#犯人は猫でした 第三話 検索
スクリーンショットを撮ったあと、しばらく画面を見ていた。
眠れない。
ただそれだけの言葉だった。
彼女の投稿は数分で消えた。けれど、消えたあとも、画面の奥にまだ残っている感じがした。投稿そのものではない。そこに僕が勝手に貼りつけた配役の方が、居座り続けている。
ホテルの部屋は静かだった。冷蔵庫の低い駆動音が、ときどき思い出したように鳴る。窓の外では、遠くの赤い航空障害灯が規則正しく点滅していた。あの光は、誰のために光っているのだろう。飛行機のためなのだろうが、地上にいる人間が見ても、なぜか少し不安になる。
ノートパソコンは閉じたままだった。
開けば、書ける気がした。
それが、まだ嫌だった。
スマートフォンを握ったまま、ベッドの端に腰を下ろす。シーツは妙に白い。ホテルの白は、どこか信用できない。汚れを隠しているのではなく、汚れがなかったことにしている白だ。
もう一度、彼女のアカウントを開く。
鍵は掛かったままだった。
でも、僕にはまだ見える。
DMのために互いをフォローしたままだった。閉じられた部屋の中を、僕だけが覗いている。その感覚は、時間が経っても薄れなかった。むしろ、こちら側の後ろめたさだけが少し濃くなっている。
投稿を遡る。
空の写真。コンビニの床。カフェの照明。駅のホーム。短い言葉。意味がありそうで、意味がない。あるいは、意味がないからこそ、こちらが勝手に因果を探してしまう。
指が止まる。
例の画像だった。
荒れた部屋。倒れたテレビ。外れたカーテン。散らばった錠剤。床の染み。
>#犯人は猫でした
最初に見たときよりも、画像は少し暗く見えた。
もちろん、そんなはずはない。変わっているのは画像ではなく、こちらの方だ。僕の中にある文脈が変わるたびに、同じ画像が違う顔をする。
画像を長押しする。 保存するか、共有するか、検索するか。
小さな選択肢が並ぶ。
画像検索。
押す。
数秒の読み込みがあった。画面が白くなる。 そして、似た画像の一覧が表示される。
最初の数件で、もう気づいた。
同じだった。
まったく同じ画像だった。
倒れたテレビも、散らばった錠剤も、床の染みも、カーテンの外れ方も、すべて同じ。
違うのは、添えられている言葉だけだった。
>#彼氏と喧嘩した
>#OD失敗
>#人生終了
>#友人宅
>#メンヘラの日常
>#地獄の年末
>#犯人は猫でした
少しだけ笑った。
笑ったあとで、すぐにやめた。
不気味だった。
画像が不気味なのではない。そこに集まってくる、人間の読みたがる気配の方だった。同じ画像に、まるで別の人生が貼りつけられている。
DV。
猫。
OD。
失恋。
酔っ払い。
友人宅。
どれも成立している。
成立している以上、たぶん全部“本当”なのだ。少なくとも、それを見た誰かの中では。
スクロールする。
また同じ画像。
>#地獄すぎる
次。
>#親にバレた
次。
>#もう限界
床の染みだけを拡大して投稿しているアカウントもあった。画質は荒くなっている。荒くなった分だけ、かえって血に見えた。
コメント欄では、勝手に推理が始まっている。
>血じゃない?
>警察呼んだ方がいい
>赤ワインでしょ
>いや薬あるじゃん
>これ前にも見た
誰も、本当のことを知らない。
でも、みんな説明したがっている。
それは少し、小説に似ていた。
人間は、輪郭のないものをそのままにしておけない。だから、空白を見ると埋める。勝手に埋める。埋めたあとで、それを現実だと信じ込む。
僕もそうしている。
たぶん、ずっとそうしてきた。
スマートフォンの光だけが、部屋の中で浮いている。
窓の外は暗い。遠くのビルの赤いランプだけが、規則正しく点滅していた。あの光は意味を主張しない。ただ光っている。だから、こちらが勝手に不安になる。
指が止まらなかった。
閉じれば済む。
でも、閉じる前に次を見てしまう。
炎上コメントを読んでいたときと似ていた。見たいわけではない。なのに見てしまう。物語が固定される瞬間を、人間は妙に見たがる。
SNSは、たぶんそのためにある。
誰かが置いたものに、別の誰かが名前をつける。
名前がつくと、人は安心して近づく。怒っていいのか、笑っていいのか、心配していいのか、先に決めてもらえるからだ。
僕も、その列に並んでいた。
血に見える。
DVかもしれない。
猫じゃない。
そうやって、まだ何も知らない部屋の前で、勝手に靴を脱いでいた。
同じ画像が、違うタグをまとって、違う場所で、違う人間の不幸みたいな顔をしている。
それは嘘なのか。
それとも、そう見えた時点で、もう半分は本当なのか。
