試す女【2025創作大賞恋愛小説部門中間選考突破】
里佳子は幼馴染の恋人と上京するが、すれ違いの続く日々で心は空白を抱えたまま、ふとした出会いから夜の銀座へ足を踏み入れる。壊れていく同棲、煌めくホステスの世界、そして濃密すぎる恋人――華やぎの裏で欲望を〈刺さずにはいられない〉自分に気づいた彼女は、愛を“試す者”なのか“試される者”なのかを問いながら、とめどない愛欲の海を泳ぎ続ける。
愛の果てで待つのは救いか破滅か。
“魔性の女”と呼ばれた里佳子の、銀座で最も甘く危うい物語。
第一章「試す女」 ※2025創作大賞恋愛部門
第一話︰東京の匂い ※目次あとに本文
第二話︰最初の嘘
第三話︰裏切りの前触れ
第四話︰クライング・ゲーム
第五話︰ファンデーションの檻
第六話︰夜に飼われる
第七話︰薔薇色の連続
第八話︰女たちのジハード
第九話︰カエルとサソリ
第十話︰終わらぬ夜
スピンオフ1︰悪銭はよく鳴る
※2026創作大賞ホラー部門
第二章「読む女」 ※2026創作大賞恋愛部門
第一話:禁忌のはじまり
第二話︰バーティカル・リミット
第三話:パワーストーンはただの石
第四話:整えられた味
第五話:今度、という永遠
第六話:今度のない夜
第七話:読み間違えた男
第八話:凍
第九話:ロング・グッドバイ
第十話:終わらぬ夜
スピンオフ2︰#犯人は猫でした
※2026創作大賞ミステリー部門
第三章「繋ぐ女」
※2027年創作大賞恋愛部門予定
第一話:東京の匂い
東京に着いた朝、私はひとつ、深く息を吸った。
喉の奥で湿った冬の空気がざらりと擦れた。その感触に、私は驚きさえ覚えた。空気が違う──そう思ったのは、私の育った町の冬が、もっと静かで、乾いていて、透き通っていたからかもしれない。
雪国の冬は、凍てつくような乾いた空気に包まれている。吐く息は白く、頬に当たる風は皮膚を裂くように痛い。すべてが凍りつき、音さえも封じ込められた世界。
東京の冬は違った。地面の奥からじんわりと滲み出すようなぬるさが、足元から体の内側に忍び込んでくる。地下鉄の出入り口から吹き上がる空気は、鉄と油と人の熱の混ざった匂いを帯びて、まるで見えない動物の体温を孕んでいるかのようだった。
その匂いは、街の体液のようだった。
どこか色を持たないのに、鼻腔の奥に残る。鉄サビとも違う、濡れた本のような、古い夜の名残。東京という獣の、呼吸の熱を私は初めて感じた。
東京の冬は、やさしくなんかない。けれど、冷たさの質が違っていて、それがなぜだか私には、妙に心地よかった。厳しさではなく、隠しきれない生臭さのような現実味。寒さの奥に潜む、欲望や疲労や汗のようなもの。そういうものに触れてみたかったのかもしれない。
私と賢斗は、夜行バスで東京にやって来た。長い長い闇を、互いの肩にもたれながら過ごした。バスの揺れは眠気と不安を混ぜ合わせ、うつらうつらと夢のような時間が過ぎた。
東京駅に降り立ったとき、まだ夜の名残を引きずった空気の中で、ふたりとも言葉を失っていた。ビルの隙間から差し込む朝の光が、私たちの顔を白く照らしていた。足元のタイルは、なぜか濡れていた。
「なんか、夢みたいだね」
賢斗が、少し声を震わせながら言った。
私は、そのひとことで泣きそうになった。
そう、夢かもしれない。私は里佳子。二十歳の春、専門学校を卒業したばかりの私たちは、もう何もなかった。祖母が亡くなって、家は空っぽになった。母の再婚先では、私は空気のような存在だった。居てもいなくてもいい。そう言われている気がして、私は黙っていた。
賢斗の家も、似たようなものだった。彼は窓の外ばかり見ていた。だからふたりで決めた。「東京に行こう」と。
