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吉田和彦さんとの思い出:その6


さて「人とハモりたくない竹下くんのピアノ放浪記」は、先週から「高校生篇」に入り、今週はその後半だ。
高校三年生の春、僕はひょんなことからドイツ旅行をすることになり、旅先で鳥山雅代さんから「先生に就け」と言われる。ご存知の方も多いと思うが、念の為に言っておくと、雅代さんは僕の従姉だ。そして、この「ドイツ旅行」こそが、シュタイナーの思想との僕の最初の出会いになるのだが、この話はあとで改めてしようと思う。
さて僕は旅先のニュルンベルグで、暇つぶしにピアノを弾いているところを雅代さんに見つかってしまい、余りにもヒドいから兎に角、誰でもいいから日本に帰ったらピアノの先生に見て貰えと言われた。この時点で僕は雅代さんの言っている意味が全く分からなかったが、取り敢えず素直に従った。恐らく僕も無意識では、この時点で独学と谷口の指導に限界を感じていたのだろうと思う。
それで、どんな伝だったかは忘れたが、僕の父は程なくしてピアノの先生を見つけてくれた。それが僕の通っていた高松第一高校の非常勤の講師である藤本先生だ(僕のバイオグラフィーを読み慣れている方なら分かって頂けると思うが、僕は恩師の名前を悉く忘れるという特技がある。よって、この名前も失礼ながら「多分あっている」という前提で聞いてほしい)
既に述べた様に、僕の通っていた高校は香川県では珍しい音楽科の有るところだ。そしてもし音楽科に入学していたら、僕はこの藤本先生のレッスンを校内で正規の授業として受けることになっていたと思う。ところが実際は、そうはならずに、僕は藤本先生の個人的な生徒として、彼女のご自宅でレッスンを受けることになるのだ(吉田先生のレッスンも、プリースターゼミナールの正規の授業の枠外で行われた)。
さて全くの余談だが、高松第一高校は最寄りの駅から徒歩30秒の近さに在り、恐らく世界で一番、最寄りに近い高校だと思う。これに対して藤本先生のご自宅は駅から見て高校とは反対側に建っていたが、矢張り徒歩30秒の近さだった(この距離は、僕が通っていた普通科から音楽棟までの校内の移動距離よりも、小さなものかも知れない)。
と言うことで僕は学友の誰に気付かれることもなく、小学生の時から実に七年ぶりか八年ぶりに、ピアノ教室に通うことになるのである。


最初のレッスンの日、僕は藤本先生に「取り敢えず何でもいいから弾いてみて」と言われたので、確か《エリーゼのために》と《トルコ行進曲》を弾いた気がする。終わると彼女は「分かった、分かった」と呆れた様子で、取り合えず、あなたには基礎がないから、しばらくはピアノの基礎を練習しましょうということになった。

基礎?

何だか藤本先生が『スラムダンク』のゴリに見えて来たが、僕はプライドを傷つけられながらも、心の何処かで何だかワクワクしていた。ようやく、僕の「迷走」が終わって「成長」が始まるのだと。
結局、初日は楽譜に書かれている、この指示が出来ていない、あの指示が出来ていない、ということを指摘され、最後に「音楽というのはレンガ造りの家みたいなもので、必要なブロックを全て丁寧に探して来て、それらをちゃんと指示通りに組み上げようとしないと絶対に出来上がらない」と藤本先生は締め括った。僕は、この機械論的な音楽の説明に僅かにイラつきながらも、手応えを感じていた。
そして初日の最後か、或いは二、三回目の最後だったかは忘れたが、楽器屋に行ったら多分「ツェルニー30番」と書かれた楽譜が有ると思うから、次までにそれを買って来ておきなさいと言われた。この指示も僕にとってはドンピシャだった。と言うのも僕はカワイ音楽教室で「こどものバイエル」を既に弾いていたからだ。
僕は小学生の頃、この「バイエル」という謎の楽譜に苦しめられている。或いは別の表現を用いれば、僕は長らく「バイエル」というものに音楽的な価値を全く見出せなかったが故に、それとどう向き合って良いのか全く分からなかったのだ。しかし藤本先生の話によるとピアノの練習曲というのは必ず「課題」が有って、それを身に付ける為に作曲されているというのだ。
こうしてイェッセとの思い出話の「その3」で初登場した「音楽性」と「テクニック」の二項対立が、満を持して再登場する。詰まり誠に失礼ながら、僕はバイエルに「音楽性」などは求めては行けなかったのだ。そこに書かれているのはピアノ演奏に最低限求められている「テクニック」の習得方法であって、それを身に付けられるならば差し当たり、そこで奏でられている音楽が美しいかどうかは問題にならないのだ。これは、或る意味で音楽におけるフィジカルとメンタルの分離だと言える。

