読む女 第九話 ロング・グッドバイ
店を辞める最後の夜だというのに、私は不思議なくらい機嫌がよかった。
感傷がなかったわけじゃない。
ただ、感傷は銀座では役に立たない。
役に立たないものは、酒と笑いで薄めることができる。
少なくとも、今夜までは。
フロアは最初から妙に華やいでいた。
私が辞めると聞きつけた客たちが、いつもより少しだけ早い時間から顔を出していたからだ。
別れを惜しむ、というより、こういう夜に立ち会うことで、自分が何かの当事者になれる気がするのだろう。
男というのはそういうものだ。
「真璃ちゃん、本当に行っちゃうの?」
「行きますよ」
「なんでまたネパールなんか」
「ネパールの男って、毎日カレー食べてるじゃないですか」
「うん」
「だから、ちょっと興味あるの」
「何に?」
「……アレもカレー臭、するのか?」
テーブルがどっと笑う。
「言わせるなよ」
「今さら何言ってるんですか」
私は肩をすくめて、グラスを持ち上げた。
「みんな、私に品なんか求めてないでしょ」
笑いながら、適当にかわす。
こういう夜は、少しだけ言葉を雑にしたほうがいい。
丁寧に別れようとすると、別れは本当に別れになる。
雑に笑って、どうでもいい顔をしていたほうが、まだどこかに余白が残る。
団体の席がひと段落したころ、カウンター寄りの席にあの社長が座っていた。
私は隣に腰を下ろす。
「今日は騒がしいですね」
「君が主役の日だからね」
「主役って柄じゃないですけど」
「いや、君は案外そういうの、嫌いじゃないでしょう」
「どうですかね」
私は水を口に含んだ。
「ネパール、ですか」
「はい」
「本当に行くんだ」
「本当に行きます」
社長はグラスを持ったまま、少しだけ間を置いた。
「前に、話したことがあったね」
私は何も言わない。
「好きじゃないことは、長続きしないって」
ああ、と心の中で思う。
あの夜の、あの言葉。
「覚えてますよ」
「じゃあ聞くけど」
社長は私を見る。
「それは、“好きなこと”なのかな」
ネパールとは言わなかった。
もう少し曖昧な場所を指している。
「……どうでしょう」
私は少し笑った。
「好きかどうか、分からないんです」
「珍しいね」
「ええ」
グラスの縁を指でなぞる。
「好きなことばっかり選んできたつもりだったんですけど」
一拍。
「それで長続きしてきたかって言われると、ちょっと怪しい」
社長は何も言わない。
待っている。
「だから」
私は続ける。
「好きかどうかじゃなくて」
少しだけ言葉を探す。
「壊れるかどうか、試したいんです」
口にした瞬間、少しだけ空気が変わる。
社長は小さく笑った。
「なるほどね」
否定でも肯定でもない。
「それなら、長続きしないかもしれない」
「いいんです」
私は即答した。
「長続きしなくても」
一拍。
「ちゃんと壊れるなら」
社長はグラスを傾けた。
「君はやっぱり、極端だな」
「そうですか?」
「うん。でも」
少しだけ目を細める。
「そのほうが、君らしい」
私は、その言葉にだけは返事をしなかった。
夜は最後まで賑やかだった。
花も来た。
シャンパンも開いた。
写真も撮られた。
誰かが少し泣いて、誰かが笑い、私は最後まで明るく場を回した。
別れの夜というより、祭りのあとみたいだった。
閉店後、荷物をまとめて店を出ると、夜気が少し軽かった。
私は振り返らなかった。
意味なんか、出ないほうがいい別れもある。
出発の日、成田は妙に明るかった。空港という場所は、いつでも誰かの出発に最適化されている。
別れや期待や不安みたいなものが、ぜんぶ床のワックスみたいに薄く均されている。
私は搭乗手続きの前に、ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。
眠いわけではない。
でも、何かを飲んでいないと、身体だけが先に遠くへ行ってしまいそうだった。
「真璃さん」
顔を上げると、里佳子が立っていた。
少し息を切らしている。
走ってきたのだろう。
「……ほんとに来たの」
「来ますよ」
彼女は少しだけ笑った。
「だって、前に待っててもらったから」
その言い方が、妙に真っ直ぐで、私はしばらく何も言えなかった。
東京拘置所の前。
福山との面会を終えて出てきた里佳子を、私は待っていた。あの日の空気の重さを、私はまだ覚えている。
泣くには遅く、笑うにはまだ早かった、あの中途半端な冬の午後を。
「律儀だね」
「そういうの、大事にするタイプなんです」
「うそ。あんた、もっとめちゃくちゃなタイプでしょ」
「それはそうですけど」
里佳子は私の隣に座った。少し黙ってから、言う。
「再出発の日、立ち会ってくれたじゃないですか」
私は缶を握ったまま、彼女を見なかった。
「だから、私も見たいんです」
「何を?」
「真璃さんの、再出発」
その言い方が、少しだけ照れくさくて、私は笑った。
「たいしたもんじゃないよ」
「そういうふうに言うところが、真璃さんですよね」
「どういう意味?」
「ちゃんと特別なのに、特別ぶらない」
「それ、悪口?」
「褒めてます」
里佳子はそう言って、私の顔を覗き込んだ。
以前より少しだけ強くなった顔をしていた。
あの夜、一千八百万円を走り抜けた顔だ。
削れたものもあるだろう。でも、その分だけ芯が出てきた。
人はああいうふうにも変わるのだと、私はこの子を見て知った。
「銀座、帰ってきますよね」
里佳子が言う。
その質問は、軽いようでいて、まっすぐだった。
私は少し考えた。
そして、笑った。
「それは、読めない」
里佳子も笑った。
「真璃さん、それずるい」
「ずるい?」
「その答え方、いちばん真璃さんっぽいです」
「そう?」
「うん。なんか、安心しました」
「何それ」
「帰ってくるって言われても、ちょっと違うし。帰ってこないって言われても、嫌だし」
「面倒くさいね、あんた」
「真璃さんほどじゃないです」
ふたりで少し笑った。
搭乗手続きのアナウンスが流れる。空港の時間は、銀座の時間と違う。
間を取らない。待ってくれない。
立ち上がると、里佳子も立った。
「じゃあ、行ってきます」
「はい」
「死んだら泣く?」
「ちょっとだけ」
「薄いなあ」
「でも、帰ってきたらめちゃくちゃ飲ませます」
「それは嫌だな」
「うそです。半分だけです」
「半分は本当なんだ」
また笑う。
その笑いが途切れたあと、里佳子は少しだけ真顔になった。
「真璃さん」
「ん?」
「向こうで、変な男に引っかからないでくださいね」
私は吹き出した。
「ネパールまで行って、男かあ」
「いや、なんか、世界中のストイックな男たちが集まってそうじゃないですか」
「どうだろうね」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「少なくとも、私が知ってる男とは、ちょっと違うかもね」
「ほら」
里佳子が呆れたように笑う。
私はキャリーケースの持ち手を握った。
押せば、車輪が静かに前へ出る。それは、壁に指を押し当てたときの感覚に少しだけ似ていた。
押せば、進む。
そこに、解釈はいらない。
「じゃあね」
「はい。行ってらっしゃい」
私は手を上げて、ゲートのほうへ歩き出した。
振り返らなかった。
けれど、背中の後ろに、誰かが立っていてくれる感じだけは、ちゃんと分かった。
それで、十分だった。
