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#犯人は猫でした 第四話 出典

>友人宅

 それだけだった。

 いいねの数も少ない。コメントもほとんどない。誰も大騒ぎしていない。ただ、そこに部屋があった。

 誰かの友人の部屋として。
 それが、何よりも恐ろしかった。

 事件でも、告発でも、冗談でもない。猫でも、DVでも、ODでも、人生終了でもない。ただの友人宅。その言葉の平らさが、逆にこちらの足元を薄くした。

 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 ホテルの部屋は、まだ静かだった。窓の外の航空障害灯が、規則正しく点滅している。さっきまで不安に見えていた光が、今はただの設備に見えた。意味というのは、便利なようで、すぐに裏切る。

 投稿者のプロフィールを開く。

 アイコンは風景写真だった。山でも海でもない。どこかの団地の階段から撮ったような、曇った空と手すり。名前は本名ではなさそうだった。投稿数は多くない。最後の投稿は、二年前で止まっている。

 最初は、ただの個人アカウントに見えた。

 食べたラーメン。古い軽バンの写真。ホームセンターで買った工具。使いかけの軍手。

 そういうものが、間隔を空けて並んでいる。

 派手さはない。誰かに見せるためというより、あとで自分が思い出すために残したような投稿だった。人に読ませるというより、時間に貼りつけておくための写真。

 スクロールする。
 同じ部屋の写真が、もう一枚あった。
 荒れた部屋ではない。片付いた部屋だった。

 テレビは壁際に置かれ、カーテンはレールに戻っている。床には何も落ちていない。あの濃い染みも、ほとんど消えていた。完全に消えたわけではない。光の角度によっては、うっすらと跡が見える。

 文章は短い。

>なんとか終わり。腰やった。

 それだけだった。
 少しだけ拍子抜けした。
 ビフォーとアフター。それだけのことだった。

 あの画像は、事件の前触れではなく、片付ける前の写真だった。暴力の痕跡でも、猫の暴走でも、誰かの救難信号でもない。少なくとも、この投稿者にとっては、ただの作業記録だった。

 コメント欄を見る。

>すごい
>これ友人宅?
>猫でも飼ってんの?
>薬散らばってるの怖い
>赤いの何?

 投稿者は一つだけ返信していた。

>ワインだと思う。知らんけど。

 知らんけど。

 その軽さで、血のように見えていたものが、急にただの液体になる。人間の認識は、本当に節操がない。

 もう一度、ビフォー画像を見る。

 倒れたテレビ。外れたカーテン。散らばった錠剤。床の染み。

 同じ画像だった。

 でも、隣にアフター画像があるだけで、すべてが反転する。

 散乱は、事件ではなく作業前になる。床の染みは、血ではなく汚れになる。錠剤は、死の気配ではなく生活の残骸になる。テレビは、暴力ではなく転倒になる。

 つまり、あの画像に足りなかったのは、真相ではなかった。

 隣の一枚だった。

 アフターが消えたせいで、ビフォーだけが世界を歩き始めた。
 そのことに気づいたとき、少しだけ寒気がした。

 画像検索の結果へ戻る。

 無数の投稿に使われていたのは、すべてビフォー画像だけだった。アフター画像は、ほとんど出てこない。誰も片付いた部屋を使わない。綺麗になった床は、拡散しない。整えられたカーテンは、物語にならない。