だから「バイエルはつまらない」と言われているし、それどころか「日本のピアノ教育が発展しない元凶はバイエルにある」という極論を言う人さえいる。そして僕が高校生の時に始めた「ツェルニー」も、また、構造的には「バイエル」と何も変わらない。しかし、それが僕にフィットしたのは、その「意味」を藤本先生がちゃんと教えてくれたからだ。そして幼少期にさせられた「意味不明だと思われたこと」の意味を、長じてから理解すること以上に、教育的に価値の有る体験は無い。
ちょっと気になったので、先ほどウィキペディアで調べてみて驚いたのだが、「赤バイエル」と「黄バイエル」という言葉は、2026年現在でも現役の様だ。僕の中には怒りよりも、懐かしさが込み上げてきた。今では僕は自力で確かめる術は無いが、ちゃんと向き合ってみるとひょっとしたら「バイエル」も、そう悪いものでは無いかも知れない。


藤本先生に新しく買って来た「ツェルニー30番」を渡すと、彼女はパラパラと開いて「じゃあコレ」と次回までに譜読みして来る様に僕に言った。そして僕にとってありがたかったのは、その時に必ず「この曲は、この課題」と説明を加えてくれたことだ。この曲はオクターブのジャンプ、こっちは三度、これはトリル、次は三拍子に四連符を合わせる練習……などだ(詳細はテキトーに書いた)。
また僕にとって小気味良かったのは、六割か七割くらいの完成度で、スグに次の曲へ行っていたことだ。正直言って失礼ながら「ツェルニー30番」で100%の完成度を求められても、僕のモチベーションが保たない。それで、わりとサクサク進んで、確か三ヶ月か半年くらいで「ツェルニー30番」を卒業した。勿論、全ての曲ではなく先生が指示したものだけだ。
こうして、ようやく曲らしい曲を弾くことが許されて、例のごとくバッハの《メヌエット》に始まって、次は《平均律》、《インヴェンション》といった定番コースへ突入する。モーツァルトのソナタも、ハ長調から入って、徐々に《トルコ行進曲》に戻って来ようとしていたあたりまでは覚えている。
丁度この頃、僕は発売されたばかりの村上春樹の新作『スプートニクの恋人』を読んでいたら、そこでミュウが観覧車のシーンでモーツァルトのハ長調を弾いていたので、運命的なものを感じた……と思っていたのだが、これは勘違いだった。と言うのも先ほど読み返してみたら、ミュウが弾いていたのは長調ではなく短調、詰まりKV.545ではなくKV.457の方だった訳だ。まあ、若い頃の芸術というのはバファリンと同じで、半分は「勘違い」で出来ている!?のだから勘弁してほしい。


作中でミュウの観覧車のシーンは、テキスト量としても折り返し地点に相当し、主人公の過去が明かされる、物語のキーストーンになっている(一応ネタバレが無い様に、気を遣って書いている)。そして観覧車のシーンを語り終えた後に、
ミュウは、こう続ける:


フランスに来て一年ばかりたった頃、不思議なことに気がついたの。つまりね、わたしより明らかにテクニックが劣っていて、わたしほど努力しない人たちが、わたしより深く聴衆の心を動かしているのよ。

