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試す女(ためすおんな)第七話︰薔薇色の連続【創作大賞恋愛小説部門】

 六月、銀座の湿気は、息を吸い込むたびに喉の奥へとまとわりつき、肺の底でじんわりと淀んだ。ネオンがまだ明るさを保つ夕刻、舗道には薄く雨の名残があり、ヒールの先が小さく水をはねた。微かに立ち昇るアスファルトの匂いが、夜の訪れを告げていた。ホステスとして初めて迎えた月末の売上バトル。私は、真璃さんに敗れ、二位に甘んじた。

 真璃さんは、団体客を笑いと色気で翻弄し、卓ごとのテンションを自在に操っていた。ショーウィンドウの中の華やかなドレスのように、彼女は光を受けて輝き、自ら光源のように場を照らした。一方の私はといえば、福山さんを中心とした単価頼みの一人客。夜の海にひとり手漕ぎで漕ぎ出しているような、孤独な営業だった。笑い声が遠くで上がるたび、私はグラスの中で音を立てる氷を見つめていた。

 「上出来よ」と佳代子ママは言ってくれた。けれどその言葉は、厚化粧の奥に浮かぶ鈍い疲労感を和らげるには至らなかった。夜が更けるにつれ、店内の空調が肌寒さを増し、心と身体のどこかが、ひたひたと濡れて重たかった。

 七月。明け方の蒸し暑さの中、寝返りを打った私の額には、ぬるりと汗が浮かんでいた。吐き気が喉元までせり上がり、枕元のグラスに残った常温の水を、躊躇いがちに一口すする。口の中には、鉄のような味が残った。夜の席でも、グラスに口をつけるだけで眩暈がし、シャンパンの香りに混じるアルコールの成分が鼻腔の奥で暴れた。口角に笑みを貼り付けながら、私は脚の震えを隠すのに必死だった。

 体調不良で出勤できない日が増えて、売上は低迷した。カレンダーの予定を一つひとつ消すたびに、自分の輪郭が薄くなっていく気がした。

 「新人王、スタミナ切れ?」 月末に暗い気持ちで出勤すると、真璃さんが話しかけてきた。つけまつ毛の奥の目が、少しだけ細く笑っていた。

 そして彼女は「気分転換に私の席についてみない?」と意外な申し出をしてきたので、私は戸惑いつつも「はい」と答えた。

 真璃さんの接客は、豪快なトークの陰で、細やかな気配りが際立っていた。その気配りはヘルプの女性陣へも及び、酔いが回って、ヘルプの身体に触れてこようとする客様の手をとって、自分の胸にもっていき「触るなら堂々とな!」と言ってお客様を照れさせ、別のお客様のヘルプに対するいたずらには、会社の人間関係を利用して、上司に部下を咎めさせた。

 私はヘルプ時代に、薫さんの席にばかり着いていた。薫さんは、お客様から触られようとした時の、上手にガードするすべをあれこれ教えてはくれたが、その分、客席では自己責任というスタイルで、ヘルプにとっては、優しさと厳しさが同居したような席だった。

 「まあ、水商売は山あり谷あり。一瞬の売上よりも、長く仕事を続けた女が勝者さ。あそこにいるババアみたいに」彼女は佳代子ママに目をやり、グラスのシャンパンをくるくると回してから、冗談めかして笑った。

 けれど彼女の励ましの言葉は、夏の湿気と共に胸の奥に沈み、私の心はなかなか浮いてこなかった。

 八月初旬のある午後、私は薫さんに呼び出されて、代官山のカフェに向かった。通りの街路樹は葉を重たげに揺らし、テラス席のパラソルの影が歩道に小さく揺れていた。白い犬を連れたマダムが通り過ぎ、アイスラテのグラスに溶けた氷が微かな音を立てていた。

 薫さんに会うのは久しぶりだった。LINEでは、銀座を辞めると口にしたのに辞めなかったことのお詫びもしたし、福山さんをはじめ、元々薫さんの担当だったお客様が来店してくれた時の報告とお礼はしていた。薫さんからは「ありがとう」と返信もあったが、実際に面と向かって話すのとは違う。

 「ごめんなさい」
 席に着くなり、私はそう言った。薫さんは、マットなベージュのジャケットの袖を整えながら、以前と変わらぬ仕草で、音も立てず、アイスラテのストローをくるりと回していた。

