吉田和彦さんとの思い出:その13
振り返ってみると第10回ではショパン大先生の話、第11回ではクライス設立の話、第12回では謎の中国人の話をした。
先に言っておくと、今週は和彦さんは登場しない。しかし僕は「和彦さんとの思い出」を語る上で、どうしても自分と音楽との関係性について語らざるを得ない。そして「自分と音楽との関係性を語る」ということは即ち、学生時代にお世話になった音楽の先生との出会いを書くことに他ならない。
僕は高校卒業まで、普通に日本の音楽教育を経て来た。そしてドイツ留学から帰国後は、ずっと地元の香川県に住んでいる訳だから、折に触れて「恩師」に遭遇することは稀に有る。そして、その「恩師」の顔を見る度に、僕は音楽について何も理解していなかった学生時代のことを思い出さざるを得ないのだ。僕は当時に比べて、どのくらい自分は「成長」したのか、或いは「何も変わっていない」のかを、ついつい自省してしまうのだ。
そして、これはそれなりに珍しい現象だと思う。例えば僕は中学生時代、理科が得意だったが、当時の教科担当の先生の顔を見ても、僕はドイツ留学の以前と後で自分の「自然科学観」が変化したかと自問したりはしない。或いは反対に、歴史や国語といった文系の教科はからっきし苦手だったが、同様の疑問を持つことも無い。
唯一考えられるのは、僕に哲学の面白さを教えてくれた、高校の時の倫理の先生だが、この先生に僕は、ドイツ留学以降に一度も会っていない。
恐らく2009年の秋だと思うのだが、僕が家でボーっとしていると、地元の友だちが訪ねて来た。見てみると小学校、中学校で一緒だった大介と、うーさんではないか。風の噂では、二人は暴走族をやっていると聞いたが、僕たちは三十を目前にしていたから、もう明らかにそういう年齢ではなかった。
大介は警察官、うーさんは庭師になっていて、世帯も持っていた。「なんだ、捕まえられる側から捕まえる側に転職か?」と軽口をたたいた後に、要件を聞いてみると、来年の正月は同窓会だから来てくれとの話だ。僕は反射的に「ええで」と言ってしまった。因みに讃岐弁で「ええで」というのは「了解した」と「遠慮するよ」という両方の使い方があって、イントネーションによって意味が真逆になる。因みに、この場合に僕は「断る」の意味で使っている。
と言うのも僕は、昔から「同窓会」というものに余り良いイメージを持っていなかった。イイ歳をした大人が何十年も前の同級生に会って、今更何を話すというのだ。差し当たり思い当たるのは二つ。第一はビジネスで大成功をして成金になったら、ブランド物や高級時計でしれっと金持ちアピール。そして第二は学生時代のいじめられっ子が、いじめっ子に復讐のチャンスだ。
どうして僕のなかで、ここまで同窓会が醜いものになってしまったのかは謎だが多分、テレビの影響だと思う。それで結局、何の気の迷いだか正式な招待状には「出席」で返した。まあ槇原敬之の《遠く遠く》に、無意識に反抗したのだろう。
当日、会場に着いてみて先ず安心したのは、みんな充分に「大人」になっていたことだ。正直言って、三十にもなって中学生の時のノリはきつい。同窓会については色々と書きたいことがあるが、まあ取り敢えず音楽の話に集中しよう。
同窓会にはゲストとして、当時の先生も来られていた。そして、その中には、中川先生もいた。そう、僕が中学一年の時に校歌の試験で満点をくれて、それから合唱部でお世話になる、あの中川先生だ。しかも中川先生は、三年生の時のクラス担任だったので、僕の中学生活にかなりの影響を与えているはずなのだが、そんな意識は僕には全く無かった。
同窓会は例の如く、校歌の斉唱で終わる。その時、僕は偶々ピアノの側にいて、オンのままになったマイクがピアノの上に置いてあったので、オフにして横にのけた。歌が始まると、僕の意識は一気に過去に飛ばされる。「中学の時の記憶が蘇って来る」のではなくて「現在の時間の流れから引き剥がされる」といった感覚だ。
校歌の伴奏を始める前、中川先生はマイクを持って短いスピーチをした。「今思い返してみても皆さんの学年は、私の教師生活の中で最も優秀な生徒さんばかりでした」という通り一遍な社交辞令に始まり、話題は音楽に移る。「それで昨日、この同窓会に来るにあたって皆さんの学年の合唱のCDを改めて聴き返してみたのですが、コレが明らかに他の学年よりも上手いんですよ」と来たもんだ。
それをスグ横で聞いていた僕は「中学生の合唱に上手いも下手もあるか〜い」と軽くツッコミを入れた。勿論、髭男爵の山田ルイ53世を意識してのリズムでだ。それから数日後、僕は部屋の片付けをしているなかで、この中学生の時の合唱のCDを偶然につける。そういえば中川先生がおべんちゃらを言っていたなと思い、再生してみるとびっくり。
ウマいやないか!!!
