吉田和彦さんとの思い出:その5
さて今週から僕の「高校生篇」が始まる訳だが、よくこれだけ書くことが有るものだと自分でも呆れている。そもそも、この記事は飽くまでも吉田先生と出会うまでの「前段階」を描いているに過ぎない。よって音楽に関係したものだけに絞ってはいるものの、この有様だ。もし僕が記事を書くに当たって思い出したことの全てを書いていたなら、それは少なくとも三倍くらいの文章量になっていただろう、と福音史家ヨハネも言っていた気がする(ウソ)。
個人的なことを言うと、文章を書いていく中で頭の中が少しずつ片付いていっているのは非常に助かっている。特に前回の「人とハモりたくない症候群」に関しては、ずっと以前から意識してはいたものの、それを体系的に描写するのは、今回が初めてのことだった。そして読者の皆様にお願いしたいのは吉田先生には、この僕の音楽家としてはサイテーな病気については内緒にしておいて欲しい。何故なら、それがバレてしまったら僕は彼から破門にされてしまうかも知れないからだ(或いは、もうとっくにハモんになっているかも知れないが)。
そして前回の記事を書いて僕に取って改めて明確になったことは、その人の「芸術指導」のスタイルは、その人自身がどういったかたちで「芸術体験」に至ったのかに依存するということだ。前回の最後で、僕は「人格は取り替えられない」と書いたが、それは詰まり「人生は二回も三回も生きられない」という意味だ。よって結局のところ芸術指導というのは「自分が正解に辿り着いた方法」を、取り敢えず他の人にもやって貰う、という随分とアバウトな方法でやってみるしかない。
もし生徒が、自分と同じ様な人間なら、それは生徒にとっては「アタリ」だが、そうでない場合は「ハズレ」なので諦めよう。よって芸術において素晴らしい先生と出会うコツは、下手な鉄砲と一緒で「数撃ちゃ当る」のだ。
さて余り説教くさいのも好きでは無いので、思い出話に戻ろう。僕は高校に入学したら、またもや合唱部の人にスカウトされた。しかし中学校の時と違うのは、このお誘いに関しては2012年のモンゴル旅行の時の様に無碍に断ったことだ。
念のために言っておくと、この時点での僕は自分の「人とハモりたくない症候群」には未だ気が付いてはいなかった。よって、この時に僕がスカウトを断った理由は、極めて漠然としている。まあ敢えて言うならば、中学の時はハンド部と合唱部の掛け持ちで忙しくしていたし、それなりに勉強も頑張っていたので、折角だから高校生活はテキトーにユルくいこうと、漠然と思っていただけだ。
そういえば僕の合唱コンクールの結果が気になる人の為に書いておくと、先ず当時は全国規模の大会は「全国合唱コンクール」と「NHK合唱コンクール」の二つが有って、その両方ともに僕たちはエントリーしていた。結果はどちらも四国大会2位で、あと一歩のところで全国大会を逃した。
因みにハンドボールの方も全く同じで、四国大会2位で、あと一歩のところで全国大会を逃した。多分、僕はクンドリーの様に「四国から出てはいけない呪い」が掛けられているのだろう。それと僕はハンドの方ではレギュラーではなく、一貫してベンチを暖めることを生業としていた。と言うのも僕とポジション争いをしていた相手が、運動神経お化けのムラコだったからだ。
ムラコは高校に上がる時に香川県から大分電波にスポーツ留学し、高校三年の時には確か全国大会でベスト・セブンに選出されていると思う。詰まり彼は当時「日本で最もハンドボールが上手い七人の内の一人」だった訳だ。これは『スラムダンク』で言うところの、沢北とか河田あたりだろうか。
そして大分電波でムラコのひとつ下の後輩が、あのハンドボールの貴公子、宮﨑 大輔くんだ。だからムラコは宮崎くんに「先輩風」を吹かせることが出来る。このソウメンの様に細い人脈を駆使して、何とかムラコ経由で宮崎くんのサインを手に入れてやろうと、僕は今でも画策している。
さて合唱部のスカウトを断ったのは、今でも正しい判断だったと思う。と言うのも僕は高校生活をユルく自堕落にやっていこうと、堅く決意していたのだが、その中で僕は「今の自分」につながる三つのことに出会っているからだ。その第一はイェッセの「ゴッホ回」の時に述べた西洋美術で、第二がこれから述べるクラシック音楽、そして最後がキリスト教だ。
言うまでもなく、この三つは高校卒業後に、僕をドイツ留学へと強力に引き込むことになる。そして、これら三つのものとの出会いは、通常の「学校生活」の枠組みの外で起きているのだ。
そう言えば言い忘れていたが僕の通っていた高松第一高校は、香川県下で二つしかない「音楽科」の有る公立高校で、合唱部に関しても全国優勝をするくらいのレベルだった。だから僕が合唱部に入っていたら、その顧問の先生の芸術性に引っ張られて、音楽に「自由に」関わることが出来なかったのではないかと予想するのだ(それと余談だが、部活に関してはユルいハンド部に所属していて、ちゃっかりキャプテンだったりもした)。