 「お店を選ぶのは、お客様。だから、あなたのせいじゃない」

 その声には、怒りも妬みもなかった。けれど、以前と比べると、どこか遠くへ行ってしまった人のような、静かな距離があった。

 「真璃ちゃんと競ってるそうね」薫さんはそう言って微笑んだ。

 「はい。勉強させていただいています」

 「里佳子ちゃんの勉強になるかは、ちょっとビミョーだけど、あの子も私と同類の夜の人間だからね」そう言った後に一呼吸おいて、本題を切り出した。

 「福山さんとは……そういう関係になったの?」

 私は頷いた。「はい。でも、私は本気です」

 「だったら、ちゃんと考えなさい。お金を使わせることでしか愛を感じられないなら、それは愛じゃないわ」

 「……違います。愛してるんです、私……」

 「じゃあ、その愛が試されているのは、彼だけ?」

 私は言葉を失った。

 「あなたは今、夜に生きてる。夜の中でしか自分の価値を測れないとしたら、それもまた、愛を利用してるだけよ」

 その言葉は痛かった。でも、はっきりと胸に落ちた。

 帰り際、薫さんは言った。

 「無理しないで。でも、逃げないで。夜は強いけど、傷を癒してくれる場所じゃないから」

 その背中がカフェの影に溶けていくまで、私はずっと動けなかった。

 しばらく経って、私は彼に鍵を預けた。福山さんと暮らすというより、私の部屋の空気に少しだけ彼の匂いを混ぜるような、そんな半同棲だった。少し古びた木のフローリング、遮光カーテンの隙間から差し込む午後の光。そこに、新しい洗面用具とIPAビールの瓶が加わった。

 彼はもっと広い部屋に移ろうと提案してくれたけれど、私は首を横に振った。狭くても、ここは私が築いた場所だったし、薫さんの言葉が胸に響いていた。

 その日々は穏やかだった。異様なほど、現実感が薄れていた。優しさの中に包まれて、何もかもが柔らかく濡れていた。

 私は折半というシステムのおかげで、出勤は自由だった。だから来店の予定がない日は、彼が渋谷のオフィスから戻る時間に合わせて私は夕食を用意した。グリーンサラダにスモークサーモン、温めたポタージュと炊きたての白いご飯。茹でたてのブロッコリーの湯気が、狭いキッチンの天井に滲む。冷蔵庫には彼の好きなIPAビールと、私のミネラルウォーター。小さなダイニングテーブルの上に並べられた食器を見て、「お店よりくつろげるね」と福山さんは笑った。

 彼は決して私に料理を強要しなかった。けれど、私の作った肉じゃがをおかわりしたとき、「こんな味、久しぶりだな」とつぶやいた。その声に、私は不意に泣きそうになった。

 休みの日は、夜が更けていくと、私たちはカウチに並んで映画を観た。彼の膝に頭を預けながら、BGMに混じって聞こえる彼の鼓動を聞く。その音はまるで、私の存在を肯定するリズムのようだった。

 時折、彼は私の指先をとって、まるで宝物のように両手で包んだ。何も言わずに。優しさが、会話の代わりになっていた。

 九月に入ってもその甘さは続いた。けれど、私はただ受け取っているだけではいけない気がして、営業により積極的に取り組んだ。福山さんに依存するだけではなく、自分の足でも稼ぐこと。それが私の愛のかたちだった。

 その決意は、彼に伝わっていたのかもしれない。彼は私の頑張りを静かに応援してくれた。指名が増えた日には「よかったね」と目を細めてくれたし、私が少し落ち込んで帰ってきた夜には、ハーブティーを淹れてソファに座らせてくれた。

 バスルームの棚には、彼用のアメニティが並び、クローゼットの半分には彼のジャケットと香りが混ざった。この部屋の中に、彼は確かに“居た”。

 九月下旬、福山さんがそっと言った。

 「こういう時間が、ずっと続けばいいのにね」

 その言葉が、胸の奥にふわりと沈んだ。ほんのり温かく、でもどこか儚い手触りを残して。

 ──その夜、私は彼の腕の中で深く眠った。眠りの底に落ちる寸前まで、彼の手は私の髪を静かに撫でていた。


 九月末。売上バトルの最終日、私は控室のロッカー前で結果を待っていた。背中は汗ばみ、スマホを握る手が少し震えていた。

 「……ナンバーワン、おめでとう」スタッフが紙を渡してくれた瞬間、喉の奥で何かが弾けた。

 店内に戻ると、真璃さんが手を叩いてくれた。「やったじゃん。見直したよ、マジで」

 佳代子ママは目を細めて頷いた。「一番苦しい時期に、よく乗り越えたわね」

 福山さんには、その晩だけはどうしても直接伝えたくて、営業後に急いで帰宅した。部屋に入ると、彼はソファでうたた寝していた。そっと揺り起こすと、寝ぼけ眼で私の顔を見て、「ん? どうしたの」と聞いた。

 私は笑って言った。「ナンバーワン、取ったよ」

 彼は少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに笑った。「……そっか、おめでとう」

 その一言が、何よりも嬉しかった。

 私は彼の隣に座り、そっと肩にもたれた。どこか遠くで、銀座のネオンが静かに瞬いていた。


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