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吉田和彦さんとの思い出:その15


時に、2015年。
このエヴァンゲリオンの年に株式会社オフィス弁当の日は、イタリア・ミラノへの研修ツアーを主催する。それはミラノ国際博覧会を訪問する為だ。ミラノは今年、コルティナと共に冬季オリンピック・パラリンピックを開催し、それは一ヶ月前に無事に閉幕したが、それから遡ること11年前にも、それと同等の大規模な国際的な行事が、この都市では有ったのだ。
ミラノ万博の会期は5月1日から10月31日までで、テーマは「食とエネルギー」だったが、特に「食」をテーマとしたのは万博史上で初のことだった。これで株式会社オフィス弁当の日とのつながりが明らかになったかと思う。何故ならオフィス弁当の日は創業以来、一貫して「食育」を本業にしているからだ。
とは言え弊社は、そんな「薄いつながり」で社員をミラノに派遣するほど経費が余っている訳ではない。順番に説明すると先ず、僕の父の和男が農林水産省の職員の方と懇意にしていて、彼がミラノ万博の「日本館」の展示に関わった方だったのだ。そして日本における食育実践の一例として、父の始めた「子どもが作る弁当の日」に、白羽の矢を立てたという次第だ。
よって万博史上で初である「食の万博」を視察した理由は、世界中の美味しいものを食べるためではなく、自分たちの活動が、どうイタリアで紹介されているのかを確認する為だったのだ。


そうなってくると、この思い出話の主役であるはずの吉田和彦さんは、この研修旅行に全く無関係だと言うことになりそうなのだが、そうは問屋が卸さない。何故なら和彦さんは大の旅行好きで、自分が行かない旅行でも飛行機のチケットを買ったりホテルの予約をしたりしてくれるからだ。これを僕たちは吉田旅行社(カズヒコ・ライゼビュロー)と呼んでいて、これまでに何度もお世話になっている。
運のいいことに、この年は和彦さんも休みが取れるということで、弊社の研修旅行は「添乗員」付きのツアーになった(後は僕がワガママを言えば、和彦さんが叶えてくれる)。
本来の目的地はミラノだが、その為だけにイタリアに飛ぶのはもったいないので、ヴェネツィアとパドヴァも旅程に入れた。そして万博を見たらとっとと帰ればよいものを、その後に陸路でスイスに入り、アルプスを見てからドイツから帰国することになった。言うまでもないことだが、これらは全て純粋な「蛇足」だ。
よく「旅は道連れ」などと言うが、確かに旅行は「何処へ」も大切だが「誰と」も非常に重要な意味を持っている。先ずオフィス弁当の日の研修ツアーである以上、父の「弁当の日」の関係者が参加する。簡単に名前だけ挙げておくと当時、福岡で働かれていた比良松先生、また広島で働かれていた平尾先生、そして最後が大阪の入交夫妻だ。
そして、ここに目的地の「蛇足」に加えて、人間的な「蛇足」が付け加わる。ツアーの半年か一年前、旅程を立てるのを手伝ってくれないかと和彦さんに電話すると「今回は面倒臭いから、二つ一緒にできないか」とのこと。意味不明なので詳しく聞いてみると、僕と同じ様に和彦さんに旅行の準備を手伝って貰っている人がもう一人いるらしくて、その人と同じ旅程にしてしまうけど構わないかとのことだった。和彦さんのお友達なら、僕が嫌と言う訳が無いでしょうと二つ返事をするのだが、これが僕と「つむっち」との運命的な出会いになる(僕は上で和彦さんを「吉田旅行社」と呼んでコキ使っているのは「僕たち」だと書いたが、それは僕とつむっちのことだったのだ)。
和彦さんは、このお友だちとは日本で音大生だった頃からの付き合いで、彼女のことは「宮っち」と呼んでいる。しかし「宮田」というのは彼女の旧姓で、今は結婚されて苗字は「津村」になっている。そこで僕はこの「宮っち」を「つむっち」と呼ぶようにしたのだが、彼女のことをそう呼ぶ人は世界中に僕しかいない。
つむっちの第一印象は「あれ?見覚えが有るぞ」だった。それで数日して明らかになったことは、つむっちは僕の母方の祖母にソックリだということだ。僕の親類関係に詳しいい方の為に書いておくとゴッホ回の時に登場した宮内フサの息子嫁が僕の母方の祖母である「栗林ばあちゃん」だ。そして、この栗林ばあちゃんは徳島県出身で、つむっちと同郷なのだ。だから僕は母方の家系をずっと遡っていくと、どこかでつむっちのルーツに合流するのではないかと今でも疑っている。
そして、このつむっちが同業者の馬場さんと金子さんという、二人の道連れを連れて来る。この二人がまた奇妙キテレツなお方々で、この三人衆は僕にとってのギリシア神話のサテュロス、ファウヌス、パンだと言えば分かって貰えるだろうか。そして言うまでもなく「隊長」の和彦さんはディオニュソスで、僕はシレノスだということにしておこう。
丁度、野球少年がメジャーリーガーに憧れる様に、僕は音楽関係の仕事をされている方をこよなく尊敬している。いや、正確には「尊敬していた」と過去形で表現するべきだろう。何故なら僕は、このツアーで芸術系の仕事をされている方々の、プライベートでのだらしない「本性」を知ってしまったからだ。
こうしてツアーの参加者は先ず、最初に述べた「弁当の日」関係者が四名。そして、そこに「蛇足」である音楽三人衆と竹下家の三人とツアーコンダクターの和彦さんを加えなければならないので、合計で11人になる。まあ賑やかなメンバーだ。