画面を閉じる。
静かだった。
ホテルの部屋は、相変わらず静かだった。
なのに頭の中だけが、少し騒がしい。
テーブルの上の缶コーヒーを飲む。ぬるくなっていた。苦味だけが残っている。コーヒーは冷えると、言い訳みたいな味になる。
そのとき、通知が震えた。
彼女からだった。
>なんかすいません
短い文だった。
しばらく見つめる。
何に対する「すいません」なのか、少し分からなかった。
炎上。記事。画像。それとも、僕が勝手に心配したことに対してなのか。
>例の画像、検索しました
送る。
既読はすぐについた。
>あー笑
>いろんな人が使ってますよね
>あれ、ネットミームみたいになってる画像なんです
ネットミーム。
その単語で、急に世界が軽くなる。
呪いの画像ではなくなる。DVの痕跡でもなくなる。ODの記録でもなくなる。事件でもなくなる。ただの“ネタ画像”になる。
言葉を変えると、現実が変わる。
また、それだった。
>拾い画ですか
>そうです笑
>私もどっかで見つけて使っただけです
拍子抜けに近かった。
もちろん、その可能性は最初からあった。むしろ、いまのSNSならそっちの方が自然だ。
誰かが使った画像を、別の誰かが真似して使う。元の意味など知らないまま、使いやすい形だけが残る。泣き顔の猫、燃える家、絶望するアニメキャラ、失敗した料理。そういうものの延長線上に、あの部屋もあった。
ただ、部屋が少し汚く、少し血に見えて、少し現実に近かっただけだ。
なのに。
なぜか少し、落胆している自分がいた。
事件であってほしかったのか。
彼女が助けを求めていてほしかったのか。
そう考えて、自分に嫌気が差す。
>DVとかじゃないんですね
送ってから、少しだけ後悔する。
重い。
いきなり重い。
数秒して、
>違いますよ笑
>なんか、みんな勝手に深読みしてて怖かったです
その文章を見て、少し黙る。
勝手に深読み。
たぶん、その中には僕も入っている。
>でも、先生も最初ちょっと疑ってませんでした?
図星だった。
しばらく返信できない。
>まあ、少し
>やっぱり笑
それだけ返ってくる。
責めている感じはない。むしろ、少し面白がっている。
世代の差なのかもしれない、と思う。
僕にとって画像は、過去の痕跡だった。
でも、彼女にとっては、今を弄ぶ素材なのかもしれない。
意味を背負うものではなく、意味を貼るための板。
だから、タグを変える。
文脈を変える。
感情を乗せ換える。
同じ画像で、違う人生を演じる。
それは少しだけ不気味で、少しだけ羨ましかった。
>炎上、大丈夫ですか
>ぜんぜんです
>ちょっと面白いです
そう来て、少し笑ってしまう。
強いのか、鈍いのか分からない。でも、少なくとも壊れてはいなさそうだった。
それで、説明はつく。
たぶん、全部。
画像はネットミーム。DVではない。女子高生は普通のSNSユーザー。週刊誌は騒ぎを大きくしただけ。
どこにも事件なんてない。
ただ、事件のように読めるものがあっただけだ。
それで終わりにしてもよかった。
むしろ、終わりにするべきだった。
でも、説明がついたあとも、あの部屋だけが頭に残っていた。
倒れたテレビ。
散らばった錠剤。
床の染み。
あれは本当に、“ただの画像”なんだろうか。
いや、ただの画像だとしても。
なぜ、あの画像なのか。
なぜ、あれほど意味を貼りやすいのか。
なぜ、あれほど別々の物語に収まるのか。
何も起きていないように見えるからなのか。
それとも、何かが起きた後のように見えるからなのか。
ふと、画像検索の結果に戻る。
並んだ投稿の中で、日付を確認する。
新しいものが多い。
昨日。三日前。一週間前。二ヶ月前。どれも誰かがどこかから拾ってきて、勝手に別の意味をつけたものだった。
もっと古いものを探す。
検索結果は、下へ行くほど雑になる。画質が悪くなり、文脈が薄くなり、リンク切れも増える。すでに消えた投稿の痕跡だけが残っているものもあった。
消えたものの影を辿っている感じがした。
それは少し、小説を書くことに似ている。
実在したかどうか分からないものに、形を与えていく。都合よく並べ替え、意味のあるように見せる。
やがて、一つの古い投稿に行き着いた。
投稿日は、二年前だった。
画像は同じ。
倒れたテレビ。外れたカーテン。散らばった錠剤。床の染み。
けれど、タグは付いていない。 文章も短かった。
>友人宅
それだけだった。
いいねの数も少ない。コメントもほとんどない。
誰も大騒ぎしていない。
ただ、そこに部屋があった。
誰かの友人の部屋として。
それが、何よりも恐ろしかった。