これは明石家さんまの名人芸「ホンマや!」と同じ笑いの構造だ。因みに、この「合唱のCD」というのは中学の卒業記念品として貰ったもので、三年の時の各クラスの校内合唱大会の時の歌が収録されている。
言うまでもなく、そこでは僕も歌っている訳なのだが、第四回の時に話した「合唱部」というのは、クラスの中で一番歌が上手い生徒を、数人ずつ選抜して結成されている。よって必然的に、この「合唱部」の歌は、僕が感動した卒業記念品のCDよりも、更にレベルが高いことになる。残念なことに、こちらの合唱部の方の録音は残ってはいない。まあNHKに問い合わせれば、どこかのアーカイブに四国大会のものが有るとは思うが。
因みに、この合唱のCDは僕の三つ上の兄貴のものも家にあった。だから二つを聴き比べれば、中川先生が言っていた僕たちの学年だけが、他に比べて著しく上手いというお世辞に関しても、事実で有るかどうかの確認が出来る。しかし、それを未だやっていないのは僕が生来の怠け者であることによる。
それから程なくして、僕は里佳ちゃんと、時々デートをする様になる。念のために言っておくと、これは別に恋愛の話では無いので、そのあたりは安心して欲しい。
里佳ちゃんは僕が合唱部だった時にピアノ伴奏をしていた娘で、上の同窓会の時に「再会」した。とは言っても僕は、里佳ちゃんとは中学時代に一度も話したことは無いかも知れないが。
それで会ってみると、話題は自然と合唱のCDになる。里佳ちゃんは聴いた瞬間に号泣してしまったという。それは恐らく、中川先生のパワハラを思い出してのことではない。里佳ちゃんは僕の128倍くらい部活に真剣に取り組んでいたから、当時の記憶が「いい思い出」としてフラッシュバックしたのだろう。僕なんかはハンド部の練習終わりに中川先生が菓子パンをくれるのをお目当てに音楽室に行っていた様なものだ。
そして僕は、この時に初めて自分の「人とハモりたくない症候群」について人に話した。僕は何故だか合唱を苦手としていることに関しては、うっすらではあったが長らく気がついてはいたが、そんなことはそもそも誰に話して良いのかも分からずにいた。そんな中同窓会に行って合唱のCDを聴いたことで、そういったことについて改めて考える様になった矢先、里佳ちゃんなら話を聞いてくれると思った次第だ。
里佳ちゃんは暫くの間、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》みたいな顔をしていたが、それ以上に話が展開していくことは無かった。しかし、それから更に七、八年が経過して僕はようやく、自分の「障がい」を理解することになる。それは治療教育の講座の中で、発達障害やADHDと呼ばれている人たちの「感覚異常」について通訳をしていた時のことだ。
「カクテルパーティー効果」という言葉は、誰もがきいたことが有ると思う。これは要するに、どんなに騒がしいパーティー会場であっても、一対一で話している相手の声は、周りの騒音に邪魔されずに、ちゃんと聞き取れるというものだ。これは「聴覚の特性」というよりは寧ろ、「選択的注意」という脳の機能だと説明されるのが一般的だ。
そして「注意力が散漫」だと言われているADHDや発達障害の子どもには、この「脳のフィルタリング機能」が欠けているというのだ。そして、それは僕も同じだ。僕は小学生の頃から、グループ・ディスカッションを始めると周りの人の話し声のせいで班ごとの議論に集中できない、という経験を繰り返ししている。
詰まり「雑音を排除する」という、脳のフィルタリング機能が、僕には生まれつき欠けていたのだ。そして僕が合唱を苦手としている理由も正に、ここにある。要するに僕は「自分の出している音」が、他の人の歌声にかき消されて聞き取れないのである。
音楽をしていて、自分の出した音が聞き取れないというのは地獄の様な体験だ。それは目をつぶって絵を描いている様なもので、それは自分の絵が「美しい」とか、醜いといったこと以前に自分が今持っている絵筆に、赤い絵の具が付いているのか、青い絵の具が付いているのかさえ分からない状態なのだ。
