試す女(ためすおんな)第二話:最初の嘘【創作大賞恋愛小説部門】
──私は里佳子。二十二歳、東京暮らしはもう二年目になる。
なのに銀座の名刺を握りしめた今夜は、まるで“上京初日”の心臓の音だった。
銀座でスカウトされた日、薫さんに言った。「彼にバレたくないんです」
「だったら、うちで支度すればいい。嘘をつくなら、最後まで丁寧にね」
それが、最初の“嘘”だった。
本来なら、ホステスは自宅で支度するのが普通だと聞いた。でも私は、どうしても賢斗に知られたくなかった。夜の仕事。銀座のドレス。巻かれた髪。鏡の中で変わっていく私。
薫さんの部屋は、まるでホテルのスイートルームの一角みたいだった。
白を基調にしたリビングに、薄くジャスミンの香りが漂っていた。花そのものではなく、どこか人工的で、でも嫌味のない香り。コスメはドレッサーの上に几帳面に並べられ、窓際の小さな丸テーブルにはミネラルウォーターのボトルと、薄いグラスが置かれていた。カーテン越しの夕暮れが、白い部屋の壁をわずかに茜色に染めていた。
その空間は、私の知っているどこにも似ていなかった。整えられた空気。手触りのいいクッション。光を受けてきらめく香水瓶たち。すべてが、私に「女であること」を突きつけてくるようだった。
薫さん──ママの右腕。知的なトークと気配りでのし上がったやり手ホステス。同僚からは陰で妬まれていると聞いたけれど、私にはやさしい人だった。きつい言葉を選ぶときでさえ、どこか慈しむような間があった。
「緊張してるでしょ」
薫さんはそう言って、私の肩にそっと手を置いた。その指の体温が伝わってくる。私は首をすくめ、思わず笑った。
「だいじょうぶよ、銀座はね、誰だって最初があるんだから」
彼女はそう言って、ミネラルウォーターのグラスに口をつけた。
「お酒、飲まないんですか?」
思わず訊ねると、薫さんは軽く目を伏せてから答えた。
「仕事以外では飲まないの。飲む癖がつくと、境目がなくなるから」
そして、少し間を置いて、こう続けた。
「ホステスってね、お酒を好きにならない方がいいのよ。好きになると、逃げ場になる。逃げ場になると、足をとられる。気づいたら、心も体も、どこかで折れちゃうの」
私はその言葉に、深くうなずいたわけでもないけれど、グラスの水が、急に透明で怖いものに見えた。
髪は美容室でやる予定だったので、薫さんのマンションではメイクとドレスの着替えだけをした。ワンピースのファスナーを上げ、ヒールを履いた瞬間、足元がふわりと浮いた気がした。
私たちはタクシーで銀座へ向かった。助手席の薫さんが、髪を軽く揺らしながら窓の外を見ている。運転席との間には仕切りがあって、車内にはジャズが流れていた。私は膝の上で手を組み、ストッキングの感触を確かめるように足をそっとずらした。
目的地は、セット専門の美容室だった。煌びやかなホステスたちが鏡越しに視線を交わしながら、プロの手で髪を巻かれていく。長い髪がブラシに絡まり、カールアイロンの熱が立ち上がるたび、甘い整髪料の香りが漂った。
料金は三千円。薫さんが何気なく払ってくれた。
「最初はね、気にしなくていいの。投資だと思って」
髪が完成したあと、セットされた自分の顔を鏡で見て、私は息をのんだ。誰か別の人のようだった。目元が濃く、唇が艶やかで、首元に流れる髪が肩を撫でていた。視線の角度ひとつで、女の輪郭はこんなにも変わるのだと知った。
午後七時。店に向かう前、薫さんが小さなレストランに連れていってくれた。隠れ家のような落ち着いたフレンチ。白いクロスの上に並んだグラス、窓の外にぼんやりと浮かぶネオンの光。
「今日は私のお客様ね。安心していいわよ」
