曲家は全部言われていた。別にカブっていても、それはそれで構わないのだが、折角だから意表を突いてやろうと「エリック・サティ」を候補に挙げていた。
それで結局、僕が誰の名前を言ったかは覚えていない。今の僕なら「そうですね、僕はピアノを弾く者のはしくれとしては、何よりも先ずショパンとかリストとかが思い浮かぶのですが、ここでは現代音楽との連続性を鑑みて、モーリス・ラヴェルと答えるのが妥当だと思います」と言うと思う。
この「模範解答」には二つのポイントが有る。先ず「好きな作曲家を一人答えよ」と問われたのに、何故だかしれっと三人挙げて無駄に知識を衒している。しかも全く問われていない「現代音楽との連続性」について言及して、質問者の意図を汲み取りつつも「まあ、他にも候補は有りますけどね」という含みを持たせた。ムフフ……我ながら、これは完璧だ。何しろ、ここは初対面、一発カマしておかないと……。
と言いたいところなのだが、この後に続く吉田先生の言葉で僕の鼻っ端は完全に折られることになる:

先ほど、皆さまに挙げて頂いた作曲家の中で、最も古いのは十八世紀前半の人でした。それでは、この中で十七世紀以前の作曲家の名前を、一人でもご存じの方はいらっしゃるでしょうか。

この後、確か誰かが何人かの十七世紀の作曲家の名前を挙げたが、十六世紀にまで遡れる生徒は誰もいなかった。

そこで吉田先生は、こう続ける:

それでは、ここにいらっしゃる方々は、十六世紀以前の作曲家を、誰も知らない訳ですね。そこで皆さまにお伺いしたいのですが、と言うことは十六世紀以前の人類は、音楽を知らなかったのでしょうか。
そんなことは絶対に有り得ません。詳しく調べるまでもなく、今から二千年前のキリストの時代だって、紀元前の古代オリエントの都市国家にだって音楽が存在したことは疑いようの無い事実なのです。
だからこそ私たちは本来、問いを反転させるべきなのです「どうして私たちは、過去数世紀の間に発展した『クラシック音楽』だけを、唯一の音楽だと思い込んでしまっているのか」と。

これは僕にとって晴天の霹靂だった。クラシック音楽を学ぶ者は、必ずバッハは「音楽の父だ」と教えられる。詰まり全ての音楽は、あの偉大なるドイツの作曲家ヨハン・セバスティアンン・バッハによって「始まる」のだと。しかし吉田先生のお考えは、これとは正反対である。詰まり、「本当の音楽」は、バッハによって、「終わる」のである。
この時、僕の両眼はハートマークになっていたと思う。しかもピンク色の。これで完全に打ちのめされてしまった僕は、それ以降、吉田先生には絶対服従を誓うことになる。だから僕は吉田先生のいらっしゃる火曜日には誰よりも先に出迎えて挨拶をし、そして帰る時にも必ずお別れの挨拶をしに音楽室まで降りて行った。
僕は人生の中で、彼に対して以上に誰かに敬意を持って接したことは他に一度も無い。


そういえば、こうやって書いている内に思い出して来たのだが、吉田先生に「一番好きな作曲家」を問われた際、流石にエリック・サティはマズいと思って、直前でチャイコフスキーかラフマニノフに切り替えた気がする。何にせよ、ここで咄嗟に「ハチャトゥリアン」と言えなかったことを僕は、今でも後悔している。


『 ラクダ(リズミカルな木の風景の中) 』
48×42cm
1920年
パウル・クレー、バウハウス時代の水彩画
ノルトライン ヴェストファーレン美術館 デュッセルドルフ(ドイツ)蔵


 その2 🎹