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吉田和彦さんとの思い出:その8


吉田先生のレッスンは、まだまだ続く。当時、僕は21歳にして、幼少期の頃から「謎」でしかなかった音楽というものを、ようやく掴みかけていた。


基本的にクラシック音楽には「形式」が有る。特に僕が吉田先生に見て貰っていたのは、クラシック音楽のなかでもザックリ言って「中期」に相当する時期のピアノ曲ばかりだったので、その「型」もみな共通していたと言える。
具体的には先ずAメロに始まってBメロに続きい、サビで盛り上がる。そして次にCメロに続いてDメロが来て、またサビに着地する。そして再びAメロが始まってBメロに続くので、ああ最初に戻ったんだなと油断していると今度はサビ・ダッシュが来て、そのままコーダに流れ込んでいく。
因みに「コーダ」というのはイタリア語で「しっぽ」という意味で、日本語では「楽曲の終結部分」と訳されたりする。楽譜を見たことが有る人ならば、曲の最後の方に付いている、あのスナイパーのスコープの中の様な、円と十字を組み合わせた様な記号の有るところが、このコーダの出発点だ。
これは日本語では「大サビ」と言った方が分かり易いかも知れないし、僕は「ウィニング・ラン」と理解している。詰まりサビ・ダッシュの時点で実質的にゴールテープは切っているのだが、スグには止まれないので「流して」走りながら余韻を楽しんでいるのだ。
更に「サビ」の意味が分からない方の為に書いておくと、それはひとつの曲の中で「最も盛り上がり、最も印象に残る部分」とされている。それは曲の中での物語や感情が最高潮に達する、楽曲の「山場」だといえる。「サビ」の語源には二つの説が有って、第一が山葵から来たというもので、詰まり音楽において最も印象的な部分を、ワサビの強烈な刺激によって喩えているのである。また俳句における最も美しい部分もまた「さび」と呼ばれていることから、ここから音楽に転用されたという説もある。
そして念の為に言っておかなければならないのは、「コーダ」は明確にクラシック音楽の用語だが、「サビ」はそうではないということだ。そもそも僕はクラシックのピアノ小品の中で、その「顔」と呼べる代表的なセクションを指し示す音楽用語を知らない(教えて!吉田先生!)。


さて僕が上に挙げた一例は《トルコ行進曲》を念頭に書いたものなのだが、そこで注目して欲しいのはBメロとDメロだ。何故なら、それらは「サビ前に位置していて」最も疎かにされるパートだからだ。
そもそも「この曲を弾きたい」と思うのは、サビが魅力的だからという理由が圧倒的に多いだろう。そして、その次にAメロは、曲の始まりであるから、それを疎かにするひとは殆どいない。Cメロも同じ様なもので一旦、サビが終わって「新たに曲が始まる」パートなので、ここにも力が入る。
結局、こういった構造の中で「サビ前」のBメロとDメロが、最も疎かにされる。それは「サビへの助走」なので、無意識的にある種の「ブリッジ部分」と理解されてしまう。まあカラオケを歌っている人にとっての「間奏」みたいなもんだ。
だから僕は吉田先生に、このBメロとDメロだけを何回弾かされたか分からない。既に述べた様にレッスンは最初、僕が全体を通して弾くことから始める。そうすると吉田先生は暫く考えて「じゃあ、Bメロに戻りましょうか」と言う。仕方なくBメロから弾き始めて、そのままサビに入ろうとすると「はい、戻って」と言う。そして、またBメロから弾き始めて、そのままサビに入ろうとするとまた「はい、戻って」と言われるのだ。
サビが弾きたいからこそ、その曲を始めた人間にとって、こういったネチネチ・レッスンが、どれだけのストレスであるか、お分かり頂けるだろうか。だから僕は三回目あたりで「早く終わらないかな」と思いながら弾いている。そうすると吉田先生はちょっと考えてから、このパートが曲全体において、また音楽史の上で、どういう位置付けになっているのかを長々と話し始める。これが、第二回で述べた場面だ。
そして長い「お説教」が終わると、「じゃあ、Bメロから」と言う。この時点で、もう僕は何も聞いていないので、良くなる訳がない。だから吉田先生は諦めた様な顔をして、「じゃあ、次はDメロにいきましょう」と言う。そして、この後はもうBメロの時のテンプレート通りだ。詰まり観念してDメロから弾き始めて、そのままサビに入ろうとすると「はい、戻って」と言われる。そして、またDメロから弾き始めて、そのままサビに入ろうとするとまた「はい、戻って」と言われるのだ。
もう、この時点で僕は吉田先生が帰ったら、思いッッッきりサビを弾くことしか考えていない。言うまでもなく、こんな反抗的な態度を取っている限り、ピアノの腕は一向に上達しない。