お店の奥のテーブルにいたのは、柔らかいスーツに身を包んだ年配の男性だった。グレイの髪に細い眼鏡、端正な顔立ちと物腰のやわらかさ。テレビか新聞で見たことがある──そう思った瞬間、私は無意識に背筋を正していた。
政治家。間違いない。
名前はどこかで聞いた気がしたけれど、思い出せない。ただ、その穏やかな口調と、言葉を選ぶ丁寧な会話に、私は次第に緊張をほどかれていった。
「東京、長いの?」 「二年くらいなんです」 「そう。銀座の仕事は?」 「……今日が、初めてです」
これは、本当だった。けれど、自分の声が少しだけ震えていたのを、私は自覚していた。震えた唇がグラスの縁に触れ、冷たいシャンパンが喉を滑る。その感触が、少しだけ私を落ち着かせた。
「じゃあ、私は先に行ってるね。色々あるから」
レストランでの食事を終えると、男性──政治家であるその人は、そう言って苦笑いを浮かべた。そしてスマホをスワイプして時間を確認しながら、スーツの上着を整え、薫さんにだけ視線で合図を送る。何も言わずに、でもすべてを伝えるような、そんな無言の会話。
それがこの世界の人のやり方なんだ、と私は思った。
「じゃ、後で」
薫さんが静かにそう答えると、彼はグラスに少しだけ残った水を飲み干し、静かに席を立った。
──私たちは、彼を見送ってから、数分後に店へ向かった。
店の扉をくぐった瞬間、私は言葉を失った。
正面に広がるのは、まるで異国の宮殿のような空間だった。シャンデリアの光が天井のクリスタルに反射して、細かな輝きが空中に浮かんでいる。空気は、少しだけ甘く、ほんのり湿り気を含んでいて、口の中でやわらかく広がるようだった。
中央の丸テーブルには、白いクロスがかけられ、その上には大理石のような質感の、羽を広げた女神像。無言で何かを示すようなその姿が、空間に緊張感と不安定な優雅さを与えていた。私はその女神に見下ろされるたび、心の奥に手を差し入れられているような錯覚を覚えた。
壁には金のフレームに収められたオブジェが等間隔に並び、照明がそれらにスポットを当てていた。目に映るすべてが、誰かの手によって完璧に整えられている。その過剰なまでの完成度に、私はむしろざらついた気持ちになった。自分の呼吸だけが、この空間の中で湿って、音を立てているように感じた。
右手の壁には、赤と白のストライプ模様の大理石が斜めに走り、その前には柔らかな色合いのソファが並んでいた。そこに腰掛けるホステスたちの姿は、まるで絵画の中の人物のようで、微笑みも会話も、どこか芝居がかって見えた。視線を交わすたび、こちらの皮膚が逆撫でされるような、そんなざわめきを覚える。声をかけられたわけでもないのに、私はすでに、見られていた。
私は足を止めかけた。けれど、薫さんは振り返らない。
その背中は、なめらかに光る夜のドレスのように、隙がなく、冷たく、美しかった。どこか、この空間そのものを身にまとっているようで、私はただ黙って、その背中を追うしかなかった。
「緊張しないで、大丈夫。店の中の空気に、あなたの呼吸を合わせるの」
小声でそう囁かれたとき、私はようやく息を吸った。けれど、その一呼吸でさえ、どこか自分のものではないように感じた。喉を通る空気が、誰かに借りた声のように、うまく馴染まなかった。
グラスの縁が揃えられ、椅子の位置までピタリと整えられている。均整のとれた空間の中で、私だけが「仮置き」のような存在だった。ヒールの音がカーペットを踏むたび、心の奥にしっとりと水が染み込んでいく──。
ここは「日常の延長線」ではない。これは、選ばれた者たちが演じる夜の舞台。私はいま、その舞台の端に、ようやく立ったばかりだ。
けれど、自分がなぜここにいるのか、どこへ向かうのか、それだけが、どこまでもぼやけていた。
