#犯人は猫でした 第二話 拡散
窓の外は相変わらず暗い。遠くの灯りだけが、何事もなかったみたいに浮かんでいる。こういうとき、街は冷たいと思う。誰かの人生が少し傾いたくらいでは、工事現場の照明は消えないし、終電の時間も変わらない。
スマートフォンが震える。知らない番号だった。少しだけ迷ってから出る。
「榊悠人さんのお電話でお間違いないでしょうか」
男の声だった。低くて、妙に落ち着いている。名乗りは聞き取れなかった。聞く前に、続けられる。
「週刊誌の者なんですが、確認させていただきたいことがありまして」
その言い方で、だいたい分かる。
確認という言葉は便利だ。答えを聞くためではなく、記事を書く前提を整えるために使われる。
「先日、都内のホテルで未成年の女性とお会いになっていますよね」
少しだけ間が空く。確認というより、前提だった。
「記事掲載前の確認になります」
そう付け足される。
画面を見ていないのに、写真の構図が浮かぶ。ロビーの前。彼女が本を差し出して、僕が受け取る瞬間。あるいは、見送ったあとかもしれない。どちらにしても、距離は近く見える。そういう撮り方をされているはずだった。
「どういう記事ですか」
聞いてから、聞く意味はあまりないと思った。
「親密な関係にあるのではないか、という内容です」
声は丁寧だった。丁寧であることが、かえって腹立たしかった。刃物を布で包んで差し出されている感じがする。
「事実ではありません」
自分でも驚くくらい、声は平坦だった。
「ホテルのロビーで話しただけです」
「お相手は未成年ですよね」
「知りませんでした」
半分、本当だった。プロフィールには十八歳とあった。高校生とも書いてあった。でも、“未成年”という単語に変換していなかった。
言葉を変えると、現実が変わる。そんなことは、小説を書き始めた頃から知っている。
「交際の事実はありますか」
用意された質問だった。どの答えでも、記事にはなる。
「ありません」
「密会という認識は?」
「ありません」
「どういった経緯で知り合われたんですか」
少しだけ目を閉じる。画像。散乱した錠剤。倒れたテレビ。#犯人は猫でした。
説明しようと思えばできる。スクリーンショットも残っている。友人とのやり取りもある。順番に並べれば、少なくとも“女子高生をホテルに呼び出した三十一歳の人気作家”という雑な話よりは、筋が通る。
でも、それを説明したところで、別の見出しになるだけだ。
人気作家、女子高生の“不穏投稿”を口実に接触。
たぶん、そっちの方が強い。
「SNSで気になる投稿を見て、話を聞いただけです」
言いながら、自分でも分かっていた。説明が長くなるほど、人は怪しく見える。
「その投稿というのは?」
男の声が、少しだけ前のめりになる。そこに食いつくのか、と思う。少しだけ可笑しかった。記者もまた、物語を探している。
「出版社を通してください」
そう言って、電話を切った。
しばらく、スマートフォンを見ていた。画面は暗い。そこに、自分の顔が映っている。疲れた顔だった。
スマートフォンがまた震える。今度は編集者だった。
「記者から連絡ありました?」
彼は、珍しく前置きをしなかった。
「たぶん夕方にはネットにも」
少しだけ沈黙が落ちる。編集者という仕事は、沈黙の長さで感情が分かる。長い沈黙は、だいたい面倒なときだ。
「で、どうなんですか」
「何が」
「いや、その子」
言い淀む。編集者というより、古い友人の声だった。
「本当にただ会っただけですか」
少し考える。
「会っただけです」
「……なら、まあ」
納得したのか、していないのか分からない返事だった。
「最近、こういうの面倒ですからね」
「最近じゃなくても面倒ですよ」
「違いますよ。昔は“文豪だから”で許されたんです」
少し笑う。
「今は、“キモい”で終わる」
それは、たしかにそうだった。
電話を切る。
まだ記事は出ていなかった。
それが逆に落ち着かなかった。爆発は、起きる前が一番静かだ。
部屋にいるのが嫌になって、一階のコンビニへ降りる。冷蔵ケースから缶コーヒーを取る。レジの店員は若い男だった。僕に気づいたのか、気づかなかったのか分からない顔で「レジ袋に入れますか」とだけ聞く。たぶん、世界の大半はそういうものだ。
誰かのスキャンダルより、レジ袋の有無の方が重要な時間が、ほとんどを占めている。
エレベーターで、外国人の夫婦と一緒になる。女の子が、床に座り込んでタブレットを見ていた。甲高いゲーム音が漏れている。
普通の昼下がりだった。