参加者は日本各地から来るので、ツアーの集合場所はヴェネツィア空港だ。この空港はとても小規模なもので「水の都ヴェネツィア」の玄関口らしく、海に面している。そこで和彦さんが水上タクシーを用意してくれていたので、空港に着くと早速、小型船に乗ってヴェネツィアの旧市街に向かう。
そしてカナル・グランデを遡って、リアルト橋で船を降りると、すぐ目の前には僕たちの民泊が有る。これも和彦さんが取ってくれたものだ。
因みに「リアルト橋」というのは、それ自体がヴェネツィアの観光名所のひとつで、世界的にはおそらく高知の「はりまや橋」よりかは僅かに有名だと思う。
この橋は十六世紀の初頭に今見ることが出来る新しいデザインで建造されることになった際に、あのミケランジェロ大先生もコンペに応募したことでも知られている(結局、採用はされなかったが)。僕の記憶では、このリアルト橋の様に屋根の付いた橋はイタリアに三つしかなく、二つ目は同じくヴェネツィアの「溜息の橋」で、三つ目はフィレンツェのポンテ・ヴェッキオだったと思う。


リアルト橋


ヴェネツィアと言えば矢張り、サン・マルコ大聖堂と、その前にひろがるサン・マルコ広場だ。先ず大聖堂はイタリアには珍しいビサンティン様式で、異国情緒が漂う。これに対してサン・マルコ広場にはモダンな幾何学模様が描かれており、一面が部分的に海に向かって開かれている。そして、この海に面した部分には二本の柱が立てられており、その上にはヴェネツィアの象徴で有る聖マルコの金獅子が飾られている。詰まり海から遣って来た場合、ドゥカーレ宮と、この開口部が本当の意味での「ヴェネツィアの玄関」に当るのだ。よって時間が有る人には、海を挟んで向かい側に見えるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会に行くことをオススメする。何故なら、この協会に登るとサン・マルコ大聖堂と広場を、海の側から見ることが出来るからだ。
そして僕が、どうしても無視できないのがサン・マルコの鐘楼だ。イタリアの司教座聖堂にはカンパニーレ(鐘楼)という建築様式があって、大聖堂本体とは別に鐘のためだけの独立した建築が建てられる。代表的なものは矢張りサンタ・マリア・デル・フィオーレの「ジョットの鐘楼」とピサ大聖堂の「ピサの斜塔」だろう。
これらの鐘楼のデザインの独創性と美しさに比べると、サン・マルコの鐘楼は、どう考えても見劣りする。それでも何故だかサン・マルコの鐘楼が世界中で愛されている理由はユニーク過ぎる大聖堂とユニーク過ぎる広場に挟まれていることから、それらを示す「記号」として機能しているからではないだろうか。
そして僕が個人的に、サン・マルコの鐘楼が気になっているのは、この塔が1902年の7月に倒壊しているからだろう。僕は、このエピソードを高校生の時に、確か清涼院流水の小説で読んで、酷く驚いた記憶が有る。ただ煉瓦を積み上げただけとは言え、地震も無いのに高さ100m近い塔が勝手に崩れるなんて、西洋人はなんとイイカゲンにものづくりをしているのかと呆れた覚えが有る。
それで書きながら色々と思い出して来たのだが、韓国ソウルの三豊百貨店が崩壊するのが1995年、即ち阪神大震災の年の6月だ。そして、この数年後に流水の小説の中で鐘楼の倒壊の話を読むのだが、どうやら僕は建物が崩壊する話が心底嫌いらしいのだ。まあ今にして思えば、この塔の倒壊の主な原因は、ヴェネツィア特有の軟弱な地盤にあったのだろうけれども。