ここに来ても矢張り、僕の音楽に対する「鈍さ」が際立っている。僕は本当に長らく、このネチネチ・レッスンの意味が分からないでいた。しかし僕は吉田先生のレッスンが終わって、十年ほどしてからシュタイナーの思想を学ぶ中で徐々に、その意味を理解した。
端的に言って、この時点での吉田先生は、僕のピアノが「上手い」のか「下手」なのかは全く見ていなかった(そんなことをしていては、僕は1秒も弾かせてはくれなかっただろう)。そうではなく吉田先生は差し当たり、僕が音を「つくろうとしている」のか、或いは単に「なぞっている」だけなのかを見ていた訳だ。そして「つくっている」ならどんなに下手でも合格だけれども、単に「なぞっている」だけなら不合格を出して弾き直しさせていたのだ。
そう言われてみると、確かに僕はBメロとDメロに関しては「早く終わらないかなぁ〜」と思いながら弾いていた。詰まり音楽に対する「誠意」が欠けていたのだ。或いは「敬意」と言っても、また「思い入れ」と言っても差し支え無いと思う。そして、そんな「やる気の無い生徒」に対して、あなたは指導者として何をするべきだろうか。
詰まりテニス教室に来ているのに、テニスで強くなる気がなく、またパソコン教室に来ているのにパソコンの勉強をする気が全く無い生徒を、どう「指導」すればよいのかということだ。恐らく、ひと昔前までは、それは「暴力」によって解決されていた。確かに人間は、そういった荒っぽい手段によっても「目覚める」ことは出来るだろう。
しかし、それをしないならば、あなたは生徒に「君は強くなりたくてテニス教室にきたのではなかったのか」とか、或いは「君はパソコンを上手に使える様になりたいから、この教室に来たのではなかったのか」と必死で問いかけるしかないだろう。そして、これが吉田先生のネチネチ説教の正体なのだ。
ショパンはレッスンの時、生徒に知性と集中力を要求した。「集中力」というのは詰まり、ここで言うところの「音をつくろうという意志」だ。そして、この集中力は「知性」によって支えられている。何故ならば、その曲における、そのパッセージの「意味」を理解しないならば、音に「気持ち」を入れることは出来ないからだ。
こうして第二回で述べた「芸術における知性の必要性」に戻って来る。暴力教師が拳の力で生徒を道徳性へと目覚めさせる様に、ピアノ教師は「音の意味を説明」することによって、音楽を「つくる」ことへの意志を目覚めさせるのだ。


