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吉田和彦さんとの思い出:その4


振り返ってみると第一回は吉田和彦さんとの最初の出会い、第二回は和彦さんによるプリースターゼミナールでの個人レッスン、そして第三回では僕の小学校時代でのピアノ教室での体験を書いた。よって今回から「中学生篇」が始まるのだが、特に前回の記事を書いていて思ったことは、僕が幼少期から音楽に関して体験したことは、基本的に全て、今の僕の仕事に直結しているということだ。
言うまでもなく、僕は音楽の教師ではなく、何の因果かルドルフ・シュタイナーという、二十世紀初頭のドイツの神秘思想家の「思想を教える」ということを生業としている。
そして、その中での僕の基本姿勢は「音楽の才能に乏しいが故に、全てのことに関して鈍かった当時の自分に、認知的なアプローチを通して如何にして『音楽』を教えるか」ということなのである。
その流れは極めてシンプルで、僕はシュタイナーの思想を「芸術的に把握する」べきだと考えているからだ。例えばシュタイナーの思想を扱ったセミナーでは、午前中に「頭」を使う座学が行われ、午後になったら「体」を使ったワークショップ、例えば絵を描いたりオイリュトミーをしたり当然、音楽をやったりする。こうして「学問」と「芸術」の両方に取り組んだ方が、アントロポゾフィーが深く人間の中に浸透していくのだ……と言われるが、必ずしも僕は、そうは思わない。
何故なら多くの場合、単に知的・論理的に学問に取り組まれ、その後は単に感性的に取り組まれるだけの芸術の時間が始まるからだ。これに対して僕は学問には感受的要素を持って取り組むべきだし芸術には知的・認知的要素を持って取り組むべきだと考えている。こういった明確な意図無くして午前中の座学の時間に、午後の芸術の時間を対置したところで、それは日中は工事現場で「体」を使って疲労したひとが、夜はソファ−に寝転がって映画を見ながら、即ち「頭」を使ってリフレッシュしているのと大差は無い。
結局僕はドイツに留学して長らく、この「娯楽としての芸術」という考えと戦うことになるのだが、この話はまた別の機会にしよう。


さて僕が小学校時代の後半に所属していた「綾上・綾南レスリングクラブ」には謎の伝統が存在していた。それは小学校を卒業したらレスリングを辞め、中学校のハンドボール部に入るというものだ。この謎の伝統の出所は、凡そ察しがついている。
と言うのも僕の六つか七つ歳上の先輩に増田くんというスーパーヒーローがいて、この人は中学生時代のレスリングで全国優勝しているのだ。そして彼は中学ではハンドボール部にも所属していて、彼はレスリングの世界大会に出場するのを断念して、ハンドボールの全国大会に出ているのだ。
この綾南中学校のハンドボール部は、過去に四回全国大会に出場しているほどの強豪校で、僕が中学校に上がったら、このスパルタな運動部に入って、音楽とは無縁の学生生活の中で全国大会を目指すことになるはず……だったのだが、そうはならなかった。何故なら僕は合唱部に入れられて、こちらはこちらで全国大会を目指すことになるからだ。
小学校の時には気がついたら近所のピアノ教室に入れられていたのと同様、ここでも僕の「音楽との受動的な関係性」が顕著に現れている。
僕は合唱部の顧問だった、カバの様な顔をした音楽教師中川先生にスカウトされて、気がついたら合唱部に入っていた。だから僕は入部届けも、また退部届けも書いた憶えはない。どうして、こうなってしまったのか心当たりは二つ有る。
先ず中学校に入ると、音楽の授業で校歌を覚えさせられる。そして一学期の末に、クラスの皆の前で校歌を独唱するという地獄の様な試験が有ったのだが、そこで僕は男子の中で唯一の満点を取ってしまった。因みに女子の方にも一人だけ満点が居て、その子の苗字もまた「竹下」といった。だから僕たちは、しばらく「お前ら双子か!」と冷やかされたりしていた。
僕の住む綾川町(当時は綾南町)は人口が二万人に満たないくらいの規模なのだが、電話帳を開くと「竹下」という姓を持つ家は全部で四件しかない。言うまでもなく、その内の一件がウチで、もう一件が「竹下の本家」、即ち僕の
父方の祖母の実家で、更にウチとは別の新屋(分家)が一件ある。そうすると僕の住んでいる町には、「僕の親戚ではない竹下」は、たった一件しか無いことになる。詰まり、僕の町で唯一存在する「親戚ではない竹下」の娘さんが、僕と同級生で、しかも中学校で七つ有るクラスの中で一緒になり、その二人だけが音楽の校歌の試験で満点を取った訳だ。これはエイブラハム・リンカーンと、ジョン・F・ケネディの間に見られる「偶然の一致」と同じくらいに珍しいことでは無いだろうか。
そして竹下伝説は、未だ続く。それは僕の父が中学生だった時のことなのだが、二年生に上がると同じクラスに竹下が、父も含めて四人居たそうなのだ。そう、詰まり僕の町の全竹下が、ひとつの教室に終結したのだ。スタンド使いとスタンド使いは引きつけ合うというが、どうやら竹下と竹下も引きつけ合うらしい。また僕は、新たな宇宙法則を発見してしまった。
因みに、僕が中学一年の時に同じクラスだった「竹下さん」のお宅は、ウチから見た時に町内で唯一の親戚筋ではない竹下であり、僕たちは「小野の竹下さん」と呼んでいる。ここの娘さんの竹下さんとは結局、一度も話すことなく中学を卒業している。
二つ目の心当りは、これよりも更に下らない。当時、トヨタかどこかの高級車のテレビCMで、ウィーン少年合唱団の様な白人のボーイソプラノがハイトーンボイスで歌っていた。中学一年の時点で、僕は未だ声変わりを迎えてはいなかったので、この男の子のマネをして廊下で歌っていた。僕はモノマネをしてふざけているつもりだったのだが、それを偶々聴いていた中川先生が真剣な顔をして褒めてくれた。僕のボーイソプラノはよっぽど評判だったらしく当時、他校で中学校の教師をしていた僕の父の耳にも入るくらいだった。
そんなこんなで、僕は一年生の二学期から合唱の練習を始める。コンクールは翌年の夏、即ち二年の一学期にあり、また二年の二学期から、新たな楽譜で翌年夏の準備をした。念のために言っておくと、僕はちゃんとハンド部にも入っていたので、要するに「掛け持ち」だった訳だ。そして、僕と同じ様な「男声」部員が十数人くらいいたと思うので、それぞれのクラスで一番歌が上手い男子を、先生がスカウトして集めて来たのだ。
これらのメンバーは、ほぼ全員が運動部に所属していたので、練習は昼休みに行われた。それが二学期のことで、翌年の一学期に入ると運動部の練習の後、即ち総下校の後の時間で練習した。この「練習時間をネジ込む」という話は、吉田先生のピアノレッスンの時と何だか似ている。