西洋美術、クラシック音楽、そしてキリスト教との出会いが、どういった時系列と因果関係で起きたのかは、全く思い出せない。しかし明確に覚えているのは僕は高校一年生の時点で、ひろさちやの『釈迦とイエス』を読んでいるということだ。
教室で授業の合間の休み時間に、この本を僕があと数ページで読み終わろうとしている時「竹下ぁ、早く将棋しよぉせぇ〜」と、何時の様にキモチワルイ顔で邪魔をして来たのが、あの「ゴッホ回」の時に登場した木村だ。そして木村とクラスが一緒だったのは一年の時だけなので、この年代特定は間違いない。
木村の部屋は今でいうところの「汚部屋」で、お家に遊びに行くと床じゅうに読みかけの小説と、洋楽のCDが散乱していた。それらはケースには入っておらず、剥き出しのCDと開けっ放しのケースと半開きの歌詞カードが散乱していて、全く床が見えなかった。その中から木村はノソノソとCDを拾い挙げ、ケースに戻しながらその洋楽バンドとアルバムの特徴について丁寧に説明してくれた。そして、そんな風にして積み上がった10枚くらいのCDの束を僕に手渡しながら「とりあえず、これを聴いておけ」と言った。
こうして僕は木村の手ほどきによってヘヴィ・メタルの世界に「入門」させられることになるのだが、これがクラシックう音楽への前駆になる。と言うのも、その中で僕が気に入ったジャンルは「ジャーマン・メタル」というものに分類されて、それがクラシックに隣接しているからだ。
この辺りは、さすがに意味不明だと思うので、少し具体的に書いてみようと思う。例えばHELLOWEENの«Where The Rain Grows»やFAIR WARNNIGの«Angels of Heaven»などを聴くと、メタルというのはスピーカを使って爆音で聴く前提なので、最初から音を歪ませて、また濁らせてもいるが、その「雑味」をフィルタリングすると素直にメロディアスな音楽を作ろうとしていることが分かると思う。
因みに後者の後半から登場する笛の様なロングトーンはスカイギターというフレットが24もある特殊なギターの音色だ。よって普通のギターよりも音域が1オクターブ上に広く、また根本のフレットに左手が届く様に、シェイプもかなり個性的だ。

彼の愛用のスカイギター
また前者の方のボーカルアンディ・デリスのハイトーンボイスがお気に入りの方には«Eagle Fly Free»も、オススメだ。但し、この曲に関しては先代のマイケル・キスクが歌っている可能性も有るので、ライブ・バージョンにしておけば間違いないと思う。
あと全くの余談だが「ジャーマン・メタル」というのは詰まり「ドイツ人がやっている」ということなのだが、メタルっぽくする為に名前をワザワザ英語読みしているところが何とも愛おしい。しかもハンブルグ出身のドイツ人が、必死で歌詞が英語の歌を歌っているのだ。詰まり、これは彼らなりに「カッコつけている」のだ。だから僕も今週から、ティーヅオ・テイクシットエイに改名することにした。
また僕のクラシック音楽からのアプローチは、別の角度からも遣って来る。当時、僕は邦楽も好きで聴いていて、兄の影響で小室哲哉がデビュー時に組んでいたバンドTM NETWORKにもハマっていた。そしてTMには«Human System»という、余りメジャーではない曲が有るのだが、そこではモーツァルトの《トルコ行進曲》がモチーフになっている。
この曲の間奏では《トルコ行進曲》のメロディーがそのまま使われていて、それを聴いた僕は「この旋律には聴き覚えが有る」と思って必死で記憶を辿った。そこで僕は、子どもの頃に父が買ってくれていた、アナログ盤のクラシック音楽集を引っ張り出して来て、曲名を特定した。そこで僕はCDショップに行って、リリー・クラウス版のソナタ集と楽譜を買った。
ピアノは家に有ったし、楽譜の読み方は小学校のピアノ教室で習っている。こんなかたちで僕は、純粋に自発的な動機から《トルコ行進曲》を弾き始めて、こつこつとやって全体の四分の一、即ち最初のサビが終わる辺りまで弾ける様になった時点で、そのことを何気なく同級生の谷口に話した。
すると谷口の方は、折しもベートーベンの《月光》第三楽章の練習を始めたところだったのだ。彼も僕と同じで幼少期にピアノを習っていて、高校生になって「突然」再開した様だった。その点は確かに似ているが、僕と彼の決定的な違いは彼が絶対音感を持っていることだ。だから彼は当時、流行っていたポップ音楽を、僕がリクエストすれば、何でも耳コピで再現してくれた。と言うことで谷口は、僕にとっての「ピアノの先生」になったのだ。
と、ここまで書いて思ったのだが、これではピアノを弾いたことのない人には僕と谷口の「実力差」が、どんなものか全く想像がつかないと思う。そこで手掛かりになるのが、僕が長らくお世話になっていた「全音ピアノピース」の難易度の分類だ。それはAからFまでも録段階有って、Aが一番簡単で、Fが最難関ということになる。