繰り返しになるが、この文章は吉田先生に関する「僕の」思い出話だ。何故そのことをっ強調するのかと言えば、以上のことは全てが今の僕の仕事に直結しているからだ。
僕は、自分の講座の参加者さんに、シュタイナーの思想を「正しく」理解しているか、或いは「間違って」理解しているかを問うたことは無い、何故ならば、それは僕自身にも分からないからだ。
但し、その代わりに僕は参加者さんが彼の思想に「ちゃんと向き合えている」か「イイカゲンに向き合っている」かに関しては、注意深く見ている。
何故ならば、それが思想を学ぶ上で最も本質的な問題だからだ。
多くの人は「Aという思想家は主に、Bと主張している。Cという思想家は主に、Dと主張している。そしてBとDの共通点は、主にEとFとGだと言える。よって西洋思想の根幹は、EとFとGであると要約することが出来る」
みたいな感じで、思想というのを非芸術的に理解しようとしている。
これはピアノ教室に行ったら「バッハの音楽は宗教的で荘厳なんだよ、モーツァルトの音楽は貴族的で軽やかなんだよ、ベートーベンの音楽は庶民的で重厚なんだよ、ショパンの音楽は内向的で繊細なんだよ」と教えられただけで、自分はピアノが上手くなったと勘違いするくらいにバカげている。
しかし、もしピアノの先生が素晴らしい方で、生徒に小賢しい知識を教えることではなく、「芸術を体験」させることを目的としたレッスンをするならば、この生徒は上で述べられた薄っぺらい言葉よりも何倍も価値のある、深い体験をすることになるだろう。同様に思想を学ぶ上で最も本質的なことは、その中に「入っていける」ことであり、そこで何かを「体験する」ことなのである。
そこに「入っていく」ことが出来て、そこでの「動きを体験する」ことが出来るならば、それをどう名付けるかはどうでも良いことだ。何故なら芸術家は、その「動き」を芸術的にアウトプット出来さえすればよいからだ。但し学問をやっていくならば、その「動き」を言語に翻訳するスキルが求められるのは確かなのだが。
吉田レッスンを始めた当初、僕がピアノ曲の「サビ」にしか注目していなかった様に、思想を学ぶ上でも多くの人は「耳障りのいいこと」にしか注目しない。だから僕の様に思想を紹介する仕事をしている人は、体系的な思想の中から門外漢が興味を持ちそうな「耳障りのいいこと」だけを拾い集めて、綺麗にアレンジして「講演」として発表する。これはDJがポップソングのサビばかりを集めて来て、クラブの音楽にすることと良く似ている。
そして毎日クラブに通うことと、週に一回だけでもいいから上に述べた良いピアノ教師のところに、レッスンに通うことの、どちらが自分の「音楽性」の向上に寄与するかは、考えるまでもない。
僕のピアノの技術はせいぜい趣味でピアノ教室に通っている高校生のレベル、或いは高校の音楽科を死亡する中学生レベルだと言える。ところが芸術をする人にとっては中学生であっても当たり前であることが、何故だか思想を学ぶ人たちの間では、全く常識ではないのは、不思議なことだ。詰まり「耳障りのいいこと」だけを拾い集めて、どれだけ美しい講演を披露したところで、それは「娯楽」ではあっても「レッスン」ではないということだ。


最後に細かいことを言うと、僕は吉田先生に《トルコ行進曲》を見て貰ったことは多分、一度もない。だから上に述べた「BメロとDメロの話」というのも、分かり易さの為に話をカナリ単純化している(僕は主にショパンの小品を見てもらっていたので、それは古典派のモーツァルトよりは、僅かに複雑な構造をしていた)。
僕が吉田先生にネチネチと弾き直しさせられたパッセージは全て覚えているので手元に楽譜さえ有れば、どの楽譜の、何小節目か、スグに特定できる。しかし、それを楽譜かYouTubeの音源で示したところで、それが「見落とされがちな位置にある」という「構造上の問題」を理解しないならば全く意味が無い。
実は僕は当初、この話を《英雄ポロネーズ》を例に挙げて話そうと思っていた。しかし、音楽の最も初歩の段階で躓いている様な人間が、それなりの難曲である《英雄ポロネーズ》を弾いているという場面を描けば、多くの読者に違和感を与えると思ったので、この案は採用しなかった。
しかし、そんなこんなで吉田先生のレッスンも一年が終わろうという頃、僕は徐々に「ネチネチ&お説教レッスン」の段階を抜けようとしていた。詰まり次回からは、吉田レッスンの第二段階に突入するのだ。



『 樹木と建築 - リズム  』
27.9 x 38.3 cm
1927年 パウル・クレー、バウハウス時代の水彩画
ワシントンナショナルギャラリー ワシントンD.C(アメリカ合衆国)蔵


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