さて話は変わって音楽は、器楽と声楽に大別される。言うまでもなく、前者は楽器を使って音楽を奏でることであって、後者は自分の「声」を楽器にする。それを更に独りでやるのか皆でやるのかでもう一度分けるので、よって音楽のジャンルは差し当たり独奏と合奏、そして独唱と合唱の四つに分けられる。
これをイメージする為には、中学の数学の時間で習ったX軸とY軸の座標系を用いるのが一番よい。その場合、自分の一番得意な分野を右上に配置することをオススメする。そうすると左上と右下は隣接領域として、比較的馴染みが有るが、左下はちょっと苦手だと言うことが分かると思う。
これはジャズとかクラシックとか、或いはポップスとかいった分類よりも先に来るものだ。例えば歌謡曲は基本的に独唱だが、ポップスに限らずクラシックにも独唱は有る。またオーケストラは合奏だが、ジャズも基本的にそうで有る。
そして血液型占いみたいなもので、これら四つのうちのどれが自分の「ホーム」だと感じているかを知ることで、、その人の「音楽的な気質」が明らかになる。例えば僕なんかは明確に独唱か独奏の人間で、精緻にメロディーを辿ることに最大のモチベーションを感じる。またシンフォニー(合奏)は聴く分には大好きだが、余りやりたいとは思わない。そして僕に取って明らかに「アウェイ」なのが合唱である。
因みに、この四分類の中でピアノだけは、特別な位置を占めている。先ずピアノは一人で演奏するのだから独奏に見えるが、右手と左手で旋律と伴奏の両方をするので、それは「ひとり合奏」だとも言える。そしてピアノと声楽は何の関係も無い様で、これがオオアリだ。と言うのもピアノは学期の中で、打楽器を除けば最も人間の声から遠いので、奏者には「歌う」ことが求められる。よって右手は独唱をし、左手は合唱をする訳だ。
だから吉田先生は「ちゃんと声楽を学んでいるかどうかは、ピアニストにとって決定的な意味を持っている。器楽しか知らないピアニストは、だからピアノで『歌う』ことが出来ない」と常々おっしゃっていた(またショパンが自分のピアノの生徒に、声楽のレッスンに通うことを奨めていたのは周知の事実だ)。
だから僕にとってのピアノというのは陸上競技でいう所の100m走みたいなもので、確かに誰にでも音は出せるけれども、そこから「音楽的なもの」を作ろうとした時に一番難しいのもまた、ピアノなのだ。
ピアニストは昔から「鍵盤の上を歩けば猫でも音が出せる」とバカにされて来た。これは全く正しい指摘で、そもそもピアノ以外の殆どの楽器は、メロディーを奏でるよりも遥かに前の段階で、「濁りの無い音」を出すだけでも随分と苦労させられる。そういった意味で僕に取ってのヴァイオリンは棒高跳びみたいなもので、演奏そのものが曲芸(アクロバット)みたいなものなのだ。
話を元に戻して、この独唱、合唱、独奏、合奏という四分類を僕はプリースターゼミナール時代にレネーという学友から教えてもらった。彼曰く、ピアノをやっている人間というのは音楽の中で常に、無意識に「バランスを取る」ことばかりを考えている。それ自体は決して悪いことではないのだが、場合によっては、音楽そのものを窮屈にしかねない。だから哲生も、何でもいいから必ずメロディー楽器を始めて、合奏の中で、思いっきり「暴れる」ことを経験するべきだというのが彼のアドバイスだった。
因みにレネーは若い頃は確かピアノを弾いていて、長じてからクラリネットに乗り換えていた。そして彼の言っていることは、上の吉田先生の発言と遠からず共通していることが分かると思う。詰まりピアノは「何にでもなれる」からこそ「何にもならない」可能性が有るのだ。
そして僕は無意識の内に、レネーの助言を実行していた。詰まり合唱の時間に、ワザと違う音を出したりして、よくイェッセに叱られていたのだ。
以上の話で充分に明らかだとは思うが、僕は決定的に合唱に向いていない人間だ。それはもう、ギネスブックに載るくらいだと思う。「音楽が好きな割には、世界一合唱に向いていない男」と。
先ず合唱をしていて混乱するのは、自分の声が聞こえなくなることだ。だから僕は片耳を塞いで練習していたりしたのだが、それをするとピッチが狂うから辞めた方が良いよと、隣のヒカルに言われたりもした。また合唱で僕が意味不明なのは、結局のところ自分が歌っても歌わなくても、全体の音には影響しないんじゃ無いかと思ってしまうことだ。
詰まり、僕は別に合唱が「苦手」だとか「嫌い」だとかいうのではなく、単に「頑張りどころが分からない」のだ。そして、この僕の「人とハモりたくない症候群」はカナリの「重症」で、だからこそ僕はプリースターゼミナールにおける吉田先生の合唱の授業にすら出ていないのだ。
だから僕に「合唱の体験をするべきだ」という運命が有るならば、カバの様な顔をして「全国へ行こう!」と言って無理矢理に合唱部に入れるしかないのだ。この出会いに僕は、本当に心から感謝している。何故なら中川先生が居なければ、僕は生涯に亘って合唱の横を澄ました顔で通り過ぎていたと思うからだ。
そして、こんな合唱から永久追放を喰らっている僕が生涯で一度だけ、「合唱の面白さ」に気づきかけたことが有る。それを教えてくれたのは吉田先生でもなければ中川先生でもなく、例の如く名前を忘れてしまった或る合唱の先生なのだ。
この方は確か大阪の淀川高校の音楽教師で、この高校は全国優勝を何回かしている。それで僕は、どう逆立ちしてもこの人の名前を思い出せそうにないので、便宜上「淀川先生」とする。そして恐らく、中川先生のオーガナイズで、この淀川先生からご指導を頂く機会が一回だけあり、学校では無いどこかの会場でレッスンを受けた。先ず圧倒されたのは、最初の一小説も碌に歌わせてくれなかったことだ。詰まり前奏が終わって歌い出しに入った瞬間に、淀川先生は「違う!違う!」と怒鳴って曲を止める。そしてそこから長い説教をした後に「もう一回」と続く。ところが歌い始めた瞬間に、また淀川先生は「違う!違う!」と怒鳴って説教を再開、歌が始まるとスグにストップで、また説教……ということが、何十回も繰り返されるのだ。

