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吉田和彦さんとの思い出:その7


さて僕のピアノ放浪記は、これから定住期に移る。振り返ってみると第四回は中川/淀川先生篇、第五回は木村/谷口篇、第六回は藤本先生篇だったが、今回から吉田先生篇が始まる。と言うか、そもそもこのシリーズは一貫して吉田先生に教えて頂いたことを書いているのだが、それを表現する為に、それ以前に僕が体験したことを付加的に書いているに過ぎないのだ。


前回の藤本先生篇を書いていて思ったのは、時系列で不明瞭な点が多いと言うことだ。そもそも、藤本先生のご自宅にレッスンに行き始めたタイミングが、いつからなのか思い出せない。それは高校三年生になってからのことであるのは間違いないのだが、それが一学期の後半からだったのか二学期に入ってからだったのかは特定できない。
どうして、この点が気になるのかと言うと、僕は人並みに「お受験」もしているからだ。詰まり、どんなに浮世離れした僕であっても、流石にセンター試験の前日にピアノ・レッスンに行っていた、ということは少し考えられないということだ。そうすると一時的に「中断」が有ったことになるのだが、その一方で「継続」も有った。
と言うのも僕は地元の香川大学の教育学部に入学したので、高校卒業後も、そのままシームレスに藤本先生のレッスンを受けているからだ(しかも大学の最寄駅は、高校の最寄りの次の駅だ)。
そして香川大学は、僕が「ゴッホ回」の時に書いた高松市図書館に隣接しているので、そういった意味で僕の大学時代の記憶というのは、少なからぬ部分が高校時代の記憶と見分けがつかない。だから或る意味で、この時期は僕にとっての「高校四年生」と呼んでも差し支えないと思う。
謎は他にも有る。それは僕は大学生になって、わりとすぐに一人暮らしを始めているということだ。当然、音大生でもない僕が下宿先にピアノを置けるはずがない。幸いなことに当時の香川大学には、無料の練習室が有り、そこは誰でも申請や使用料なしで使えた。そうすると、僕は、このキャンパスの片隅に在る音楽棟に足繁く通っていたことになるのだがそういった記憶も余り定かではない。明確に憶えているのは、僕が金髪で赤いネイキッドバイクに乗って藤本先生のお宅を訪問していたということだ。これは僕がドイツに留学する直前の外観だ。
僕の公式のプロフィールでは、僕は高校卒業後にすぐにドイツ留学したことになっている。しかし実際には、その間に一年半の空白が在り、その時に僕は世間的には「大学生」だったのだ。
しかし僕には大学に行く気などサラサラ無かった。僕は高校生の時に両親から、大学に合格しないとドイツ留学は認めないと言われていた。だから僕は合格するためだけに大学を受験し、偶々受かったから惰性で大学生をやっていたに過ぎない。そして、こんな非常識なことを表立って言う訳にもいかず、公式のプロフィールでは上手に誤魔化しているのだ(何より、僕という人間が一人合格したことで、香川大学教育学部に入れなかった、一人の受験生に申し訳ない)。
だから僕は大学一年生の五月の時点で一人暮らしをはじめ、その辺りから徐々に大学から足が遠退き始める(僕が時々「大学に行ったのは一ヶ月だけ」と誇張して言うのには、こういう背景が有る)。ところが、そんな中で藤本先生のレッスンには、ずっと休まずに週一で通っていたのだから、当時の僕が何を「大切」にしていたのかは明らかだ。
よって僕の経歴の「穴」を埋める為には、高校三年生の後半から大学生になってからの時期を含めて、足掛け二年間、藤本先生のところでピアノ・レッスンを受けていたことを書かなければならない。そしてドイツ留学をした2000年の時点で、僕のピアノの技術は多分、なんとか中学生レベルには達していたと思う。


