試す女(ためすおんな)第四話︰クライング・ゲーム【創作大賞恋愛小説部門】
代官山のカフェは平日の午後だというのに満席に近く、私たちは炭色のパラソルが斜めにかぶさるテラス席へ通された。舗道沿いにはハンギングバスケットのゼラニウムが揺れ、まだ梅雨入り前の乾いた風が、ミルで挽き立てたコーヒーの香りと一緒にテーブルを撫でていく。
薫さんはマットなベージュのジャケットの袖口を整え、アイスラテのストローを音を立てないようにくるりと回した。氷がグラスの側面に触れて微かな鈴のような音を立てる。
「ねえ、独立するの。銀座で」
さらりとした一言。けれど、言葉の輪郭だけがカップの縁のように際立っていた。
「お店、持つのが夢だったの」
淡く笑う唇と裏腹に、茶色の瞳はすでに次の夜のネオンを映しているようだった。私が手元のウォーターグラスに視線を落とすと、水面に射した木漏れ日が揺れて、まるで選択肢そのものが波打っているように見えた。
「一緒に来ない?」
誘いは想像よりも軽やかで、私の胸の奥で小さな鐘を鳴らした。けれど私は首を横に振る。氷が当たって冷たい外気を吸った喉が、きゅっと細くなる。
「私、辞めるつもりなんです」
言い終えた瞬間、背中を冷たい影が滑り降りた。薫さんは片眉をわずかに上げ、ふぅと小さく息を吐いた。
「……彼?」
肯くと、ラテの泡がひとつはじけた。
「そうしなさい。あなた、まだ戻れる」
優しいのに、ほんの少しだけ哀しみを含んだ声。私は頷くしかなかった。
会計を済ませる薫さんの背中越しに、店内スピーカーのボサノヴァが雨の前触れのように湿っぽく聴こえた。
「それより、今夜の同伴。私の大事なお客様でしょう? キャンセルしなくていい。銀座の卒業祝い、してもらいなさい」
澄んだ声が、氷の入ったグラスみたいに冷たくも透明で、私は反射的に「はい」と答えていた。
その夜、まだ薄い雨雲が空を覆う頃、私は約束通り銀座七丁目の和食『霧雨』の暖簾をくぐった。待っていたのは IT 企業を経営する福山さん――七歳年上の、冴えた黒縁メガネが似合う人だった。理系らしさと気遣いが同居した静かな笑顔。
「里佳子さん、こんばんは。入梅前に会えてよかった」
コースの先付は翡翠色のじゅんさいと蟹味噌のジュレ。ガラスの鉢に映る緑が、静かな水面みたいに揺れた。
「里佳子さん……もう、会えなくなるんですね」
湯葉を箸で持ち上げたままの手を止める福山さん。私は笑みを崩さずに首を傾げる。
「……どうでしょう。東京ですし、またいつでも」
言いながら、胸の奥で『さよなら』の二文字が融けきらずに残っているのを感じていた。
すると彼は静かに笑いながら──
「ところで、『The Crying Game 』って映画、観たことある? …サソリがカエルを刺すやつ」
私は首を振って「その話、お店で聞かせて」と答えた。
店を出ると、歩行者天国の舗石が雨粒で黒く斑になり始めていた。福山さんは小さな黒傘を差し出し、店と同じ通りのビルにあるクラブへ私をエスコートした。
店内のシャンデリアがシャンパン色の光で揺れる。福山さんは迷いなくドン・ペリニヨン・ロゼのボトルを注文した。泡がグラスの中で花火のように弾け、薔薇色の香りが鼻腔をくすぐった。
乾杯のあと、彼は私の決断を尊重するように、それ以上辞める話を深追いしなかった。代わりに、次期プロダクトの AI 制御の話を熱心に語り、私は――これが最後だと思いながら――笑顔で相づちを打った。