こういった指導は恐らく、少し厳しめのコーラス部を経験したことが有る人ならば日常茶飯事なのかも知れないし、この先生は門外漢には粘着パワハラ教師に見えるのかも知れない。
僕はと言えば、このネチネチ指導のおかげで、生まれて初めて「合唱で上手くなる」ということが、どういうことなのかにゆっくりと目覚めている気がしていた。詰まり、このレッスンで「上手くなった」のではなく、そもそも「上手くなる」ということを、生まれて初めて「理解した」という感覚があったのだ。それどころか、このレッスンの最後の方では僕は、この先生に、みっちり一年シゴいていただければ、それなりに成長するとさえ思っていた。
結局、この先生の指導を受けたのは、本当にこの時の一回コッキリだった。しかし僕は、よほどこの先生に心酔していたのか、僕は中川先生に「淀川先生の様に指導して欲しい」とすら進言した。しかし、これは無理な注文だ。
何故なら音楽性とは、そのひとの人格そのもの、それは着せ替え人形の服の様に、そうホイホイと変えられるものでは無いのだ。

と言うことで中川先生、あの時はスマンかった。 


『 トランペットの音 』
37.5 × 33.7 cm
1921年 
パウル・クレー、バウハウス時代の線描画
ホノルル美術館 ホノルル(アメリカ合衆国)蔵

 その5 🎹

🎼
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その2
その3