#犯人は猫でした 第一話 タグ
人気小説家・榊悠人は、執筆に行き詰まったホテルの一室で、奇妙なSNS投稿を目にする。
荒れた部屋の写真。倒れたテレビ、散乱した錠剤、血のような染み。だが投稿には、軽い調子でこう添えられていた。
「#犯人は猫でした」
違和感を覚えた榊は、投稿主である十八歳の女子高生に接触する。だが数日後、週刊誌は二人の“密会”を報じ、ネット上では不倫疑惑が拡散。さらに榊は、同じ画像が別人によって「#DV被害者」「#OD失敗」など、異なる文脈で大量に使われていることに気づく。
これは、誰かのSOSなのか。それとも、ただの悪ふざけなのか。
そして、真相を追ううちに、榊は気づいてしまう。
一番うまく出来事を書き換えているのは、自分自身かもしれない、と。
SNS時代の「真実」と「物語」をめぐる、哲学的ミステリー。
ホテルの部屋は、静かすぎるくらいだった。
エアコンの音だけが、一定の間隔で流れている。窓の外は暗い。夜景と呼ぶには中途半端で、ただ遠くに灯りが点いているだけだ。
あれはどこかのオフィスなのか、マンションなのか、それとも工事現場の仮設照明なのか。分からない。分からないまま、光だけがそこにある。
こういう場所の方が、集中できると思っていた。実際には、違う。静かな場所では、余計なことばかり考える。
ノートパソコンの画面は白いまま止まっている。
カーソルが、規則正しく点滅していた。小さな棒が、こちらを急かしているようにも見えるし、諦めて待っているようにも見える。
書けないわけじゃない。ただ、書く理由が見つからない。
理由がないまま書いた文章は、あとで必ず読み返せなくなる。
そういう種類の失敗は、何度か経験している。文章は不思議なもので、嘘でも理由があれば読める。けれど、本当のことでも理由がないと、読むに耐えない。
だから、いまは書かないでいる。
そう言えば聞こえはいい。実際には、ただ逃げているだけかもしれない。
スマートフォンを手に取る。
通知がいくつか溜まっていた。
新刊のレビューと、取材の依頼と、見慣れた出版社の名前。書評サイトの通知も混じっている。
星の数は見ないことにしている。あれは見ても仕方がない。五つ星でも傷つくときは傷つくし、一つ星でも妙に納得してしまうときがある。
どれも急ぎではない。確認はあとでいいと思って、そのまま画面を閉じる。
テーブルの端に、見本誌が積まれている。表紙にある自分の名前は、まだ少しだけ他人事みたいだった。慣れているはずなのに、ときどき現実味が薄くなる。自分の名前が、誰かの持ち物になっている感じがする。
書店の平台に置かれ、雑誌の見出しに使われ、インタビューの前書きで少し大げさに飾られる名前。
文壇の寵児。そんな言葉も、一度だけ見たことがある。寵児というのは、いかにも不安定な言葉だと思う。
寵愛されている子どもは、いつか飽きられる。犬でも猫でも、子どもでも、小説家でも、たぶん同じだ。
SNSを開く。
似たような言葉と、似たような映像が流れてくる。誰かが誰かの言い方を借りて、少しだけ形を変えている。それでも成立しているのは、少しだけ面白い。
むしろ、成立しているものの大半は、最初からそういうものなのかもしれない。
完全なオリジナルなど、たぶん誰も求めていない。必要なのは、いま自分が反応できる形に整っていることだ。
指を止めたのは、一枚の画像だった。
部屋が荒れている。
テレビが倒れて、カーテンがフックから外れて、床に何かが散らばっている。小さなケースが開いていて、錠剤のようなものが転がっていた。その一部が、濡れている。色は濃かった。画面越しでも分かるくらいには。
血に見える。
そう思ったのは、たぶん僕だけじゃない。
テレビの倒れ方が、少し気になった。猫が飛び乗って倒したというより、何かに押されて横へ滑ったように見える。カーテンも同じだった。
