試す女(ためすおんな)第三話︰裏切りの前触れ【創作大賞恋愛小説部門】
銀座の夕暮れは、湿度を含んだ空気と香水の匂いで満ちていた。ネオンに照らされた通りを歩くだけで、皮膚の表面がじっとりと湿るような感覚。午後五時、まだ客のいない明るい照明に切り替えられた店内の客席──そこが、この夜の“ミーティングルーム”だった。
クリーム色のソファーにホステスたちが思い思いの姿勢で腰を下ろしていた。脚を組んでいる者、スマホをいじっている者、目を閉じて黙っている者。まるで開演前の舞台裏のような張りつめた空気の中、フロアを囲むようにして円ができる。
対面には、店長が黒服姿で腕を組み、睨むでもなく、ただ一人ずつの顔をゆっくりと見ていた。その視線は、声を発することなく圧を伝える。視線が当たるたび、誰かの背筋がわずかに伸びるのが見えた。
そして、その隣。ソファーの最奥に、ふてぶてしくも気品のある姿勢で腰を据えていたのが、オーナーの佳代子ママだった。濃いブルゴーニュ赤を思わせるドレスが彼女の肌をより白く見せ、組まれた足元からは高価な香水と煙草の匂いがじんわりと立ち上っていた。
全体ミーティングは、まるで能の舞台だった。役者たちは言葉よりも間と姿勢で演じる。言葉は刺さず、間が刺す。明るい照明の中でも、まるでスポットライトの下にいるようだった。
「今月のトップは、薫さん」
店長の声が響いた。
控えめに拍手が起きる。薫さんはそれに応えるように、ほんの少しだけ会釈をしてみせた。
拍手が止むと、佳代子ママがふっと煙を吐いて、足を組み直した。
「さて、みんな。来月はうちの周年。売上、上げてもらわなきゃ困るわ」
声は甘く湿っていて、けれど刃のように鋭い。
「ホステスは売上ノルマ倍、ヘルプも同伴ノルマ倍。わかってた話よね?」
──ホステスとヘルプ。
あらためて言葉にされると…
胸の内で静かにその違いをなぞってしまう。
ホステスは、自分の担当のお客様を持つ立場。
一方のヘルプは、補助役。他のホステスの席に呼ばれて、盛り上げるのが役目。お客様に気に入られても、それが自分の売上になるわけじゃない。
入店から四カ月ほど過ぎたが、私はヘルプ。出勤も週二日だけ。
薫さんには憧れるけど、ホステスになるのは無理。賢斗だってこの仕事を認めるはずがない。
どこかのグラスが、カチャリと小さく鳴った。その音が、静けさにひびを入れる。
ホステスたちは息を呑んだ。誰も言葉を発しない。明るい照明の下では、目の動きや指先のわずかな動きまでもが見逃される。沈黙の中で、圧力だけが膨らんでいく。
私はソファに沈みながら冷たい汗を背中に感じていた。昼の仕事も続けている私にとって、月六回の同伴ノルマは現実感のない数字だった。
──薫さん、助けて。
その声にならない願いが、ほんの少しだけ息に紛れたのだろう。ソファーに深く座る薫さんがこちらを一瞥する。だが、その目には、いつものやわらかな余裕がなかった。沈んだ湖面のように、奥を覗かせない瞳だった。
「ねえ、愛ってさ、試されてなんぼだと思わない?」
佳代子ママがぽつりと言った。
「会社も家も、全部投げ出して、それでもなお“あなたを愛してる”って言ってくる男。そういうの、いいわよね。薫は考えすぎなのよ、恋も仕事も」
誰かが笑ったような気配がしたが、それもすぐに消えた。ソファーの湿度が一気に上がる。
薫さんは、少しだけ口元を歪めて笑ったが、何も言わなかった。紅い唇がわずかに動いて、息をのんだだけだった。
そこで、張り詰めた空気を払うように店長が口を開く。
「以上。では解散──と言いたいところだけど、ほら、弁当出てるから。余らせると佳代子ママが悲しむからね」
どっと笑いが漏れた。ようやく空気が緩む。
私は控えめに弁当コーナーに近づこうとしたとき、店長がすっと横に現れた。
「二つ取っとくから。彼氏と一緒に食べるといい。余ってるし、バレずに持ち帰れるようにしてやるよ」
目を合わせず、軽口を叩くような声。それなのに、なぜか胸にじんわりと染みた。
最近の私は、接客にも少しずつ余裕が出てきていた。水割りの氷を回す手に、もうぎこちなさはない。ソファに座る姿勢も自然に、背筋をすっと伸ばせるようになった。言葉遣いも、敬語が自然に口をついて出るようになってきた。
──とはいえ、まだまだ、プロの域ではない。
それでも、私は自分なりの矜持を持っていた。昼職を辞めるつもりはない。アフターも基本的には断る。ただ、金曜日なら、なんとかなる。
それが、今の私の“境界線”だった。
ミーティング後、薫さんが声をかけてきた。
「ねえ、今日のアフター、繋ぎをお願いできない?別のお客様のアフターをサクッと切り上げて、一時間で戻るから、そこでバトンタッチ」
「もちろん」