僕の《トルコ行進曲》が確かレベルBであったのに対して、谷口の《月光》はレベルEだったと思う。そしてレベルFになるとショパンのエチュードである《黒鍵》とか《別れの曲》が入っていた。僕の体感ではレベルDくらいが弾ければ、取り敢えずポピュラーミュージックのピアノアレンジに関してならば、どれでも難なく対応できるといったところだろうか。よってレベルE以上は「純粋にクラシック・ピアノの領域」ということになる。
要するに何が言いたいのかというと、小学二年の子どもが五年生のお兄ちゃんを見上げる様に、僕は同級生の谷口に憧れていた、ということなのである。
さて話を元に戻して、谷口の「指導」は無茶苦茶なものだった。例えば僕は、或る日、彼がピアノを弾きながらペダルも踏んでいることに気がついた。だから僕は「どういう時にペダルを踏むのか」と訪ねたら、彼の回答は「そんなもん大体、分かるやろ」だった。或いは楽譜上でのトリルの指示が分からないので尋ねると、彼の答えは「まあ、その辺は雰囲気やの」だった。僕と彼の関係は一時が万事、こんな感じだった。
それから僕は、かなり後になってから、ペダルのタイミングは全て楽譜に書かれていることを知った。そしてペダルを放すタイミングの指示が有る場合と、上げる指示が無いままで次のペダル記号が来る場合で、どう違うのかを
教えてくれたのは、確かイェッセだったと思う。そして吉田先生は:「プロになりたいなら、五段階くらいの踏み分けが出来なければなりません。だけれども哲生くんは差し当たり、三段階の踏み分けを覚えて下さい。詰まりベタ踏みと、僅かに浮かすのと、その中間です」と教えてくれた。
以上の話でも明らかだと思うが、僕が第二回の時に書いた「楽譜を読む」ということは、よって「譜読み」とは全く異なるのだ。何故なら、どの楽譜にもペダルの踏み込みの深さに関する指示は書かれてはいないからだ。詰まり「楽譜を読む」というのは、文学作品における「行間を読む」みたいなもので、そこでは「書かれていないものを読む」能力が求められるのだ。
また書きながら思い出して来たのだが、そういえば吉田先生は⦅雨だれ⦆を弾いている時に、「上りのときは、まあザックリでも構わないが、下りの時は一音ずつ刻むくらいのことはしろ」と教えてくれたこともある。言うまでもなく、こんなことは楽譜に書かれている訳が無い。
これが「正しい」アドバイスなのだが、ところが谷口の出鱈目なピアノ指導は当時の僕には合っていた。何故なら彼は音楽に関して「感性」で正解を出すことを僕に要求したからだ。詰まり、この時点で僕は第二回の時に話した「指示どおりに色のついた点を打っていけば、そのうち《ひまわり》は出来上がるだろう」という考え方から、徐々に脱却しつつあったのだ。
木村は僕にとっての「文学の先生」であり、谷口は「音楽の先生」だ。高校時代に友人は山ほど居たが、僕に決定的な影響を与えたのは多分、この二人だと思う。そして「ゴッホ回」を書いた時に、木村だけ先に登場していたので、何時かは谷口にも出て貰おうと、これまでずっと画策していた。
それで今回、ようやく思いを遂げることが出来たのだが、谷口にしれっと自然に登場して貰う為に、僕は小学校の頃からあえて厚めにフリを利かせてきたのだ。と言うのも僕が萬木淳一先生の「いわざらこざらの乙女像」を見に行った時に、誰に案内して貰ってそこまで辿り着いたのかを全く思い出せないのだ。
状況から考えて一番自然なのは木村なのだが、彼は屋島に住んでいて、像の有る仏生山には全く不案内だ。これに対して谷口は確かに仏生山に住んではいたが、そもそも彼は専攻が音楽なので、萬木先生が誰なのかさえ知らないと思う。そうすると折衷案として、木村と谷口と三人で行ったと言うことが考えられるのだが、それは現実的に有りえない。何故なら『ノルウェイの森』の直子と緑の様に、木村と谷口の間には接点が全くないからだ(どちらがどちらかは、言わないでおこう)。
と言うのも僕は理系だったので、二年に上がる時に木村とは別のクラスになり、そこで初めて谷口に会っているのだ。こうして石川さんに解決していただかなければならない謎が、またひとつ出来た。第一は古い方の乙女象の位置で、これは去年の秋にイェッセと一緒に新しい方の乙女象を見に平池に行った時に愕然とした。
何故なら僕の記憶では、古い方の乙女象は、鬱蒼とした茂みの中にあり、地形も今の像の立ち位置の様に開けてはいなかったからだ。そして第二の疑問が、僕が高校生の時に、最初に乙女像を見に行った時に、そこまで誰が案内してくれたのかということだ。
と言うことで石川さん、後はヨロシク!!!

35.2 x 29.2 cm
1922年 パウル・クレー、バウハウス時代の油彩転写画
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館 ニューヨーク(アメリカ合衆国)蔵
その6 🎹