爪で引っかいたというより、強く引っ張られてフックごと外れたような落ち方だった。
錠剤の散らばり方にも、妙な規則性がある。床の一点から扇形に広がっている。ピルケースを落としただけなら、もう少し近くに固まるはずだ。
もちろん、そんなことは分からない。僕は鑑識ではない。ただ、物語を書く人間は、散らばったものの意味を考える癖がある。
意味がありそうに見えるものは、だいたい危険だ。
でも、その下に付いているタグは違った。
少しだけ笑って、すぐにやめた。
うまいな、と思う。
これだけで、意味が変わる。
血のようなものも、ただの汚れに見えてくる。倒れたテレビも、外れたカーテンも、転がった錠剤も、すべてが猫のいたずらという枠に収まる。
猫は便利だ。責めても反論しない。たいていの理不尽を、あの丸い顔で引き受けてくれる。
あるいは、最初からそうだったのかもしれない。
もう一度、画像を見る。
同じ場所に、同じ色がある。変わっていないはずなのに、さっきとは少し違って見えた。
スクリーンショットを撮る。
誰かに見せたくなる種類の画像だった。いや、誰かに見せることで、自分の違和感を確かめたかったのかもしれない。
メッセージを送る。
>「猫ってここまでやる?」 「なんか血っぽくない?」
相手は古い友人だった。小説の世界とは関係がない。だからこそ、ときどき役に立つ。物語に汚染されていない人間の反応は、たまに必要になる。
既読がつくのは早かった。
返事は、もっと早い。
>「やる猫はやるだろ」 「血じゃなくてワインとかじゃね?」
なるほど、と思う。
>「錠剤も散らばってる」
送ると、少し間があった。
>「それは怖いな」 「でも本当にヤバかったら投稿しないだろ」 「気になるならうp主見てみなよ」
少しだけ間が空く。それから、ああ、と思う。
確かに、その通りだ。
僕は画像を見ていた。画像だけを見ていた。投稿した人間を見ようとしていなかった。
それは、わりと致命的な見落としだった。小説なら、編集者に赤を入れられるところだ。
プロフィールを開く。
十八歳。高校生。
アイコンは顔の一部だけで、表情は分からない。加工のせいか、現実味が薄かった。頬の線が滑らかすぎる。目は少し大きすぎる。
けれど、そういう顔はSNSでは珍しくない。現実よりも、現実らしく見せるための顔。
投稿を遡る。
カフェの写真。コンビニの新商品。空の写真。誰かの投稿への短い反応。どれも薄い。薄いけれど、作り物とも言い切れない。十八歳の生活なんて、外から見ればだいたい薄いのかもしれない。
似たような写真はない。
猫の写真もない。
一度も。
それが、少しだけ引っかかった。
猫を飼っている人間は、たいてい猫の写真を載せる。寝ているだけでも載せる。変な格好をしていればなおさら載せる。何もしていなくても載せる。猫とは、そういう投稿装置でもある。
それなのに、このアカウントには猫がいない。
猫じゃないとしたら、何だろう。
事故かもしれない。精神的に不安定で暴れたのかもしれない。何かを落として、たまたまそう見えるだけかもしれない。
あるいは、もう少し現実的なもの。
例えば。
暴力とか。
そこまで考えて、やめる。決めつけるのは早い。ただ、可能性としてはある。
画面に戻る。
画像は、変わらずそこにある。タグも、そのままだ。
#犯人は猫でした
軽い言葉だった。
だか、軽い言葉ほど、重いものを隠すのに向いている。
僕は公式アカウントからメッセージを送った。
短く。
>大丈夫ですか。
送信ボタンを押したあとで、少しだけ考える。
この一文が、どんな意味を持つのか。
心配なのか。取材なのか。興味なのか。善意なのか。どれも少しずつ違うし、どれも完全には間違っていない気がした。
でも、すぐに考えるのをやめた。