村上春樹
『スプートニクの恋人』
講談社


ここでも明らかに「テクニック」と「音楽性」の二項対立が描かれている。そして25歳まで第一線でピアノを弾き、海外留学までもしているミュウが、この点に関してひどく混乱していることに、当時の僕は芸術の深淵を覗く思いがした。詰まり、この時点でも僕は未だ「ピアノが上手くなる」ということが、どういうことなのかを全く理解していなかったのだ。
しかし今となっては、これは子供騙しな話だ。どれだけ「テクニック」を磨いたところで、そこに「中身」が無いならば、詰まり音楽性が空虚ならば「深く聴衆の心を動かす」ことが出来ないのは当然だ。
別に村上春樹に楯突く気は無いがプロを目指したピアニストにテクニックと音楽生の乖離について語らせること自体は凡庸だと言える。しかし、ここで主題になっているのは、ミュウという人間に「決定的に欠けているものが有る」という、パーソナリティの描写に、音楽をメタファーとして用いたに過ぎない。よって、ここでは別に美学的な議論が展開されている訳ではないのだ。そういった意味では観覧車のシーンは、作中での位置付けに始まり、過去の回想を聞き手側の視点で再現しているという構造的な表現方法も含めて、今読んでも秀逸だと思った。


振り返ってみると僕の小学校でのピアノ教室通いは、全く受動的なものだった。僕は「嫌々ながら」レッスンに行った憶えはない。しかし僕は、そこで何をすれば良いのかは何も分かっていなかった。
中学の合唱部でも、僕は矢張り何をすれば良いのか、全く分かっていなかった。そして淀川先生の指導で何かを掴みかけたが、結局のところ「受動的な関わり」から脱却することは出来なかった。
高校に入ってしばらくして、ようやく僕は音楽に対して主体的に関わることが出来る様になったが、今度は僕はやっと出来た自分の「聖域」に、自分以外の誰かが入って来ることを長らく許さなかった。しかし高校時代も終わろうとしている頃、藤本先生に出会い、こうして僕は長い「放浪」を終えたのだ。
単に受動的か能動的かだけを問題にするなら、僕の中学生時代のボーイソプラノのモノマネは、明らかに自発的なものであった。しかし自発的なものは純粋に内的なものであるが故に、他者の介入を容易には許さない。そして多くの場合、それはそれで別に何の害も無い。それとも僕は休み時間にハイトーンボイスで歌い始めた時点で、すぐにモノマネ芸人のコロッケさんに弟子入りすれば良かったのだろうか?
ここで僕は「教育の難しさ」について論じている。人間の成長は全て自発的で有るべきだが、それを野放しにしてしまうと「独りよがり」になってしまう。だから教育者は、外から「枠」を与えようとするのだが、ここで二つの可能性が有る。第一は生徒が内的なモチベーションを持っている場合で、そうすると生徒は一定の「枠」の内でノビノビと成長する。しかし第二の可能性として、生徒が未だ自発的な意志を見つけていない段階が有り、その場合は「枠」が重荷になってしまい、場合によっては、意図せずして内発性の芽を摘んでしまうかも知れない。或いは僕の谷口時代の様に、内発的な意志は見つけたけれども、未だ「枠」は欲しく無いという中間段階も存在する(だから教育者には、この段階では生徒の聖域に無闇に手を突っ込まない「忍耐力」が求められる)


繰り返し言うが、僕には音楽の才能が全く無い。だから幼少期から、クラッチを踏んだ状態でアクセルをふかしていて、僕は少しも「前」に進まなかった。
しかし高校生になってようやく、クラッチを放せば「前」に行けることに気が付き始め、そうすると「事故」が起こる前に誰かが僕にハンドルの操作を教える必要が出て来る。それに気が付いたのは雅代さんであり、藤本先生のお陰で僕は、事故を起こさない程度の運転技術を身に付けた。
そして、この延長として次回に、ようやく吉田先生が登場するのだ。

『 ブンテス・ビート  』
33.7 x 25.8 cm
1923年 パウル・クレー、バウハウス時代の油彩画
チューリッヒ美術館 チューリッヒ(スイス)蔵


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