見出し画像

試す女(ためすおんな)第八話︰女たちのジハード【創作大賞恋愛小説部門】

 十月に入ると、彼の様子に微かな陰りが差しはじめた。
 最初に消えたのは、朝のキスだった。唇が触れ合う、そのわずかな儀式が省略されたとき、私の肌はどこかひんやりとした風に撫でられたように感じた。
 やがて、帰宅時間がじりじりと遅れ始め、夕食の支度が虚しく空振りに終わる夜が増えていった。私は、それでも気づかぬふりをした。
 けれど、冷蔵庫の奥に並ぶIPAの瓶が、何日も手つかずで残り続けると、さすがに胸の奥のどこかが、じんわりと冷えていくのを止められなかった。

 「今、ちょっと仕事がバタついててさ」
 彼はそう言って目を逸らした。カウチに座るその背中が、妙に遠く見えた。以前はあんなにも自然に笑っていたのに──その口元は、もう随分と静かだった。
 会話はしぼむように減っていったが、私の身体は、それより先に気づいていた。
 彼の匂いが、部屋の隅々から、ゆっくりと蒸発していくことを。

 その頃から、私は夢を見るようになった。
 誰もいない店の中、私はひとりでグラスを磨いていた。客席の灯りは落とされたまま、音楽も止まり、外のネオンだけが、うっすらと窓を照らしている。
 振り返っても、そこには誰もいない──そんな夢。静かで、寒くて、深い夢だった。

 十月の半ば、福山さんの積もり積もった売掛は、二千万円を超えていた。
 不安がないといえば嘘になる。けれど彼は、すでにほぼ同額をお店に支払ってきた。それだけの資力がある人。
 それに私は、自分の愛が試されているのだと思っていた。
 愛するということの輪郭を、痛みのなかでなぞるような日々だった。

 ある激しい雨の夜、タクシーを降りてからわずかな距離で、髪も、コートも、肌までも、ぐっしょりと濡れた。
 玄関を開けた瞬間、リビングには灯りがなかった。しんとした室内。そこに、彼はいなかった。
 テーブルの上には、一枚のメモがあった。彼の癖のある筆跡で、「しばらく自宅に戻る」とだけ記されていた。
 LINEには、何の連絡もなかった。
 部屋の隅には、彼の荷物がいくつか残っていたけれど、洗面所の、彼の歯ブラシは消えていた。
 私は床に座り込み、濡れたままの髪を抱きしめた。
 自分の腕の中に、自分しかいないことを、ようやく受け入れた。
 静かな部屋の奥で、ただ雨音だけが、薄い窓ガラスを切るように打ち続けていた。

 三日後の朝、薫さんから一通のLINEが届いた。
 「福山さん、ニュース見た?」
 検索すると、彼が詐欺容疑で逮捕されたという文字が、無遠慮に躍っていた。
 出勤すると、佳代子ママに呼び止められた。
 「あんた、福山の売掛、あと二千万あるわよ。どうすんの?」
 私は額を押さえ、かすれた声で答えた。
 「……支払います。手元に一千万あります。あと一千万、どうか、猶予をください。一ヶ月で、なんとかします」
 ママはしばらく私を見つめてから、声をひとつ冷たく落とした。
 「一ヶ月。いいわね、それ以上は待てないから」
 その声の奥に、ほんの少しだけ、愉しむような響きがあった。

 福山とは、それきり連絡がつかなかった。東京地検特捜部に逮捕され、今は東京拘置所。接見禁止がついていて、弁護士以外の誰とも会えなかった。
 弁護士を通じて、売掛金の話を伝えても、「今は払えない」という伝言が戻るだけ。私は一方的な独り芝居のように感じながら、愛の残響だけを頼りに耐えていた。

 ブランド品をすべて売り払って、三百万円を工面した。想い出の品もあった。けれど、不思議と、未練はひとつも湧かなかった。
 あと七百万──。
 そんなとき、マネージャーが言った。
 「紹介しようか? 吉原、条件は悪くないよ」
 私は静かに首を横に振った。
 「銀座で、返します」

 その夜、帳簿の数字をにらみながら、私は気づいた。
 あと七百万。けれど銀座の売上は折半。ならば、私は一千八百万売り上げれば──ギリギリ返済できる。

 そこから、怒涛の日々が始まった。
 私はすべてのお客様に、あえて勘違いさせるような、熱のこもったラブレターをLINEで送った。
 来店後に届く「話が違った」という怒りのメッセージには、「今夜こそ…」と、更なる火種をくべるように返信した。切れてもいいと思った。むしろ、焦げ跡すら売上になると信じていた。
 夜が明けるまで、西麻布、六本木、新宿──酒と欲と虚飾の匂いが立ちこめるバーを彷徨い、お金の香りを纏った出会いを拾い集めた。

 真璃さんのアドバイスを頼りに、店内でも他のホステスたちに頭を下げ、できる限り席に着かせてもらった。
 もちろん私の売上にはならない。でも、私がそこで誠実に頑張った分、彼女たちは私の客席で協力してくれた。
 話を盛り上げ、ボトルを開け、華やかな夜を演出してくれたのだ。
 私はノンアルコールのグラスを傾けながら、真璃さんから教わった笑い、薫さんから授かった知性、そして、私自身の武器である色気を、惜しみなく注いだ。

 何度もドレスを着替えた。
 ハイブランドの代わりに、ユニクロのジャケットにアイロンをかけて通った。
 冷ややかだったお店の女性たちも、次第に打ち解け、そこには不思議な一体感と、鉄火場のような熱気が生まれた。

 そんなある夜、控室で真璃さんが、栄養ドリンクをポンと手渡してきた。
 「何これ?」
 「気にしないで」
 彼女はそれ以上なにも言わなかった。けれど、帰り際にふいと手渡されたデパ地下の梅干し──
 私は、黙って受け取った。なにも言えなかった。その優しさが、あまりにも優しくて、胸の奥がふるえた。

 やがて、西麻布で名刺交換をした佐藤という男が、ふらりと店に現れた。
 一見、地味なコンサルタント風。けれど所作に品があり、瞳は笑っていなかった。
 私を指名して、二度、三度と来店し、何本ものシャンパンを現金で開けていった。
 名刺の会社を検索すると、名の知れたホテル事業。
 けれどメディアに出ているのは、彼の妻──広告塔のような社長。彼は過去を語らず、未来も口にしなかった。

 「君みたいな子と、もっと早く出会いたかったよ」
 「出会ったのが奥さんより、ちょっと遅かっただけです」
 そう微笑んだ私に、彼の目が、ほんのわずかに揺れた。

 十一月が終わる前に、私は目標額──一千八百万円を、ついに達成した。その額は、ナンバーワンを初めてとった九月の売上を軽く越えていた。
 ママに報告すると、「よくやったわね」とだけ言って、あきれたように笑った。その笑みが、妙にあたたかく見えた。

 営業が終わった夜、真璃さんがグラスを片手に声をかけてきた。
 「お疲れ。……無理だったら、あたし、あんたの代わりにママに頭下げようと思ってた」
 「……ありがとう。でも、なんとかなった」
 「ふーん」
 そう言って、彼女はもう片方の手で、私にグラスを差し出した。
 中には、澄んだミネラルウォーターが注がれていた。

 「乾杯、ナンバーワン」
 二人だけの、小さな祝杯。
 その透明な一杯が、私のすべてを肯定してくれたような気がした。


いいなと思ったら応援しよう!