いつもであれば、ためらうのだけど、今日は金曜日だし、ミーティングの緊張感のあとだったせいか、私は即答した。その声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
銀座には“永久指名”の制度がある。一度誰かの客になれば、他のホステスに変わることはない。お客様の連れも、自動的にその担当者の管轄になる。
でも私は、そこまでこの仕事にのめり込むつもりはない。指名を取ることが、ゴールだなんて思っていない。ただ、今夜だけ、誰かの代わりになれるなら──それで十分だった。
ママの目が、私を見ていた。
それは、熟れすぎた果実のように甘く、けれど、どこか腐る寸前の匂いを帯びていた。
薫さんは約束通り一時間で合流し、私はすぐに解放された。そして、深夜に帰宅すると彼はリビングに座っていた。
「……なんか、変わった匂いする」
思わず振り返った。賢斗は、鼻をひくつかせて、うっすら眉をひそめている。
「香水、変えた?」
「ううん。変えてないよ。たぶん、お弁当の匂いかも」
私はそう言って、今日のミーティングで配られた、あの豪華な二段重が入った紙袋を彼の目の前に差し出した──銀座の仕出し弁当。牛しぐれ煮に、すだちの香りが効いた焼き魚、炊き込みご飯。冷めても舌の上でほどけるような甘露煮。
はっきり言えば、派遣の身には場違いな品だ。
けれど、彼の顔はまだ疑っていた。いや──疑っているというより、「確信のない不快感」に支配されていた。
──そういえば、昨日(木曜)の朝。
ドライヤーで髪を乾かしながら、彼がぽつりと言っていた。
「最近さ、後輩の女の子ができて。すっごい素直で、めちゃくちゃ気が利くんだよね。俺がブラックの缶コーヒー飲むの知っててさ、『先輩は無糖派ですよね』って言ってくれたの」
その声が、妙にうれしそうだった。
──そっか、もう「先輩」なんだ。
賢斗が上京して表参道のサロンに入ったのは二年前。最初はタオル洗いと掃除ばかりだったのに、去年やっとアシスタントを卒業して、いまは新人スタイリストとして指名も少しずつ取れるようになってきた。
最近は口調も少し変わってきたし、身だしなみにも気を使ってる。あの頃のままの賢斗では、もうないのかもしれない。
「……なんかさ、最近ちょっと変だよね」
「え?」
「夜遅く、帰ってきて、テンション違うし。前みたいに甘えてこないし」
言葉がとげとげしく、妙に子供っぽい。けれど、その子供っぽさが、逆に胸を締めつける。
「そんなこと、ないよ、遅い日は賢斗に悪いから…」
そう言いながら、私はソファに座り、制服を着替える前にバッグの奥を確かめた。ライターや名刺、余計なものは入っていない。けれど、それでも落ち着かなかった。
彼の目が、自分を探るように動く。
「里佳子ってさ、浮気するタイプ?」
「えっ……なにそれ」
「いや、なんとなく」
無表情のまま、彼はテレビのリモコンをいじっている。手元ばかりを見て、目を合わせてこない。
部屋の空気が重い。湿っている。何かが、確実に変わってしまった。
彼の「なんとなく」は、たぶん本能だ。
言葉では説明できない、でも確かに感じ取ってしまった匂い──銀座の空気。高級な化粧品、タバコとアルコールと、女たちの柔らかい声にまみれた夜の湿度。そういうものが、体から、髪から、仕草から、漏れていたのかもしれない。
「……シャワー、入ってくるね」
「うん」
背中越しに返されたその声には、かすかな苛立ちがにじんでいた。
私はバスルームでお湯を出しながら、鏡に映った自分を見つめた。目元にうっすらと残ったアイラインが、どこか知らない女のようだった。洗い流したいのは、化粧だけじゃなかった。湿った空気、銀座の匂い、薫さんの言葉。胸の奥に沈んで離れないもの。
シャワーを浴びても、消えてはくれなかった。
ベッドに戻ると、賢斗が不意に私を引き寄せ、強くキスをした。押しつけるような唇。疑うよりも、確認するような、所有をなぞるようなキスだった。
「……本当に、俺のこと好き?」
そう訊かれて、私は答えられなかった。
「なら、証明して」
その言葉が、刃のように刺さった。
私は逃げなかった。いや、逃げられなかった。シャワーの熱がまだ残る肌に、彼の手が触れる。重なった身体の中で、私は静かに目を閉じた。
愛なのか、執着なのか、それとも罰なのか──
私は、そのどれでもない名前のつかない感情に、身を委ねていた。彼の熱は確かに私を包んでいたけれど、その温度の奥にあったのは、支配だったのかもしれない。
それでも、私は何も言わなかった。
呼吸を合わせるたびに、体の奥に、ひとつずつ“嘘”が沈んでいく気がした。
私のじゃない誰かになっていく感覚が、静かに、でも確かに広がっていた。──夜の奥で、何かの歯車がかすかにずれた音がした。