海側から見たサン・マルコ大聖堂


サンマルコ広場


さて昼の観光が終わると、夜の宴会が始まる。そして、ここで改めて二人の登場人物を紹介することになる。
一人目は入交清隆さんで、彼は普段は法律関係のお仕事をされている方だが、プロ並みの料理の腕前を持っている。だから彼のお陰で、ミラノ万博ツアーは「非の打ち処の無い」食育研修ツアーになった。
と言うのも僕たちが泊まっていたのはホテルではなく民泊だったので、基本的に朝と夜の食事は自分たちで食材を買って来て自分たちで準備した。これは「弁当の日」そのものではないか。
近所のスーパーに行くと美味しそうなハムやチーズが日本での半分くらいの値段で売っていて、また市場に出かけると、その日の朝に獲れた新鮮な魚介類や野菜・果物がズラリと並んでいる。それは見ているだけで充分に「楽しい」し、また「勉強」にもなる。
最初、僕たちは大勢でやいのやいのと言いながらテキトーに買い物をしていたのだが、しばらくすると「入交シェフ」の言うとおりにしておけば全てが上手くいくということが分かって来る。だから僕たちは最後には、料理に関しては入交シェフに丸投げにして、片付けだけしようということになったのだ。
或いは、こんなことも有った。和彦さんと買い物に行った際、とびきりに高いワインと、一番安いワインと、その中間くらいのものを買って銘柄を伏せて飲み比べをしようと僕が提案した。それで早速その夜にやってみるのだが、結論から言うとこれは失敗だった。
何故なら僕が迂闊だった為に、スパークリングワインを三種類買ってしまったからだ。こういう「テイスティング」をする時、人は口に含んだものをすぐには飲み込まず、暫く舌の上で転がそうとする。ところがスパークリングワインは炭酸ガスが含まれているので、ゆっくり味わおうとしても泡が弾けるばかりで全然、ワインそのものの味を楽しめないのだ。
もし仮に、また何時か僕が同じことをするなら、同じ品種のブドウから出来た赤ワインにすると思う。そうするとちゃんと「比較」が出来るし、またちゃんと味わって楽しめるだろう。
それで話の流れからも明らかだとは思うが、このゲームで全問正解したのは清隆さん唯ひとりだった。だから僕の父は「あの時の清隆さんは、まるでGacktの様だった」と、事ある毎に述懐している。何故なら清隆さんは三つのグラスからパパっと飲んだ直後に、正解を即答したからだ。
清隆さんの味覚が優れていることには議論の余地が無いが、このゲームに関して僕は今にして思うことが有る。それはスパークリングワインの場合は、口に含んでゆっくり転がすのではなく、清隆さんがやった様に口に入れたらサッと飲み込むくらいの方が容易に「正解」に辿り着けたのではないのか、ということだ。
二人目はつむっちの相方、馬場さんだ。馬場さんは生まれながらの宴会部長で兎に角、彼女が居るだけで酒席は盛り上がった。馬場さんのキャラは、一言で言うと「歩くツッコミどころ」で、彼女の一挙手一投足が笑いのタネになった。それでいて真面目な話もちゃんと聞いてくれるので、こういう人が会食の場にひとり居てくれるだけで随分と助かる。
馬場さんと金子さんは、お酒のことを「ゾンビ・ジュース」と呼んでいて、毎晩の様にベロンベロンに酔っ払っていた。既に書いた様に、こういった体験のお陰で僕は、音楽家を無駄に崇め奉ることは無くなった。
金子さんは少し遠くに住んでいるので会えないが、馬場さんとはつむっちのセッティングで僕が上京した折りに何時でも会える。それでミラノ旅行の何年か後だったと記憶しているが、馬場さんの「最高のおつまみは、お話しよ♡」を僕は今でも明言だと思っている。
そんなこんなで、ヴェネツィアの夜は更けてゆくのであった。


万博での思い出話を書こうと思っていたのに、ミラノにさえ辿りつかない内に今週は終わってしまいそうだ。
ということで今回、ちゃんと万博には行っていますよという、証拠写真で終わろうと思う。


ミラノ万博の日本館前で「弁当の日」の仲間

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『 ポリフォニー 』
66.5 x 106 cm
1932年パウル・クレー、デュッセルドルフ時代の点描画
バーゼル市立美術館、バーゼル(スイス)蔵