イェッセ・ミュルダーさんとの思い出 その7
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ゴッホについての話
僕は、ゴッホが好きだ。だから今回はヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて語ろうと思う。
振り返ってみると第四回では僕の暗黒時代とオランダの風土について、第五回ではイェッセさんのプライベートとオランダ第三の都市デン・ハーグについて、そして第六回ではユトレヒトの観光案内とオランダのデザインの代表としてユトレヒト大学の学生寮を紹介した。今回も最後まで読んで頂けると、ちゃんとイェッセさんとの思い出話になっているので、その点は安心して頂きたい。
僕が生まれて初めてゴッホを知ったのは多分、テレビで《ひまわり》を見た時だと思う。時は1987年、安田火災海上保険(現SOMPOホールディングス)は、58億円という、当時のアートオークションでの最高額で《ひまわり》を落札した。この時点で僕は六歳なので、この時のニュース映像を記憶している、という可能性は低い。しかし、この「《ひまわり》落札」は経済が絶好調だったバブル期の日本を象徴するものとして再三テレビで報じられていたので、それを小学生の時に目にしたのが、僕にとってのゴッホとのファーストコンタクトなのだと思う。
中学校に入ると歴史の教科書には多分、広重の《大橋 あたけの夕立》の模写が載っていた。そして美術の教科書には確か《タンギーじいさん》と《郵便夫》が有ったと思う。しかし、そんな中で転機となったのは矢張り細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク』だろう。この作品の中で、サラというヒロインはゴッホの《ひまわり》の贋作を個人的に所有している。彼女は、大富豪の娘で、莫大な財産を相続したのはいいが、天涯孤独になってしまったからだ。詰まり、このゴッホの贋作が彼女にとっての、唯一の「家族」だという訳なのだ。
高校生に上がると、僕の「ゴッホ好き」は、かなり意識的なものになっていた。しかし、そこにも幾つかのステップが有る。先ず一年生の時の美術の先生が、かなりのゴッホ・フリークだった。だから美術の授業ではゴッホの生涯を描いた映画『炎の人ゴッホ』を見せてくれ、その後に葦ペンでデッサンをする、という授業もしてくれた。僕は当時パスカルの「人間は考える葦である」という言葉は知っていたが、実際に葦を触ったのはこの時が初めてだったと思う。
僕は、絵を描くのはそんなに上手い方ではないので、鉛筆や筆の様な「ちゃんとした道具」を使って描くのも苦労する。そんな僕が葦の茎を斜めに切手、インク壺に先を浸しただけの「葦ペン」で描けと言われたときはどうしようかと思ったが、これが意外と楽しかったのだ。こういう原始的な道具で描く場合は、そもそも線の太さや色の濃さが安定しないので、常に「歪んだ」形が出来上がる。ところが不思議な物で、この「歪み」が、何とも言えない「味」になるのだ。
これと同じ様なことは、音楽では有りえない。詰まり音楽の才能の無い生徒に、わざとチューニングの出来ていない楽器を渡して、リズムだけではなくピッチもずれているのに、それが却って「味わい深い」なんてことは有り得ないということだ。だから恐らく「ヘタウマ」という概念は造形美術にはあっても、音楽芸術には無いのだろうと思う。
さて、この美術の先生のヴィジュアルが気になる方は、凡そ数学者の秋山仁を想像してみて欲しい。そこから髭とバンダナを取って、髪の毛を肩に届くくらいの白髪にして歯を剥き出しにすると完成だ。何にせよ、実に狂気じみた風貌だ。当時、僕と学友の木村の間では「キチガイ」という言葉が流行っていた。勿論、褒め言葉としてだ。だから、この美術の先生は僕たちにとって、典型的な「キチガイ」だったのだ。