意味は、あとからついてくる。書くときも、だいたいそうだ。最初から整っていることの方が、少ない。
書けない理由を探していたはずなのに、気づけば、書けそうなものを探している。どちらが先なのかは、よく分からない。
返信は、思っていたより早かった。
>大丈夫です。 すみません、変な投稿で、もしかして、本人ですか
文は短かった。句読点の位置が、少しだけ整いすぎている気がした。若い子の文章というより、若い子の文章に見えるように整えられた文章。
もちろん、それも偏見だ。僕は十八歳の女子高生の文章を、そんなにたくさん知っているわけではない。
安心した、というよりは、拍子抜けに近い。
>はい、本人です。猫、なんですか
送る。少しだけ間があって、
>そういうことにしてます
と返ってくる。曖昧な言い方だった。
誤魔化しているのか、単に言葉を選んでいるのかは分からない。どちらでも成立する文章だった。それが、少しだけ気になった。
>よかったら、少し話せますか
理由ははっきりしない。確認したいことがあるわけでもない。助けるつもりがあるわけでもない。ただ、もう少し見てみたいと思った。
何を、というのは分からない。彼女なのか。画像なのか。自分がそこに見つけた物語なのか。
送信する。
既読がつくまでの時間が、少しだけ長く感じた。
>大丈夫です。 どこで会いますか
予想よりもあっさりしていた。
警戒は薄い。あるいは、そういう距離感に慣れているのかもしれない。画面の向こうにいる人間に会うことを、僕の世代ほど大げさに考えていないのかもしれない。
ホテルのロビーを指定する。
人の出入りがある場所の方がいい、と思った。その理由も、あとからついてくる種類のものだった。
当日、ロビーは思っていたより明るかった。
昼と夜の境目みたいな時間で、照明の色が少しだけ中途半端だった。天井の高い空間に、外国人の宿泊客が数人いた。キャリーケースの車輪が床を滑る音が、ときどき会話の隙間に入る。
ソファに座って、コーヒーを頼む。
味は覚えていない。
窓際の席では、スーツ姿の男がノートパソコンを開いていた。画面には表計算ソフトのようなものが映っている。そういう人間を見ると、なぜか少し安心する。
世界には、まだ表に数字を入れる仕事が残っている。小説よりも、ずっと実在している感じがする。
少し遅れて、彼女が来た。
思っていたより普通だった。
制服ではない。年相応の服装で、どこにでもいそうな顔をしている。SNSのアイコンよりも目は小さく、頬の線も少しだけ幼かった。加工が落ちた、というより、現実に戻ったという感じがした。
それが逆に、少しだけ現実味を強くした。
「榊先生ですよね」
確認するように言う。頷くと、少しだけ表情が緩む。
「すみません、急に」
「こちらこそ」
そう言いながら、僕は自分が何に対して「こちらこそ」と言ったのか分からなかった。呼び出したことか。心配したことか。あるいは、彼女がこちらの世界に入ってきたことか。
彼女はバッグから一冊の本を取り出した。
見覚えがある。
自分の本だった。
帯は少し擦れていて、角も柔らかくなっている。新品ではない。読まれた本だった。
「すみません、これ……」
少しだけ迷ってから、差し出してくる。
「サイン、いただいてもいいですか」
断る理由はない。ペンを受け取る。名前を書く。いつもと同じ書き方で。
その並びを書きながら、少しだけ考える。
こういう場面は、何度か経験している。でも、そのたびに少しだけ現実感が薄い。自分の名前が、誰かの物語の中に入っていく。そんな感覚がある。
「ありがとうございます」
彼女は本を両手で受け取った。
その動作が、妙に丁寧だった。丁寧すぎて、少しだけ危うく見えた。
「この話、好きなんです」
ページを押さえながら言う。
「最後、どっちでもいい感じで終わるじゃないですか」
少しだけ笑う。