僕は新天地のドイツに来て、すぐに吉田先生に出会っている訳ではない。そうではなく留学して最初の一年半は、南ドイツの片田舎エンゲンにあるユーゲントゼミナールで、農業実習をしながらドイツ語を勉強していたのだ。このユーゲントゼミナールでの体験も、気が向けば何時か書いてもいいと思っているのだが、ここでは差し当たり吉田先生の話だけに集中しよう。
このユーゲントゼミナールで僕は、僕の人生を決定づける二つのものに出会っている。第一は僕の生涯の伴侶、牛ちゃんであり第二はシュタイナーの思想である「アントロポゾフィー」である。何が言いたいのかというと、ここでも僕の「音楽に対する鈍さ」が炸裂するのだ。僕は牛舎に行ったりドイツ語を勉強したり、友だちと遊んだりシュタイナーの本を読み漁ったりしていて、ピアノの練習からは暫くの間遠ざかっていたのだ。
そして2002年春、ドイツ留学一年半後に僕は晴れてプリースターゼミナールに入学する。そして、そこで第一回で述べた僕と吉田先生との運命的な出会いになる訳なのだが、そこから第二回で述べたピアノ・レッスンの開始までには僅かなタイムラグが有る。
と言うのも音楽に関しては一貫して「鈍い」僕は、吉田先生の「音楽観」に魅了されつつも、ピアノを見てもらうことは、すぐには思いつかなかったのだ。
この年代において、最も影響を与えるのは矢張り同年代の友人である。イェッセ話でも既に述べたが、僕の同級生は殆どがヴァルドルフ上りで、その全員が漏れなく楽器を演奏した。だから彼らは歯を磨くくらいの気軽さで合奏のパートナーを見つけ、そして新しい歯磨き粉を選ぶくらいの気軽さで楽譜をチョイスした。
例えばイェッセは、レネーとサラとクリストフの四人で、クラシックのカルテットを組んでおり、またパーティーになるとパトリックとラオレンツで即席のポップバンドを組んだ。そんな彼らを羨望の眼差して見つめつつも、僕はキリスト教の礼拝儀式に求められる音楽の為にも、器楽を学ばなければと思い始めていたのだ。こうして第二回でも書いた、個人レッスンを申し込むシーンに入るのだ。
僕は最初、吉田先生が暇なときにだけ時々、僕のピアノを見てくれれば、それで良いと思っていた。しかし結果的には毎週火曜日、それから僕がプリースターゼミナールを去ることになるまで、ずっとコンスタントに指導してくれた。この吉田先生から指導を受けた二年間は、間違いなく僕の人生にとっての宝物だ。


レッスンの描写に入る前に僕が、どの程度の「レベル」だったのかを書いておこう。
先ず、僕が最初に見てもらったのは《子犬のワルツ》で、これは藤本先生の時に既に見てもらっていたものなので、これは過去一年半の「ブランクを埋める段階」だったと言える。そして次に何を弾いたら良いかを尋ねたら、吉田先生は《悲愴》の第二楽章を勧めてくれたので、それを始めた。
これは僕が吉田先生から貰った、唯一の課題だ。詰まり他の曲は全て、僕が自分で選択したものだ。それは先ず《雨だれのプレリュード》、それから《ノクターンOp.9−2》、そして《華麗なる大円舞曲》あたりまでは、ちゃんと最後まで弾けていたと思う。他にも《悲愴》の第一楽章や、モーツァルトの《ハ長調》も部分的には見てもらっていたと思う。
そして高校生の時に谷口が弾いていた《月光》の第三楽章、また《幻想即興曲》と《エチュードOp. 10-4》あたりを、そろそろ見てもらおうかという矢先、例の如く急激に体調を崩し、そのまま帰国するので僕は吉田先生にはさよならも言わずにお別れすることになる。