非常に残念なことに、この美術の先生の名前を僕は今でも思い出せないでいる。そもそも僕は、この先生とマトモな会話をした記憶すらない。しかし彼の強烈なパーソナリティは僕に強い印象を与えた様で、今でも時々彼のことを思い出す。
さて、この先生は美術教師の傍ら彫刻作品も残している。その一つが香川県高松市にある乙女像だ。この像は「いわざら・こざら」という、香川県民なら誰もが知っている伝説的な物語をモチーフにしている。そのあらましは、こうだ:
今からおよそ八百年の前、この地に当時から有ったため池は、雨が降る度に堤が崩れていた。そんな中、或る男が夢で御告げを聞いた。それは「明日の午の刻、白衣で垂れ髪の乙女がチキリを持って通るので、その女を人柱にすればよい」というものだった。
そこで早朝から堤を見張らせていると、お告げ通りの女が現われたので、彼女が「今月は大の月な小な月な」とたずねるのも聞かず、捕えて穴に投げ入れて土をかぶせた。
こうして人柱の上に高く築きあげられた堤は、その後の大雨にも崩れることはなかった。しかし彼女が人柱として埋められた堤の箇所は、いくら突き固めてもそこから滲み出る水は絶えることがない。
そして、このチョロチョロと水の漏れる音は、村人には「いわざらん、こざらん」と聞こえる。これは「言わなければよかった、来なければよかった」という意味だ。
人柱によって出来た堤と溜池が、そこに住む村人に肥沃な田畑という大きな恩恵をもたらした一方で、良心の呵責に苦しむ村人には、堤から水の漏れる音が、土の中の乙女が今でもすすり泣く声に聞こえたのだろうか。
このため池は仏生山町と香川町との境にあり「平池(へいけ)」と呼ばれている。僕の美術の先生は、この平池のほとりに「いわざらこざら」の乙女像を制作していて、それを見に僕は高校生の時に現地まで赴いた記憶が有る。さて話は変わって、今年の五月、母方の祖母の法要に参列した時に法然寺に行った。その時に僕は初めて気がついたのだが、この平池と法然寺は隣接しているのだ。詰まり僕が最後に法然寺に行ったのが小学校の時とかで、高校生の時に平池の乙女像を見て実に三十年間、両者の位置関係を全く把握していなかったのだ。そして今年の春になって初めて、この乙女像が僕のファミリーヒストリーにも接点が有るということに気がついたのだ。
目が悪くなってしまったので、この乙女像を改めて見られないのは残念でならない。ただ、写真は掲載しておくので、僕の記憶と合っているか確認してみて欲しい。先ず乙女はプリミティブなワンピースの様な服を着ていて、脇をしめて両手でチキリを持って、頬擦りをする一歩手前の格好だったと思う。そして肉付きは僅かにふくよかで、髪型はロングで後に縛っている。表情は言うまでもなく悲しげで、少し上を向いていた気がする。

(いわざらこざら像は2018年に再建されました。既述の乙女の姿は以前の像のものです)
さて、この「チキリ」という言葉にも、若干の解説が必要だと思われる。何故ならグーグルで普通に「チキリ」で調べると1、船舶や木材の接合部材。2、さお秤の一種。3、転じて仲介役。4、紋所の名……と、この「いわざら・こざら」の伝説を理解するために必要な情報は全く出て来ない。
ここで言うチキリとは機織りの「機(はた)」の部品の名称で、経(たていと)を巻いておくためのものである。この部品を「千切り(ちきり)」「緒巻き(おまき)」と呼び、ここに経を巻きつけるのだが、その時に先に巻いた糸に上の糸が食い込むのを防ぐために一緒に巻き込まれる紙の事を「機草(はたくさ)」と呼ぶのだ。
僕は長らく「チキリ」というのは杼(シャトル)の讃岐弁だと勘違いしていたが今回、この記事を書くにあたって調べて初めて上記のことを知った。そうすると少し混乱するのが、ひとつの機に杼はひとつしかないが、千切りは経の数だけ有る。(恐らく百もは無いだろうが、十は軽く超えているはずだ)そうすると、この人身御供となった乙女の「特殊性」を示すアイテムとしては少し弱い気がする。
