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吉田和彦さんとの思い出:その12


1998年春、僕は高校三年生で、三週間のドイツ旅行をした。そして、これが僕の人生で最初のルドルフ・シュタイナーとの接点になるので折角だから、ここで詳しく書いてみたい。


鳥山雅代さんが僕の従姉だという話は、以前に書いたと思う。それを、もう少し詳しく言うなら僕の父が竹下和男で、その八つ上の姉が鳥山敏子、即ち雅代さんの母だということになる。雅代さんは僕から見て13も年上なので、「姉ちゃん」と言うよりは、寧ろ「母親」に近い存在だ。
僕の記憶では1990年代の後半の時点で、鳥山敏子さんは既に「賢治の学校」という教育運動を始めていて、テレビにも出演していたりもした。だから敏子さんは、それなりの「有名人」として、東京から故郷の香川県に講演に来ていたりもした。これは全くの余談だが、そんな幾つか有った講演会場のひとつが、宇多津町保健センターの三階ホールだ。詰まり、僕は敏子さんが日本の教育の未来について講演を行ったのと同一の会場で、その約十年後にクライスの設立をしている訳だ。

因みに「賢治の学校」という名称は、言わずと知れた日本の児童文学者宮沢賢治に由来する。敏子さんの独創的なところは、宮沢賢治がクリエイティブの背景として持っていた「思想」に着目し、それを教育理念に転用したところにある。
雅代さんはユーゲントゼミナールの第三学期で、卒業発表のテーマを「宮沢賢治」に設定し、一時帰国中に母の敏子さんと一緒に花巻の宮沢賢治記念館へ向かった。そこで敏子さんは、刮目して賢治の資料に見入っていた、と雅代さんはお母さまの葬儀の時に述懐していた。
言うまでもなく敏子さんは、宮沢賢治のことは長らく知っていたと思う。しかし過去数十年に亘る彼女の独特な教育実践の中で自身が求めていたものが、「賢治の思想」と共通していると敏子さんは感じたのだろうと僕は予想する。非常に残念なことに、僕は未だに宮沢賢治の研究に着手できていない。僕は一応、敏子さんの著作はひととおり全て目を通しているので、いつか『宮沢賢治と鳥山敏子』みたいな本を書ければいいなと妄想している。
何れにせよ雅代さんの言葉を文字通りにとるならば、この花巻旅行を切っ掛けに敏子さんは「賢治の学校」という教育運動を岩手で始める。そして数年かけて自分の活動が世間に浸透したタイミングで、満を持して「東京進出」という運びになる。まあ敏子さんは香川を出てからはずっと東京在住ではあったのだが。
東京「賢治の学校」はJR立川駅から徒歩圏内に有った。立川駅から延びるモノレールは当時、未だ工事中で、ちょうどモノレールの駅ができるところに「池田ビル」が建っていた(例の如く、固有名詞に関する記憶はあやふやなので「池戸ビル」だったかも知れない)。
このビルを敏子さんは、耐震性によって決めたと聞いたことが有る。いうまでもなく、1995年の阪神・淡路大震災を受けての判断だ。東京・賢治の学校はこの池田ビルの3フロア全部を借りていて、月の家賃が確か96万円だったかな。こんな無茶な判断は、敏子さんにしか出来ないと、当時の僕は感心しつつも呆れた憶えが有る。
言うまでもなく、これが現在の「東京賢治シュタイナー学校」の前身という訳だ。現在の学校は当時のものに比べて倍くらい駅から遠ざかってしまったが、そこへ立川駅からタクシーで向かっていると、必ず池田ビルの横を通る。そして僕はこの東京・賢治の学校の主催するツアーに参加して、生まれて初めて「シュタイナーの思想」に触れることになるのだ。