だから僕は合唱部の練習で、片耳を抑えながら歌っていた。それは僕なりの「防御反応」だった訳なのだが、それは以前にも書いた通りヒカルに止められた。因みにヒカルの本名は「三好康夫」なのだが、彼の中学での渾名は「伊集院光」だった。よって彼が、凡そどんな外観をしているかは、お察しの通りだ。
最後に音楽の「恩師」に関する奇妙な話をしよう。
僕は高校生になって、合唱部からのスカウトを受けたが、それを断ったという話は既に書いたと思う。
しかし、もし僕がその誘いを受けていたならば、合唱部の顧問の先生に三年間、厳しいご指導を受けていたことになる。だから僕は高校在学中ずっと、この「合唱部の先生」のことが気になっていたのだが当然、名前など覚えているはずがない。
よって、ここでは仮に「一高先生」とするが、僕は彼とはたった一回しか話していない。高校二年か三年の時に、僕は谷口と高松テルサに行った。お目当ては、高松第一高校の音楽科の発表会だ。会場に着くと、ホールの外なのにエチュードの4番が聴こえて来る。重い扉を押して中へ入ると、コンサート仕様のスタインウェイの音が、千人規模の大空間を見たしている。この時に4番を弾いていた女の子の名前を、僕は長らく覚えていたのだが、今は思い出せないので仮に「ノダメちゃん」としよう。
それから数日後、僕は谷口と進路指導室にいた。僕は別に「進路」を「指導」して欲しかった訳ではなく、僕たちはその部屋に常駐の「窓際族オーラ全開」の二人の先生が何故だか気に入っていたのだ。そして何時もの様に四人で無駄話をしているところで、ガラガラと一高先生が入って来たのだ。
この時、僕は一高先生とは初対面だったが、開口一番「ノダメちゃんが優勝じゃないのは、おかしいですよ」と言った。と言うのも既述の高松テルサでの発表会はコンクールも兼ねていたらしく、最後に成績発表が有ったのだ。僕は途中からしか聴いていなかったが当然、ノダメちゃんの優勝だろうと思っていたが全く違った。僕は別に審査に不満が有った訳ではなく、僕には何が「見えていない」のかを知りたかったのだ。
すると一高先生はちょっと考えて「まぁ確かに、ノダメもよう動く方じゃのぉ」と言った。詰まり「指の運動性」という意味では、確かに音楽科の生徒の中でも平均以上ではあるのだ。じゃあ今回、優勝した娘はノダメちゃんに比べて、何が秀でていたのかと僕は食い下がった。すると一高先生は、またちょっと考えてから:
まぁ、ホンマに音楽の才能が有るか無いかっちゅことは、大人になってみんと分からんもんじゃけんのぉ。
と言った。これは僕にとって青天の霹靂だった。何故なら僕は音楽ほど、幼少期に才能の有無が明確化する芸術ジャンルは他に無いと思っていたからだ。そして、これは僕が村上春樹の『スプートニクの恋人』を読む、一年か二年前のことだ。
フランスに来て一年ばかりたった頃、不思議なことに気がついたの。つまりね、わたしより明らかにテクニックが劣っていて、わたしほど努力しない人たちが、わたしより深く聴衆の心を動かしているのよ。
『スプートニクの恋人』
講談社
因みに「高松テルサ」というのは勤労者総合福祉センターの愛称で、木村の住んでいた屋島に有った。僕は中学時代、合唱コンクールの香川県予選や練習とかで、この会場に何回か訪れていると思う。
そして2017年には、父の元同僚である菊入先生の「ふるさとメモリアルコンサート」に行った憶えがある。このホールは2019年3月末に「老朽化により閉館」したはずなのだが、今では「穴吹学園ホール」として営業している。
同一の施設の名称が変わっただけなのか、或いは場所が同じなだけでホールそのものは改築されたものなのかは僕には分からない。何にせよ菊入先生のコンサートは、2023年にも「旧高松テルサ」で開催されている。

58.7 x 39.4 cm
1930年 パウル・クレー、デュッセルドルフ時代の水彩画
メトロポリタン美術館 ニューヨーク(アメリカ合衆国)蔵
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