読む女 第七話 読み間違えた男
スマホの画面を閉じても、文字は消えなかった。見間違いだとは思わなかった。ただ、意味が追いつかなかった。
榊悠人。
その名前の後ろに並ぶ言葉が、妙に軽い。
十八歳。女子高生。深夜の密会。
そして――不倫。
違和感があった。
彼は、そういう種類の男ではないはずだった。
悠人は、軽い嘘をつかない。
言葉を選ぶとき、必ず一拍置く。
余計なものを削ってから、残ったものだけを口にする。
その癖を、私は知っていた。
たとえば、あの夜。彼は原稿用紙の束を差し出したあと、何も言わなかった。
普通なら、「どう思う?」と聞く。けれど彼は聞かない。読まれる前提で差し出してくる。その沈黙のほうが、言葉より重かった。
私はページをめくりながら、途中で一度だけ顔を上げた。
彼は視線を外していた。
評価を待っていない顔。ただ、書いたものがそこにあるだけ、という顔。
だから、信じられた。少なくとも、そう思っていた。
結婚のニュースを見たときも、驚きはなかった。相手は、彼より少し年上の女優だった。自作を原作にした映画で主演を務め、撮影現場で出会い、そのまま結婚したと聞いた。
画面越しに見るその人は、整っていて、少しだけ疲れているようにも見えた。年下の男を受け止めることに慣れている顔。
どこか、自分に似ている気がした。
――ああ、そういう人を選ぶのか。
そう思った。
少しだけ遠くなった気もしたけれど、それでよかった。あの人なら、たぶん大丈夫だと、勝手に納得していた。
悠人は、書いたものを私に読ませた。
原稿用紙の束を、何も言わずに差し出す。
私はそれを読み、言葉を返す。
削られた行。残された一文。
言わなかったことのほうが、よく見えた。
あるとき、私は一行だけ線を引いた。そこは、書かれていない部分だった。
「ここ、消したでしょ」
彼は少しだけ笑った。
「分かる?」
「分かるよ」
そう答えながら、私は少しだけ気分が良かった。読めている、と思えたからだ。
その作業を繰り返すうちに、私は“読む”ことを覚えた。相手の言葉ではなく、その裏にある沈黙を拾う癖。間を測る感覚。必要なものだけを残して、あとは捨てる判断。
それは、銀座で使える技術になった。
だから私は、彼に少しだけ借りがあると思っていた。大げさな感謝ではない。
けれど、確かに何かを受け取った感覚だけは残っていた。
その男が、不倫をする。
しかも、十八歳の女と。
その二つが、どうしても結びつかなかった。
電車の窓に映る自分の顔を見て、私は首を傾げる。驚いている顔ではない。怒っているわけでもない。
ただ、計算が合わなかったときの顔だった。
――どこで外した?
その問いだけが、残った。
店は、いつも通りだった。音楽は流れ、グラスは光り、笑い声が重なる。
営業中、スマホが震えた。薫さんからだった。
独立してからは、用があるときしかかけてこない。私はすぐにバックヤードに向かった。
「もしもし」
『真璃ちゃん、今ちょっといい?』
「珍しいですね」
『うん。ちょっと面倒くさい話なんだけど』
声は柔らかい。けれど、その奥にわずかな硬さがあった。
『石橋先生の紹介で、週刊誌の人が来てるのよ』
私は何も言わなかった。
『真璃ちゃんのお店に行って、話を聞きたいって言ってるんだけど。もちろん断ってもいい。そこは、真璃ちゃん次第』
「……どういう感じです?」
『感じはいい。だから厄介』
少しだけ笑ってしまう。
『ボトル入れてもらって。それなりの売上にしちゃっていいんじゃない』
「なるほど」
私は少し黙った。
断る理由はいくらでもあった。
けれど、私は頷いていた。
「いいですよ」
『大丈夫?』
「確認したいだけです」
『何を?』
「どこまで知られてるのか」
一拍、沈黙。
『……そう』
電話が切れる。
私はしばらく画面を見ていた。
知られている、という感覚は前からあった。
ただ、名前がついていなかっただけだ。悠人のエッセイの中には、何度も“それらしい女”が出てくる。
銀座で出会った年上の女。
書く前の自分を見透かしていた女。
夜の温度を持っている女。
形は変わる。設定も変わる。
けれど、核だけは同じだった。
読む女。
それが私だと、分かる人間には分かる。
出版の人間や、昔を知っている一部の人間には。
ただ、それだけだと思っていた。
その記者は、客として来た。