そして、少し混雑した店内にぽっかりと空いたソファの一角。そこには、さっきの「優しい男」がいた。
薫さんは、私の腕をそっと引いた。
「隣に座って。大丈夫」
その言葉に導かれるように、私はゆっくりとソファに腰を下ろした。グラスが差し出され、彼が穏やかに微笑む。
「改めて、ようこそ。ゆっくりしてね」
私は、かすかに会釈を返すのが精一杯だった。呼吸のリズムが、ほんの少し乱れているのがわかった。
──ふと、気づくと。
薫さんの姿が消えていた。
まるで、舞台に立つ役者が、暗転の中ですっと袖へと下がるように、彼女は音もなく、視界からいなくなっていた。
私と、彼と、グラスの泡。沈黙の隙間に広がる香水の香り。
不思議だった。ほんの数分前まで同じ空気を吸っていた人がいなくなっただけで、世界はこんなにも、足元からぐらつくのか。
言葉を交わしながらも、私の耳は周囲の音を拾っていた。笑い声、グラスがぶつかる音、誰かのハスキーな声──そのすべてが、膜の向こうで響いているようだった。私はその膜の中にいる。でも、外にもいる。
その時間は、ほんの数分だったかもしれない。けれど、私には永遠に近かった。
「ごめんね、ちょっと店長に里佳子ちゃんの初出勤を報告しないとね」
薫さんが戻ってきたとき、私はようやく呼吸を吐けた。彼女は、あたりまえのように隣に座り、私のグラスをさりげなく手に取って少し角度を変え、笑った。
「緊張してるでしょ。でも、悪くない顔してるわよ」
それは、気遣いというより、舞台の主役にかける演出家のような言葉だった。
グラスが並び、シャンパンが注がれた。彼は一切下ネタもなく、ずっと私の話を聞いてくれた。派遣のこと、上京のこと、田舎の雪の話。誰も笑わなかった思い出を、彼は微笑みながら聞いてくれた。
気づけば、私は笑っていた。それが“接客スマイル”ではないことを、私はそのとき初めて知った気がした。
帰り道、薫さんが言った。
「優しい男はね、女をいちばんダメにするの。覚えておいて」
「私がそうだった。優しさに甘えた瞬間、仕事でも恋でも順位を落とすのよ」
その言葉の意味は、まだよくわからなかった。けれど、私の胸にはなぜか、すうっと冷たいものが降りてきた。光沢のあるドレスの裾をつまみながら、夜風を受けて歩く感覚は、まるで舞台の幕が下りたあとの余韻のようだった。
私は再び薫さんの部屋に戻って、着替えさせてもらった。髪をほどき、リップを落とし、ファンデを洗面所で拭い落とす。鏡の中の私は、少しだけ目元が赤かった。
自分がどこかの役から“素”に戻る瞬間だった。けれど、その“素”というものが、どこにあるのか、私はもう少しだけわからなくなっていた。脱いだドレスの下に、裸の自分がいるはずなのに、その肌さえ、誰かの影を帯びているようだった。
下馬のアパートに戻ると、部屋は暗く、テレビだけがぼんやりついていた。埃をかぶったような静寂。賢斗はソファに横になったまま、寝ぼけた目で私を見た。その目元には上京した時と変わらぬ優しい笑みがあったが、日々の疲れの積み重なりも感じた。
「おかえり……遅かったね」
「残業が長引いちゃって」
私はそう言って笑った。喉が少し渇いていた。冷蔵庫から水を取り出す音が、やけに大きく響いた。
彼が何かを察したかどうかはわからない。でも、次の瞬間、彼は立ち上がって私を抱きしめた。強く、乱暴に、でもどこか不器用に。そのままベッドに倒れ込んで、私の服を脱がせた。
シャワーも浴びずに交わる肌。彼の熱い吐息と、私の喉の奥から漏れる声。交わるたび、私はどこかで「ほどいて」と息の奥でつぶやいていた。賢斗に、あるいは、自分自身に。
だけど、それがどちらなのか、もはや定かではなかった。
その夜、私の中で何かが、ひとつ静かに壊れた気がした。
