試す女(ためすおんな)第九話︰カエルとサソリ【創作大賞恋愛小説部門】
──映画みたいね。
その言葉を、私は喉の奥で噛み殺した。言ったところで、誰も脚本なんて書いてくれない。
東京拘置所の面会室。
うっすらと暖房の匂いが鼻先をかすめる。見えない静電気が、頬や髪にまとわりつくような気配を帯びていた。空調は廊下から流れ込むだけ。湿った冬の空気を、閉じ込めたまま循環させるようなこの部屋は、どこか夢の終わりみたいだった。
「……来てくれて、ありがとう」
分厚いアクリル板の向こうで、彼は穏やかな声で言った。昔と同じ、優しいトーン。けれどその奥に、擦れたような翳りが混ざっていた。乾いた音。長い沈黙のあとにしか出せない、誰かの喉の音だった。
「そっちは、元気そうだね」
「……まあね」
応じると、彼は伏し目がちに小さく笑った。その癖も昔と変わらない。でも、戻れる場所はもうないのだと思うと、どこか身体の内側がじわじわと乾いていく気がした。
接見禁止がようやく解かれたのは、十二月の初め。弁護士経由で「一度だけ」と許された数十分。コートの裾についた霧雨を払うように、私はここに来た。
「……迷惑、かけたね」
彼は正面を見据えたまま、はっきりとそう言った。
「売掛金も。あれは……本当に、申し訳ないと思ってる」
私は静かに、手元の封筒を持ち上げた。未収の明細が、紙の重み以上に心を圧していた。
「請求書、弁護士に渡しておいたわ」
「ありがとう……でも、すぐには無理だと思う」
今度は笑わなかった。言葉が真冬の石のように沈んでいく。遠くで金属のドアが閉まる音がして、ふたたび沈黙が戻る。
「……実はね、君と出会うより前から、地検は僕を見てたみたいなんだ」
そう言った彼の声には、言い訳めいた響きはなかった。ただ、ひとつの因果をそっと差し出すような、静かな口調だった。
私は一瞬だけ視線を落とす。分かってた。きっと、どこかで気づいてた。だけど──認めたくなかった。
「……そう。出会うのが少し早すぎたのかも」
出会ったのが、ほんの少し“早すぎた”。
私が、昔どこかで口にした「遅かっただけ」という言葉をなぞるように。
でもそれは、時間のせいにするには少しだけ苦しすぎる逃げ道だった。
「顧客の預託金を“出資”って形に変えて、資金繰りを乗り切ろうとした頃から。いや、その前かもしれない。帳簿を“未来”で埋めるようになってから、いつかは崩れるって、どこかで分かってた」
私は黙っていた。彼の言葉は、霧雨のように降り注ぎ、ゆっくりと沁み込んでくる。
「出資法違反。金商法違反。あとは、特定商取引法も。形式上は、自己責任型の“出資型クラウドファンディング”みたいなものだったけど、実態が伴ってなかった。……言ってみれば、詐欺みたいなもんだよ」
「みたいじゃなくて、詐欺なんじゃないの?」
「……うん。君が言うなら、そうかも」
彼は目を伏せて笑った。その頬に、今にも崩れそうな薄氷のような感情が走った。
「でも僕は、あのとき、“誤魔化しじゃなくて、希望だ”と思ってた。──今から思えば、だけど」
私は昔の彼を思い出す。ビジネスの話を熱く語るその横顔の奥に、かすかな焦りの匂いがあった。あれは香水じゃなかった。たぶん、追い詰められた者だけがまとう気配だった。
「被害弁済、奥さんの実家がやってくれるんだって?」
「うん。一応。条件つきだけどね。たぶん、それで執行猶予はつくと思う」
「売掛金は?」
「……さすがに、それは頼めなかった」
「そりゃそうでしょ」
ふたりして、乾いた笑いを小さくこぼした。アクリル板の向こうとこちらで、たしかに同じ時間を生きていたのだと、今さら知った。
「──『クライング・ゲーム』、覚えてる?」
「ああ。君が“これって寓話なの?”って笑った夜、懐かしいな」
彼が言った瞬間、記憶の奥に、あの夜の空気がふっと立ちのぼる。並んで座ったソファの沈み具合まで蘇った。
「この間、また観たの」
「どうだった?」
「やっぱり、最後にびっくりした。でも嫌いじゃない。“あの話”、あなたが教えてくれたじゃない。カエルとサソリ」
言いながら、私は面会室の窓の向こうをぼんやりと見つめた。そこには川もないし、水の音ひとつ聞こえない。けれど、ふたりのあいだに横たわるものが、まるであの寓話の流れのように思えた。
「……川を渡るやつ?」
「そう。サソリがカエルにお願いして、一緒に川を渡る。でも途中で刺しちゃう。『一緒に死ぬのに?』って聞かれて、サソリは『これが僕の性なんだ』って」
私はゆっくりと息を吐きながら言葉を継いだ。まるで、自分の深部から拾い上げるように。
「最初はね、あなたがサソリで、私がカエルだと思ってた。でも……溺れたのは、あなただけだった」
彼の肩が、わずかに揺れた。笑ったのか、嘆息したのかはわからない。けれど、彼の目元に浮かんだ翳りが、それを静かに物語っていた。
「君は、泳ぎが上手だったんだね」
「私、意外と毒に強いのかもしれないわよ」
「それとも……僕の毒が弱かったのかもね」
間を置かず、私は目を細めた。
「でもね。私がサソリなのかもしれないって、思い始めたの」
その言葉に、彼の視線が鋭くなった。まるで何かを掴もうとするように。
「どうして?」
「だって、私は愛を試さずにはいられない。何度も、確認したくなるの。あなたはどこまで私を受け入れてくれるのかって」
ほんのわずかの沈黙。アクリル板を挟んで、彼の瞳がかすかに揺れた。
「──そう思うよ。君がサソリだよ。だって……」
彼は、少しだけ目を細めた。そして、意地悪なようでどこか名残惜しそうに、唇の端を吊り上げる。
「僕の子じゃないだろ?」
一瞬、時間が止まった気がした。何もかもが凍りつくような空気のなかで──私は、ふっと笑った。
「……あら。何のことかしら?」
その瞬間、面会終了を告げるブザーが鳴った。
拘置所の外に出ると、東京の冬はすっかり本気だった。乾いた空気が、頬に針のように刺さる。見上げる空は灰色で、どこまでも遠く感じられた。
「……待っててくれたの?」
ロビーの端。グレーのコートに身を包んだ真璃さんが、静かに頷いた。
「うん。あなた、今日は泣かないと思ったから」
「正解ね」
私は、少しだけ微笑んだ。そう、もう泣くには遅すぎる。感情をしまうには、十分すぎる時間が経っていた。
「銀座、戻る?」
「うん」
彼女の声に、ビルの隙間を風が吹いた。私は小さく頷いた。
──この街で、何度でも泳ぎ直せる気がした。たとえ、私の中にサソリの毒が眠っていたとしても。