席についた時点で、もう一人の“客”として完成している男だった。
目立たないスーツ。
過不足のない距離。
グラスを持つ手に、無駄がない。
この男も、“整えている”。
「本日は、ありがとうございます」
「こちらこそ」
最初の数分は、ただの客だった。
仕事の話。街の話。
石橋先生の話題。
けれど、ある地点で空気が変わる。
削られていくのだ。
余計な会話が。
「榊さんとは、いつ頃からのご関係で?」
「だいぶ前ですね」
「学生の頃から?」
「そうなりますね」
男は頷く。メモは取らない。覚えるタイプだ。
「実は」
男が少しだけ声を落とす。
「完全に初耳ではないんですよ」
私はグラスに口をつけたまま、視線だけを上げる。
「業界では、断片的に知られている話でして」
やっぱりね、と思った。
「エッセイに、何度か出てきますよね」
「そうですか?」
「銀座の、年上の女性」
私は笑う。
「銀座にはたくさんいますよ」
「ええ。ただ」
一拍。
「“読む女”という表現は、そこまで多くない」
そこで、初めて“名前のない輪郭”がはっきりした。ああ、そこまで来ているのか、と。
「名前は出ていませんが」
男は続ける。
「モデルはほぼ特定されている、という認識です」
「へえ」
「もちろん、一般には知られていません」
「それは安心ですね」
「ただ」
男はグラスを回す。
「こういうことがあると、線が繋がる」
私は黙った。繋がる。その言い方が、妙に正確だった。
「ちなみに」
私は軽く言った。
「御社からは、彼の本、出てませんよね」
一瞬だけ、空気が止まる。
「ええ、出ていません」
「そうなんですね」
私は頷く。
「じゃあ、純粋に興味で書かれるんですね」
男は少しだけ笑った。
「興味もありますが」
一口飲む。
「売れるかどうか、の方が大きいですね」
「正直でいいですね」
「お互い様でしょう」
この男は、隠さない。
その代わり、削る。
言葉を。
「彼は、あなたをどう見ていたと思いますか」
「彼にとって、貴女は書くネタの一つに過ぎない、とか?」
私は少しだけ笑った。
「書く人って、そういうものじゃないですか」
「あるいは」
男は続ける。
「あなたは、彼をどう扱っていたか」
――そこか。 一瞬だけ、呼吸がずれる。
でも、戻す。
「どう、とは?」
「もしかしたら、気まぐれでそういう関係になった、純な坊や。とか?」
私は答えなかった。
代わりに、男を見る。
男は頷く。
納得ではない。確認だ。
「だとしたら、彼の不倫騒動は貴女にとっては意外なことかもしれないですね」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
私はグラスを持ち直した。
「ええ」
「十年も経てば、人は変わりますよ」
一拍。
「特に、持ち上げられた人間は」
私は答えない。
けれど、否定もしなかった。
そのあとの会話は、浅くなった。
もう必要なものは取った、という感じだった。
ボトルはあまり減らなかった。
だが売上にはなる。
取材費ではない。飲み代として落ちる金。
それがこの街のやり方だ。
数日後、記事が出た。
予想通りだった。断片が繋がる。線になる。
そして最後に、名前のない輪郭が“意味”を持つ。
私はページを閉じかけて、止まった。
そこに書かれていたのは、事実じゃなかった。
でも、嘘でもなかった。
ただ、整えられていた。
出会いの時期。関係の推定。年齢差。過去の女。そして――既婚。
そこに、あの女優の名前が添えられる。
整えられた構図。
悠人を取り巻く綺麗な三角形。
そして最後に、こんな一節があった。
――彼が本当に取り戻したかったものは、若さでも、恋でも、失われた自尊心でもなかったのかもしれない。
ただ、自分が一度喰われた側だったという事実を、誰かに押しつけたかっただけなのだ。
童貞を喰われた男が、処女を喰う。
それは、男が男であることに失敗したあとで覚える、もっとも貧しい復讐だった。――
安っぽい、と思った。そのくらいの書き方は、いくらでも見てきた。
私はページを閉じかけて、止まった。
その一文の、少し手前。そこに書かれていた数行を、もう一度読む。そこには、私が知っているはずの“間”が書かれていた。
言葉にしていない部分。
言わなかった沈黙。
削ったはずの余白。
――どうして分かる?
そのとき初めて、
私は“読まれていた側”にいた。