あと全くの余談だが、この法然寺には僕の母方の家の代々の先祖が、骨仏になって眠っている。だから僕の曽祖母である宮内フサも、この法然寺に居るのだ。

さて話を、僕の高校時代に戻そう。この美術教師は、僕が一年生から二年生に上がるタイミングで定年退職した。正直言って、これは晴天の霹靂だった。確かに、それなりに年齢がいっていることは分かってはいたが、その年が自分の現役生活の最後で有るならば、そのくらいのことは授業の中で言って欲しかった。それで僕は同級生の木村と一緒に、一年の時の担任のところまで行って、この美術教師の住所を聞き出すことまでしている。そう考えると僕は、この美術教師がよっぽど好きだったのだと思うが、そんな意識は本人は無かった。
僕は「冷やかしに行くには丁度いい相手だ」くらいにしか考えておらず、実際に行ったら先生は、どんな反応をするだろうと木村とキャッキャ話していた。小学生くらいの男子は、好きな女の子に強く当たり過ぎて泣かせてしまうという話が有るが、まあそんなかんじだったのだろうと思う。結局、僕は木村と一緒に、この美術教師のお宅を訪問するということはしなかったので、今思えば彼とのラストコンタクトは一年の時の最後の美術の授業だということになる。
さて、この木村という学友もナカナカの曲者で、僕は彼の手解きでヘヴィ・メタルに入門している。そして当時ドストエフスキーと坂口安吾にハマっていた彼は「取り敢えずは、コレを読んでおけ」と言って僕に村上春樹の『ノルウェイの森』を渡してくれた。(そう言えば同級生でビートルズの話が出来たのは、この木村と岸田さんだけだったと思う)。
木村は勉強もスポーツも、また恋愛もからっきしダメだったが、内側に独特の「世界」を持っていて、それが僕には魅力的に映った。だから僕たちはよく放課後に遊んだのだが、その時に溜まり場になっていたのが社(やしろ)と呼んでいた高松市立図書館なのだ。
そして僕は、この市立図書館で近代の西洋美術についてひととおり勉強した。マネ、ルノワール、モネ、ドガ、モディリアーニ、セザンヌ、ゴーギャン、マティス、ピカソ、ミロ、シャガール、ムンク、クレー、カンディンスキー、モンドリアン……僕がロセッティを嫌いになったのも、丁度この頃だ。
ここに十九世紀よりも前の時代の画家の名前が無いのは単純に、僕が市立図書館で偶然、手にしたシリーズが近代西洋絵画を扱っていたものだったからに他ならない。結局、僕がバロックやルネサンス、ゴシックやロマネスク、ギリシアやローマに興味を持つのは、ドイツ留学まで待たねばならない。
十九世紀以降の西洋絵画を語る上で、マネの存在は絶対的に無視できない。実際、上に挙げた名前の多くが、凡そ「印象派」というフワっとした概念でまとめられ、その中心にはマネが居る。個人的には、僕は印象派の中ではルノワールとドガが好きだ。
次に二十世紀前半で最重要の人物は、間違いなくピカソだろう。正直言って、僕はピカソには殆ど思い入れが無いのだが、それでも彼を中心に「キュビズム」という、印象派よりも更に曖昧な概念を使って、同時代の画家たちをな〜んとなく外観できる。僕が個人的に好きなのは、セザンヌとクレーあたりだろうか(そもそもモンドリアンは、この分類に入れて良いのか怪しい)。
これで僕は、ようやく本来のテーマであるゴッホに戻って来れる。以上の様な全体像において、ゴッホは言わば、マネとピカソという二つの「山」の間に挟まれた「谷」の時期に居る画家だと言える(確かゴッホは「ポスト印象派」とかいう奇妙な名前で呼ばれるのが一般的だったと思う)。
こんな感じで、ゴッホについての話はイェッセさんが登場しないままで次回に続く。
そういえば僕は、冒頭で述べた《ひまわり》を、未だ見たことが無い。だから次に上京した折に、新宿のSOMPO美術館に赴いてみようかと思う。

その8へつづく。。。
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