いい読み方だな、と思った。僕が意図した通りかどうかは、あまり重要じゃない。そう読まれるなら、それで成立する。
たぶん、物語はそういうものだ。
「どっちでもいい、というより」
言いかけて、やめる。
説明するのは野暮だった。作者が自分の作品を解説し始めると、だいたい作品よりつまらなくなる。居酒屋で武勇伝を語る中年に似ている。相手が逃げにくいところまで含めて、よくない。
「そう読んでもらえるなら、嬉しいです」
無難な言い方を選ぶ。
彼女は小さく頷いた。
「榊先生の小説って、最後に答えが出るんじゃなくて、答えっぽいものが残る感じがするんです」
少し驚いた。言葉は拙い。けれど、外れてはいない。
「それ、褒めてます?」
「褒めてます」
彼女は笑った。その笑い方は、思っていたより子どもっぽかった。
会話が少しだけほどける。
学校のこと。読んだ本のこと。SNSのこと。彼女は言葉を選びながら話した。慎重というより、相手に合わせるのが上手い感じがした。相手の反応を見て、少しずつ出す情報の量を変えている。
その癖は、若さとは別のところで身につくものだ。
「猫、なんですか」
しばらくして、同じことをもう一度聞いた。
彼女はストローの袋を指で丸めていた。細い紙が、小さな蛇のようにねじれている。
「まあ……そういうことにしてます」
同じ言い方だった。
それ以上は続けない。
その言葉で十分だと思っているようにも見えたし、それ以上言うと壊れるものがあるようにも見えた。
手元のグラスに触れる。
指先が少しだけ荒れている。
よく見ると、手首のあたりに薄い痣があった。
偶然ではない形をしている。つかまれたようにも見える。ぶつけたようにも見える。どちらでも成立する。
視線に気づいたのか、彼女は袖を少しだけ引いた。
「部活で」
先に言う。説明としては成立している。それ以上は聞かない。聞く理由がない。
あるいは、聞いたところで、意味が変わるとは思えなかった。
沈黙が落ちる。
長い沈黙ではない。コーヒーカップを置く音と、遠くのエレベーターの到着音で、簡単に埋まる程度の沈黙だった。それでも、その沈黙の中に、彼女の呼吸だけが少しだけ目立っていた。
「怖かったんですか」
自分でも、何について聞いたのか分からなかった。画像のことか。家のことか。僕に会うことか。彼女は少しだけ首を傾げた。
「何がですか」
正しい返しだった。僕は答えられない。
「いえ」
とだけ言う。
彼女はそれ以上聞かなかった。
賢い子だと思った。あるいは、賢くならざるを得なかった子なのかもしれない。
どちらでも物語は成立する。
だから危険だった。
会話は、途切れ途切れに続いた。
深く入ろうとすれば入れる。でも、どちらもそうしなかった。
それで十分だった。
外に出る。空気は少しだけ冷えていた。
「今日はありがとうございました」
彼女が言う。
「こちらこそ」
それで終わりだった。
連絡先は交換している。でも、それ以上の何かを約束したわけではない。
彼女は振り返らずに歩いていく。
背中を少しだけ見送る。
エレベーターの前で、彼女が一度だけ足を止めたように見えた。
何か言ったのかもしれない。
こちらを振り返ったのかもしれない。
けれど、そのときちょうど外国人の親子が通りかかり、女の子の持っていたタブレットから甲高いゲーム音が漏れた。小さな電子音が、言葉の輪郭を削った。
僕は聞こえなかったことにした。
聞こえなかったのだから、それでいい。
彼女はそのまま歩いていった。
街の灯りの中に、彼女の輪郭が混じっていく。さっきまで目の前にいた人間が、急に匿名の誰かに戻っていく。
それを見て、少しだけ安心した。
それから、ロビーに戻った。
部屋に戻ると、ノートパソコンの画面はまだ白かった。
カーソルだけが点滅している。
書けそうな気がした。それが、少し嫌だった。