なのに、自分だけが少しずつ別の場所へ押し出されている感じがした。
夕方にはネット記事が出た。 見出しは簡潔だった。
【人気小説家・榊悠人 女子高生と“親密密会”】
予想より、少しだけ安かった。もっと扇情的なものを想像していた。あるいは、それすら古いのかもしれない。今は、大袈裟な言葉より、断定しきらない方が伸びる。読んだ人間が、自分で続きを想像できるからだ。
記事を開く。写真が載っている。彼女が本を差し出しているところだった。切り取られた角度のせいで、距離が近く見える。実際、近かったのかもしれない。
写真とは不思議なものだ。現実を写しているのに、現実より強い。「そんなつもりじゃなかった」は、写真の前ではだいたい負ける。
記事本文は薄かった。女子高生。密会。人気作家。ホテル。それらしい単語が、接着剤みたいに並べられている。長時間、というほど話していない。密会というほど隠れてもいない。でも、否定するほどでもない。その曖昧さが、一番厄介だった。
SNSからの通知が増えていく。見覚えのない名前と、見覚えのない言葉。どちらも同じ速度で流れてくる。
>作品好きだったのに残念
>女子高生はキツい
>文化人ってこういうの多いよな
>創作のためなら何でも許されると思ってそう
最後の一文で、少しだけ笑ってしまった。間違っているとも言い切れなかった。
指が止まらなかった。閉じれば済む。でも、閉じる前に次を見てしまう。
>取材とか言って近づくタイプ、一番タチ悪い
その一文だけ、妙に残った。
完全には否定できない。
少なくとも、“書けそう”と思ったのは事実だった。
タイムラインを眺める。そこに並んでいるのは、ほとんど物語だった。女子高生を食い物にする大人の作家。承認欲求に溺れた文壇人。少女をホテルに呼ぶ危険人物。どれも、それらしく成立している。成立している以上、現実として流通する。
たぶん、小説と同じだ。設定に矛盾が少なければ、人は信じる。本当かどうかは、そのあとだ。
記事を閉じる。静かだった。ホテルの部屋は、相変わらず静かだった。なのに、画面の向こうだけが騒がしい。そのズレが、少しだけ気持ち悪い。
ふと、彼女のアカウントを開く。最新投稿には、もう大量のコメントが付いている。
>助けてあげてください
>これ絶対DVだろ
>大人に利用されてる
>榊悠人最低
彼女は何も書いていない。なのに、周囲が勝手に物語を完成させていく。その速度に、少し寒気がした。
スクロールする。例の画像が目に入る。荒れた部屋。倒れたテレビ。散乱した錠剤。#犯人は猫でした。
もう一度見ると、前とは違う意味に見えた。最初は、不穏だった。次は、DVに見えた。今は、何かの“証拠写真”みたいに見える。
見る側の文脈で、画像の意味が変わっている。
いや。
変わっているのは、意味だけじゃない。画像の居場所そのものが、少しずつ別のものになっている。それが、妙に引っかかった。
指が止まる。検索窓を開く。少し考えてから入力する。
#DV被害者
検索。
似たような投稿が並ぶ。泣き顔。痣。壊れた部屋。そして。
同じ画像があった。
まったく同じだった。倒れたテレビ。散乱した錠剤。床の染み。違うのは、タグだけ。
#犯人は猫でしたではなく、#DV被害者になっていた。
少しだけ、息が止まる。投稿者は別人だった。年齢も、プロフィールも、アイコンも違う。でも画像は同じだった。
スマートフォンを持つ手に、少しだけ力が入る。誰かが使い回している。でも、なぜ。何のために。
そこまで考えて、ふと気づく。自分も、最初に意味を貼っていた。血に見える。DVかもしれない。猫じゃない。
勝手にそう読んでいた。
画面の中の部屋は、何も説明していない。
意味を与えていたのは、ずっとこちら側だった。
しばらくして、彼女のアカウントには鍵が掛かった。プロフィールの外側に、小さな鍵のマークが付いている。
タイムラインでは、
>逃げた
>答え合わせじゃん
みたいな言葉が増えていた。でも、僕にはまだ投稿が見えていた。DMのために互いにフォローしたままだった。
閉じられた部屋の中を、僕だけが覗いている
。そんな感じがした。
鍵が掛かったあと、彼女の投稿は減った。その代わり、ときどき短いものだけが上がるようになった。
空の写真。
コンビニの床。
暗い部屋の天井。そして。
>眠れない
たったそれだけの投稿。数分後には消えていた。
スクリーンショットを撮る。撮ったあとで、自分が何をしているのか少し分からなくなった。
これはSOSなのか。ただの独り言なのか。
あるいは。
僕が勝手に、そう読みたがっているだけなのか。