主催者が賢治の学校である以上、このツアーの目的は「シュタイナー教育」の研修である。だから三週間の日程は先ずはスイスに降り立ってゲーテアヌムに向かう。それから南ドイツのユーゲントゼミナールに行き、そこで通訳付きの一週間の研修を受ける。それからバイエルンのニュルンベルグに移動して、そこで再び一週間の研修が始まる。これらの間に数日の移動日が有り、旅程は全部で18日だったのではないかと思う。
念の為に言っておくと、この時点で僕は「シュタイナー教育」が何なのかを全く知らない。何故なら僕は、父から「哲生、来年ドイツ行かんんか」と誘われて来ただけだからだ。
1998年4月29日、僕たちは大韓航空で成田から出発し、ソウルでチューリッヒ行きの飛行機に乗り換える(この時点で、インチョン空港は未だ出来ていなかったと思う)。それで長距離フライトの中でツアー参加者の何人かが松浦賢さんの翻訳による『シュタイナー先生、こどもに語る』を読んでいたのを憶えている。この本は事前に読んでおけとの参加者へのお達しだったが当然、そんなものを、僕が読んでいるはずもない。
チューリッヒ空港について、ローカル線を乗り継ぐと「ドルナッハ」というスイスの片田舎に辿り着く。この時点で夕方になっていたが、僕たちは宿に荷物を置いたらすぐに「ゲーテアヌム」という妙な建物に向かった。建物の外観は暗くて良くわからなかったが、その内装は充分に特徴的だった。と言うのもホールに入ると、壁全体が絵画の様にカラフルに塗られていたからだ。僕たちが入ったのは、いわゆる「礎石の間」という500人規模のホールだ。
訳の分からないまま席に着くと、照明が落ちてスポットライトが照らされる。すると舞台袖から、奇妙な風貌の中国人が登場する。

なんだ中国人か。

僕は生まれて初めてのヨーロッパで、観劇に来た筈なのに、意味不明な中国人とは、なんと興醒めなんだろう、と感じた覚えが有る。僕の記憶では、この中国人は小柄で黒の上下を来ていたが多分、セットアップではなかったと思う(シャツも黒かった気がする)。そして切れ長の目に、やたらと眉毛が太かったので、ブサイクな顔だったのは間違いない。
そして、この変な中国人は、舞台上でペラペラとドイツ語を喋り始めるのだが、当時の僕には理解不能だ。すると程なくして、中国人に合わせて観客が歌い始める。それはシューベルトの《ます》だった。
この意味不明の出来事は多分、上演前のワークショップだったのだろうと思う。そして妙な中国人は舞台袖に退き、幕が開いて上演が始まる。しかし僕は生まれて初めてのロング・フライトと長時間の移動の疲れもあり、開演後すぐに眠ってしまう。そして僕は、ショーが終わってからの拍手の音で起こされることになる。舞台上の演目を見られなかったのは残念だが兎に角、今日は宿に帰ってゆっくり寝よう。そう思って席を立とうとすると、舞台袖に消えたはずの演者たちが、何故だか舞台上に戻って来た。いわゆるカーテンコールというやつだ。
仕方なく椅子に座って、何一つ心のこもっていない拍手をする。程なくして演者たちは消えてゆき、これで帰れるぞと僕は席を立つ。ところが演者たちは再び舞台上に戻って来て、改めて喝采を浴びる。と言うことが、この後三回くらい繰り返された。だから僕にとってのゲーテアヌムの第一印象は「眠くて帰りたいのに拍手が長くて帰れないところ」だったのだ。
この「事件」の凡そ十日後、僕はニュルンベルグに行き、そのことを雅代さんに話したら大爆笑していた。「いや〜ようやく帰れると思ったらねぇ〜舞台袖から演者が戻って来てねぇ〜仕方ないから暫く拍手していたらねぇ〜やっと舞台上から居なくなってねぇ〜これでやっと帰れると思って席を立ったらね〜また演者が戻ってきてねぇ〜」と僕が延々とテンドンをやっている間、雅代さんは腹を抱えて笑っていた。どうやら雅代さんにとって僕は「ツボ」みたいで、僕にとっての雅代さんは「軽い客」なのだ。
そして雅代さんは笑い涙を拭いながら、お前の見た謎の舞台は「オイリュトミー」と言うんだよ、と優しく教えてくれた。そう言われてみると、あの特徴的な衣装にシュライヤーを付けて、舞台照明がクルクル変化していた記憶が有る。そして雅代さんは、舞台上に最初に登場した黒づくめの男は中国人ではなくて、日本人なんだよと続ける。その人は吉田さんと言ってね、私も学生時代には随分とお世話になったのよ。

ヨシダ?