最後に吉田先生のレッスンの内容について書いて終わる。
吉田先生は、かなり最初の頃に「手のかたち」について教えてくれた。詰まり手というのはピンと力を入れてパーにしたり、或いはグッと力を入れてグーにしたりせずに、完全に脱力した状態にすると、手の甲が猫背の様に丸くなって、指がダランと垂れ下がる。
これが「手の自然な形」で、そのまま右手の親指を「ミ」のところに、そして小指を「ド」のところに置くと、人差し指から薬指までの三本の指は、その間にある三つの黒鍵の上に自然に乗る(勿論、こんなスケールは存在しない)。だから純粋に手の構造から言って、黒鍵の多い調の方が「弾き易い」ということになり、そうすると必然的に一番難しいのは長号の無いハ長調ということになる。またピアノの鍵盤というのはテコの原理でハンマーを動かして音を出しているので、鍵盤の一番「外」が最も楽に音を出せる。だから哲生くんは先ず、この一番自然な指のポジションで、指先からピアノに息を吹き込む様に打鍵する練習をしなさい、と言われた(ここで吉田先生は文字通りには述べていないが、ピアノから音を出す時には自分も「歌っている」必要が有る、と言いたいのだと思う)。
ひょっとしたらピアノの経験が有る読者ならば、「そんな当たり前のことを、ここでワザワザ書く必要が有るのか」と驚かれているかも知れない。しかし、そう驚かれた方はピアノの演奏経験は合っても、指導経験は無いのだろう。何故なら何かを指導するということは、口にするのも恥ずかしいくらいに「当たり前のこと」に、ちゃんと意味があるんだということを、生徒に理解させることから始まるからである。
例えば僕はシュタイナーの思想を、オンライン講座で紹介するということを生業としているのだが、そこで僕が日々驚かされるのが「分からない単語があったら辞書で調べる」という、小学生でも出来ることが、出来ない人が異常に多いことだ。だから僕は「当たり前のこと」だとは知りつつも、「意味のわからない単語が有ったら、必ず辞書で調べて下さい。読めない漢字が有ったら必ず漢和時点で読み方を特定しておいてください」と講座の中で言っている。
しかし極端な話、僕の講座に二十年出続けてくれているにも拘らず、未だに「辞書を引く」という習慣を身につけていない方もいらっしゃると思う。これはピアノ教室で、もう二十年も練習し続けているにも拘らず、一向にピアノが上手くならないお教室通いの方がいらしても、不思議では無いことと一緒だ。どちらも大切な「お客さま」であって、邪険に扱う訳にはいかない。
更に興味深いのは、僕が「分からない単語が有ったら、必ず辞書で調べておいてくださいね」と言うと、「辞書なんか調べなくても、この単語の意味ならばなんとなく分かります」と応じる受講生の方もいらっしゃるということだ。こういった方に僕が説明して差し上げなければならないのは、「なんとなく分かる」のままで放置したいならば、わざわざ受講料を支払って僕の講座に参加する必要なんか無いということだ。
ピアノ教室に通っている人は、最初から「なんとなくはピアノが弾ける」人だ。何故なら本当に全くピアノが弾けないのなら、教室に通おうとすら思わない筈だからだ。同様にダンス教室に通う人は最初から「なんとなくは踊れる」人だろうと考えられるし、同様にシュタイナーの思想を学びたいといって僕の講座に参加される方は、その時点でシュタイナーの思想のことを「なんとなくは分かっている」と思う。
そもそもなにかを「学ぶ」ということは即ち、この「なんとなく分かっている」という初期状態から、「ちゃんと分かっている」という状態へと移行することに他ならない。だから「辞書を引かなくても単語の意味ならば、なんとなく分かる」を主張する人は、生まれながらに持っている自分の「勘の鋭さ」は自慢するけれども、学ぶ気が無いのだ。勿論、そうであってもお金を頂いている以上、僕の大切な「お客さま」であることには違いないのだが。


僕は子どもの頃から職人さんの仕事を見るのが大好きで、よく学校帰りに畳屋さんが畳表を張るのを見ていた。だからテレビとかで、例えば木工の職人さんが巧みに木材を削ったりしているシーンが有ると、僕は口を開けて呆然と見ていた。そんな時、僕の祖母は、よく:


軽げにみえるじゃろ。


とニコニコしながら僕に言ってくれた。これは讃岐弁で「簡単そうに思えるだろう」という意味だ。祖母は、それ以上の説明はしなかったが本来言いたかったことは「側から見る分には簡単そうだけれども、実際にやってみると難しいんだよ」という意味だろうと僕は、今になるとおもう。
テレビを点けると世界トップレベルのピアニストが、踊る様に鍵盤の上で指を動かして、そこから夢の様な音楽が流れ出て来るのを目の当たりにする。ピアノの経験の無い者は、自分だってスタインウェイの前にさえ座らせてくれれば、それと同じことが今日にだって出来ると思ってしまう。同様に、ひとつの単語の意味さえ分からない、いや分かろうとしない人間ほど、シュタイナーの思想を理解することには何の困難も伴わないと思っている。そんな愚か者には:


軽げにみえるじゃろ。


と、僕のバアちゃんに優しく説教して欲しいものだ。


『 フェルマータ  』
1927年 パウル・クレー、バウハウス時代の油彩画
フィラデルフィア美術館 ペンシルバニア(アメリカ合衆国)蔵


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