深夜零時、営業が終わると、佳代子ママが私が座っていたテーブルにやって来た。
「ねえ、ちょっとだけ付き合って」
ママの香りはいつものサンタ・マリア・ノヴェッラ。私はロッカーの荷物を引き上げて、彼女のタクシーに滑り込んだ。
行き先は六本木ヒルズ、グランハイアットのバー〈マデュロ〉。重厚なドアの向こうでは薄紫のライトがサックスの音色を包んでいた。ママはバーボンのダブル、私はライチのノンアルコールカクテル。グラスに差した白い蘭の花弁が、氷の縁に触れて揺れた。
「薫、辞めたのよね」
頷くと、ママはスモークを一度吸い込み、煙を粘るように吐いた。
「あの子、賢いわ。あなたに客を取られたくなかったのよ」
「どういう意味ですか」
「銀座は永久指名。薫がいなくなれば、ウチの店では、あの子の担当はたぶんあなたが引き継ぐ。そこで“若いあなた”が営業すれば、薫の店ではなくウチであなたを選ぶ。薫はあなたに引き負ける――でも辞めるなら、関係ないわね」
氷がグラスの壁を打ってカランと鳴った。
「お金、要らないの?」
ママは甘く笑い、濃いルージュの付いた紙ナプキンで唇を押さえた。
タクシーの車内、西麻布交差点の信号が赤に変わると、ママは後部座席のライトを点け、大きめの封筒を私の膝に置いた。中には帯で束ねられた新札。墨の匂いさえ生々しい。
「今日までの分。それと、お祝い。うちの子になれば、好きなだけ稼げるのに」
私は何も言えず、ただ受け取る。札束の温度が太ももにじわりと移って、心臓の拍動と重なった。
午前三時。三軒茶屋のカラオケボックスでドレスから T シャツに着替え、髪を無造作に団子へまとめる。汗のにじむ首筋にドライヤーの送風を当てながら、鏡の自分をしばらく見つめた。ピンクの口紅を拭い、頬のラメを指で払うと、顔の輪郭が急に輪郭線の薄いスケッチのようになる。
タクシーの後部座席でスマホを開くと、福山さんから『今夜の笑顔、綺麗だった』とだけ届いていた。返事を打つ指が震え、途中で消して画面を伏せた。
午前四時前、下馬のアパートの玄関灯が蛍光色に滲んでいた。鍵を回すと同時に室内灯が点き、賢斗がリビングから飛び出した。
「遅い。どこ行ってた」
声が乾いて割れ、手首を乱暴に掴まれる。
「また……男か?」
言葉より先に唇で塞がれる。壁に押しつけられ、背中に額縁が当たる。外していたピアスが床に転がり、カランと乾いた音がした。
「浮気しているんだろう、もう……」
問いなのか確認なのか曖昧な声。返事をする猶予もなく、ベッドに倒れ込み、シーツが湿った夜の匂いをはらんで私を包んだ。
噛まれた唇の内側に鉄の味が広がる。涙が頬の生え際を伝い、枕元へ染みる。――それでも、私は抱きしめ返した。赦しなのか、罰なのか、自分でもわからないまま。
終わったあとの静けさは、遠くで目覚ましが鳴る前の夢の底のようだった。賢斗の寝息を背中に感じながら、私はそっと体を起こし、スマホを拾って廊下に出た。
電気をつける勇気がなく、膝を抱えて壁にもたれる。画面が淡い光で私の顔を照らした。
福山:今日はありがとう。やっぱり、また会いたいな。
指先が震えた。返信ボタンに触れたまま、しばらく動けなかった。
廊下の窓ガラスが藍から薄桃へと滲み、夜明けの色がじわりと入り込んでくる。私の中で“銀座の匂い”と“下馬の匂い”が、まだ混ざり合わずに層を成していた。どちらにも帰れないまま、夜と朝の境目に座り込んでいる気がした。
ベッド脇の封筒からはみ出た帯封が、夜明け色の空で紫を帯びた。