それから年末まで、ふたりで上京資金を貯めた。東京に来たのは年があけてからのことだった。
逃げるようにして、でもそれは冒険でもあった。新しい場所に、新しい時間がある。居場所になるかもしれない未来。
世田谷区の下馬に、小さな部屋を見つけた。築三十年、古びた木造アパートの二階。階段を上るたび、足元の板がぎしぎしと鳴った。
四畳半のフローリングにロフトがついていた。天井が低く、手を伸ばせばすぐに梁に触れた。ユニットバスは、小さな箱のようで、お湯を張ると湿気がこもり、窓は曇りで塞がれた。
でも、私たちは笑っていた。
初めての夜、段ボールをテーブルにして、発泡酒の缶を並べた。私は駅の近くにあったスーパーで見つけた半額の焼き鳥を温め、彼はコンビニのレジ袋を解いた。カーテンのない窓からは、向かいのマンションのベランダが見えた。明かりが瞬き、誰かの生活の音が、遠くから聞こえた。
「なんか、秘密基地みたいだね」
私はそう言った。賢斗は黙って笑って、缶を鳴らした。私たちは乾杯をした。未来に。たったふたりの夜に。
その夜、私は彼の腕の中で眠った。毛布の中で、身体が重なって、互いの吐息がこもる。彼の手は、ぎこちなく私のパジャマの裾をめくった。その指先が、肌に触れた瞬間──私は小さく震えた。
触れられることが、こんなにも満たされるものだとは知らなかった。肌と肌のあいだに、見えない糸が引かれ、息をするたびにそれがきしんだ。
彼の手が胸に触れ、私はひとつ息をのんだ。その手は震えていた。でも私は、その震えごと、彼を抱きしめた。首筋に彼の唇が触れ、熱がゆっくりと流れ込む。足の指がかすかに震えて、彼の脚が私を絡め取る。
──ああ、これが幸せなのかもしれない。
けれど、それは、ほんの束の間だった。
日々は、音もなく形を変えた。彼は美容師見習いとして朝から晩まで働き、私は派遣として都内のオフィスに通った。生活は少しずつすれ違っていった。
夕飯を一緒に食べられる日は減り、私は駅前のコンビニでおにぎりを買い、彼は遅くまで残って、スタイリングの練習をしていた。洗面台のコップが乾いているのを見て、彼が帰宅していないことを知った夜もあった。
それでも、ふたりで歩いた休日の世田谷公園は、どこか特別だった。風の匂いにまぎれて、土と落ち葉の感触が足元をくすぐった。遊具のそばでは、子どもたちが無邪気に叫んでいて、私は少しだけ、未来を想像した。
私は、満たされていると思っていた。
上京してからニ年ほど経ったある夜、テレビの画面に銀座の街が映った。金色の光がこぼれるように広がっていた。ワイングラスを傾けるドレスの女たち。その無言の世界に、私は言葉を失った。
自分が触れたことのない世界だった。きらめきと沈黙が混ざった、あの夜の銀座の映像は、心の奥をひっそりと照らした。口紅の艶、耳元の揺れるピアス、指先まで意志を宿した手の動き。すべてが美しく、すべてが遠かった。
そのとき──東京の本当の匂いがした。
翌日、派遣帰りの駅前で、声をかけられた。「あなた、銀座で売れるわよ」
振り返ると、そこにいたのは、完璧な化粧を施した女だった。赤いリップ、光る目元。自信に満ちた口元で「ママの右腕をやっているのよ」と笑った。彼女の瞳の奥に、私を映す静かな光があった。何かを見抜いたように。
名刺は温かかった。
私は断らなかった。うなずくまでに時間はかからなかった。
その夜、窓の外に瞬く他人の暮らしを見ながら、私は彼の背中に背を向けて眠った。布団の中、彼の手が私を探していたかもしれない。でも私は、気づかないふりをした。彼の寝息の向こうに、遠い音がした。
夢は、見なかった。
