読む女 第三話 パワーストーンはただの石
「真璃さん、ですよね。なんか、そんな感じがした」
グラスに触れようとした手を、ほんの少しだけ止める。その“当てた気”の声の温度で、だいたい分かる。
「そうです」
少し間を置いて、笑う。正解にしてあげるのも、仕事のうちだ。
男の手首には、いくつかの石が連なっていた。透明なもの、濁ったもの、光を吸い込むような黒。配置に意味があるのかどうかは分からないが、少なくとも、本人は意味があると思っている顔をしている。
見せたい人の手首は、いつも少しだけ外側を向く。無意識の角度に見えて、たいていは計算されている。
「これ、分かります?」
男はさりげなく手首を見せた。さりげないつもりで、よく見える角度に置いている。
「ヒマラヤの石なんですよ」
「へえ、すごいですね」
グラスを持ち上げる前に、私は少しだけ水を足す。氷の減り方で、会話の長さはだいたい読める。
溶けすぎる前に終わらせるか、もう一杯に繋げるか。どちらに転ぶかは、最初の三分で決まる。
最初の三分で決まらない会話は、だいたい伸びない。
逆に、決まってしまった会話は、あとからいくら言葉を足しても、流れは変わらない。
「温度、違いません?」
男が言う。私は一瞬だけ指先を近づけてから、頷く。
「たしかに、少し冷たい気がします」
当たっているかどうかは、関係ない。この手の会話は、正しさよりも手触りで進む。
「やっぱり分かる人なんだな」
男は満足そうに笑った。
「流れがいい人って、触ると分かるんですよ。波長っていうか」
「そうなんですね」
「結局、流れなんですよ。ビジネスも」
彼は軽く言った。軽く言ったつもりで、そのまま少し顎が上がる。
「でも、流れって来る人と来ない人がいるでしょ?」
「ありますね」
「そこはやっぱり、センスなんですよ。あと覚悟」
運の話をしているようで、ずっと自分の話をしている。このタイプは、当てやすい。自分の答えを、もう持っているからだ。
「すごく分かります」
私はグラスを軽く傾ける。
「流れが来たときに、ちゃんと掴める人って、限られてますよね」
男の目が、ほんの少しだけ緩む。その緩み方で、どこまで踏み込んでいいかも分かる。
こういう場面で必要なのは、新しい言葉じゃない。相手がすでに持っている言葉を、少しだけ磨いて返すことだ。
「真璃さんは、分かってる人だと思うんですよ」
「そんなことないですよ」
そう言いながら、笑う位置は変えない。否定はする。でも、引かない。それだけで、相手は勝手に近づいてくる。
「いや、絶対そう」
男は自信ありげに言った。
「なんか、最初から合う感じがしたんですよね」
その“最初から”という言葉を、私は聞き流す。最初から合うことなんて、ほとんどない。少しずつ合わせていくだけだ。
合わせていることに気づかせないこと。
それが、この仕事のほとんどだ。
グラスの氷が、ちょうどいい音を立てて崩れる。会話の温度も、同じくらいの位置に落ちている。
「いい石、ですね」
私はもう一度、ブレスレットに視線を落とした。
「でしょう?」
男は満足そうに笑う。
ヒマラヤの石。
その言葉だけが、少しだけ引っかかった。
理由は分からない。ただ、他の言葉みたいに、うまく処理できなかった。
遠い場所の名前は、たいてい少しだけ本物に見える。
けれど、その“少しだけ”の部分が、どこにあるのかは分からないままだった。
そのあとも、会話は途切れなかった。
話題は流れ、戻り、また流れる。私は必要なところで笑い、必要なところで黙る。ボトルは、気づけば空いていた。
空いた理由は、どこにも書かれない。それでも、空いたことだけは残る。
外したことはなかった。
少なくとも、そう思っていた。
店が終わったあと、私は薫さんと少しだけ離れたバーに入った。照明は低く、グラスの縁だけがやけに明るい。音楽は流れているのに、会話の邪魔をしない程度にしか存在していない。
「薫さん。今日はごちそうさまでした」
私は少しだけ身体を向けて言う。さっき呼んでもらったのは、彼女の客の席だ。
薫さんは、カウンターに肘をついたまま言った。
「どうだった?」
「分かりやすいタイプでした」
私はウイスキーに口をつける。氷の音が、少し遅れて響く。
「でしょ」
薫さんは短く笑った。
「ああいう人、好きでしょ」
「嫌いじゃないです」
「当てやすいもんね」
少しだけ、言葉が刺さる。
「……当てにいってますから」
それでも、外した記憶はなかった。
「うん。でもね」
薫さんはグラスを軽く回した。
「読めてる顔、してた」
その言い方は柔らかいのに、逃げ場がない。私は何も言わず、氷が溶けるのを見ていた。
私は目を上げる。
「バレます?」
「バレる」
即答だった。
「分かる人には、分かる」
「はい」
「真璃ちゃん」
名前を呼ばれる。さっきとは違う、距離の取り方だった。
「今日の接客、悪くなかった」
「……ありがとうございます」
「でも」
少しだけ間がある。
「私たちの仕事って、お客様だけが相手じゃないのよ」
私は目を上げる。
「女の子たちやスタッフ。身内の目も気にしなきゃいけないし……」
薫さんはそこで小さく息を飲んだ。
「最後は自分よ。自分と折り合いをつけきれないと、崩れる。真璃ちゃんはちょっと極端なところがあるから心配になるの」
それ以上は言わない。言わないまま、グラスに口をつける。
私は視線を落とした。
ヒマラヤの石。
その言葉だけが、まだ残っている。
「……あの人の石、本物だと思います?」
何気ないふりで聞く。
薫さんは一瞬だけ考えて、それから言った。
「石は、石でしょ」
当たり前のことを、当たり前に言う。迷いのない答えは、余計なものを削る。
「でも」
そのあとに続く言葉が、少しだけ遅れた。
「信じてる人にとっては、本物になる」
グラスを置く音が、小さく響く。
私は頷いた。
分かっているつもりで、分かっていない部分が、少しだけ残る。