そう、あのゲーテアヌムの謎の中国人は、僕の無二の恩師である吉田和彦さんだったのだ。繰り返しになるが、この時点で僕は、「ルドルフ・シュタイナー」が何者なのかを全く知らない。そもそも僕は「ドイツ行かんか」と父に誘われて、兄貴と一緒に従姉の雅代さんに会いに来ている。よって僕には、賢治の学校主催の「シュタイナー教育研修ツアー」でドイツに来た覚えはないのだ。
そもそも雅代さんとヴィリギリウスが結婚した時点で、僕の中でのドイツは「田舎」になっている。詰まり僕にとってのドイツは「遠い外国」ではなく「親戚の居るところ」なのだ。
そう言えば雅代さんとヴィリギリウスの結婚式には、第七回で登場した僕の父方の祖母も参列している。そこにお母さまの敏子さんが居たのは言うに及ばず、更にその妹のアコちゃんと、その娘のノリちゃんもいた。当時はバブル真っ盛りで、日本人カップルで日本在住なのにハワイで挙式する、なんてことはザラに有った。そう考えるとコロナ禍後の今よりも、当時の方が海外は近かったのかもしれない。
そして何を隠そう、二人の結婚式の仲人こそが、吉田和彦さんなのである。
そういった意味で和彦さんと言う存在は、僕にとっては遠い親戚の様なものなのだ。そして、そんな人に会いにドイツに行ってみたら、謎の中国人としてゲーテアヌムの舞台上に登場することになるのだ。それから二年半後、僕は何の因果かドイツへ留学することになる。この経緯に関しては何時か改めて書くとして、その更に一年半後に、僕は和彦さんの居るプリースターゼミナールに入学することになる。
入学の直前、恐らく2002年の3月に僕は雅代さんと電話をしている。そして、そこで僕は雅代さんから「プリースターゼミナールに行ったら、吉田さんが居るよ」と事前に聞かされていた。それどころか雅代さんからは「会ったら必ず『吉田のバカヤロ〜。拍手長げぇ〜んだょ〜』って言ってやりなさいよ」と言われていた。この電話の僅か数週間後、僕は第一回でも書いた様に、学生用のポストで「Yoshida」という文字列を発見する。

ヨシダ?

フム。間違いない、全く身に覚えの無い名前だ。そう、僕の頭の中には「ヨシダ」という三文字を消す専用の消しゴムが有るらしいのだ。そして結局、僕はプリースターゼミナール在学中の二年半の間、あの変な中国人のことを思い出すことは一度も無かった。思い出していれば、第一回の時に書いた僕と和彦さんの感動的な「出会い」は、本当は四年ぶりの「再会」であることに気がついていたはずなのだ。ところが僕は、そのことを全く意識しないままで体調を崩し、プリースターゼミナールを退学する。そして2006年にお父様の死をきっかけに二年ぶりにコンタクトが再開した時にも、妙な中国人のことは思い出さなかった。そしてクライス設立の時にも、そのことは何ひとつ考えなかった。
それで結局、僕にとってのシュタイナーとの出会いが、同時に和彦さんとの出会いであったということに初めて気がついたのは多分、2008年夏のことだと思う。それは和彦さんが企画したドイツ人を連れての日本旅行でのことだ。
キョーレツな「個人意識」を持つドイツ人20人に、日本を旅行する為に必要な「団体行動」をさせることには骨が折れる。そこで僕はサポート要員として、ツアーの行程に部分的に参加していた。まあ勿論、自分の休暇も兼ねていたが。
厳島神社を見に、広島の宮島に着いた時に、或るドイツ人ツアー参加者から僕は「それで君は日本に生まれ育ったのに、どうしてシュタイナーのことを知るに至ったんだい」という質問を受けた。
僕は、これと同じ質問をドイツ留学中に何回されたか分からない。そして、この質問に対する返答はテンプレートで決まっている:「僕の場合それは全くドラマチックじゃないんだ。何しろ僕の従姉がオイリュトミストだからね」いうまでもなく、それは雅代さんのことだ。
ところが、この時は旅情に掻き立てられて、ついつい詳しく話してしまう。高校三年生の春に、賢治の学校のドイツ・ツアーに参加したことを。1998年4月28日に独りで乗った新幹線の社内、西日暮里のひなびたホテル、その翌日に買った成田エクスプレスの切符……僕は10年前の光景を脳内再生していく。そして大韓航空の機内、閑散としたドルナッハの駅、ゲーテアヌムの礎石の間、消える照明、焚かれるスポットライト、そして謎の中国人……

コイツだ!!!

コイツが犯人だ。コイツが最初から、全てを裏で操っていたんだ。コイツにさえ出会わなければ、僕の人生は狂わされることはなかったんだ……。と今更嘆いても、もう手遅れだ。
何故なら僕の人生は、カズヒコ大先生抜きにしては、全く考えられないからだ。


『 ポリフォニック(和音)に囲まれた白 』
33.3 x 24.5 cm
1930年 パウル・クレー、デュッセルドルフ時代のペンと水彩画
 パウル・クレー・センター ベルン(スイス)蔵


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