 人間は、片付いた部屋より、壊れた部屋を見たがる。

 それはたぶん、仕方のないことなのだろう。

 傷の方が、物語になる。

 治ったあとより、壊れた瞬間の方が、意味を貼りやすい。

 僕も同じだった。

 あの部屋が片付いた写真を最初に見ていたら、彼女にメッセージを送っただろうか。

 送らなかった。
 たぶん、絶対に送らなかった。

 僕が反応したのは、危険に見えるものだった。壊れているように見えるものだった。誰かが助けを求めているように見えるものだった。

いや。

 もっと正確に言えば、書けそうに見えるものだった。その言い方だけが、たぶん一番正しい。

 投稿者の過去をさらに遡る。

 軽バンの写真が何度か出てくる。荷台には段ボール、古い布団、壊れた椅子、ビニール袋が積まれている。文章はいつも短い。

>今日は三階。階段しんどい。
>冷蔵庫重すぎ。
>見積もりだけで終わり。
>人の暮らしは重い。

 その一文で、少しだけ指が止まった。

 人の暮らしは重い。

 投稿者は、たぶん片付け屋だった。大きな会社ではない。個人でやっているように見える。プロフィール欄にも、小さくそれらしいことが書いてある。

 片付け手伝い。不要品回収。引っ越し前後。相談可。

 特殊清掃とは書いていない。
 それが、逆に現実的だった。

 世の中には、事件になるほどではない汚れがたくさんある。警察も来ない。ニュースにもならない。家族も語らない。ただ、部屋だけが壊れていく。暮らしの方が先にほどけて、本人はまだそこにいる。

 そのほどけた場所に、誰かが軽バンでやってくる。

 軍手をして、袋に詰めて、運び出す。

 あの写真は、その途中に撮られたものだった。

 たぶん。
 そう考えると、ひとまず形は整う。

 倒れたテレビ。散らばった錠剤。床の染み。全部、生活の残骸だ。事件ではない。ただの生活だ。

 それが、いちばん厄介だった。
 人間は、事件なら理解できる。

 誰かが殴った。誰かが壊した。誰かが血を流した。そういう話なら、犯人を置ける。原因を置ける。怒る場所を決められる。

 でも、生活が少しずつ崩れた結果、ああなったのだとしたら。

 そこには犯人がいない。猫すらいない。

 誰かを責めるには薄く、誰かを救うには遠い。
 だから、タグが必要になる。

>#DV被害者
>#OD失敗
>#人生終了
>#犯人は猫でした

 タグが付くと、部屋は急に扱いやすくなる。

#DV被害者
 そう書けば、誰かを怒ればいい。

#OD失敗
 そう書けば、誰かを心配すればいい。

#人生終了
 そう書けば、笑っていいのか、泣いていいのか、少し迷える。

#犯人は猫でした
 そう書けば、ひとまず軽く済ませられる。

 名前がないものの前で、人は長く立っていられない。

 だから、貼る。
 自分が見ても大丈夫な名前を。

 僕も、貼った。タグが付けば、人は安心して近づける。これは何の話なのか、どの顔で見ればいいのか、あらかじめ教えてもらえるからだ。

 あの写真は、タグを欲しがる写真だった。
 いや、写真が欲しがっていたわけではない。
 人間が欲しがっていた。

 僕が欲しがっていた。

 彼女にメッセージを送る。
>元の投稿っぽいのを見つけました

 しばらくして、既読がついた。
>え、なんでした?
>片付け屋さんのビフォー画像みたいです
>あー
>なんか普通ですね

 普通。そう、普通だった。
 たぶん、普通だから怖いのだ。

>そうですね
>でも、普通の方が伸びないですよね
>だからみんなタグつけるんじゃないですか

 僕はその文章をしばらく見ていた。

 正しい。かなり正しい。正しすぎて、少し腹が立つ。

 彼女は別に、哲学を語っているわけではない。ただ、SNSの空気をそのまま言葉にしているだけだ。若い人間の言葉が鋭いのは、考え抜いているからではなく、その場所に長く住んでいるからなのかもしれない。

 魚が水を説明しないように、彼女はSNSを説明しない。

 ただ、泳いでいる。

>先生、これ小説にするんですか

 次のメッセージが来た。少しだけ、指が止まる。

>分かりません

 嘘だった。たぶん、もう書き始めている。少なくとも、頭の中では。

>した方がいいと思います
>なんで?
>だって、先生っぽいです

 その言葉が、少しだけ嫌だった。
 先生っぽい。

 彼女は褒めているつもりなのだろう。けれど、その言葉の中に、僕の逃げ道まで用意されている気がした。

 現実を少し離れて、意味を並べ替える。誰かの部屋を、誰かの投稿を、誰かの炎上を、自分の文体に入れる。

 先生っぽい。

 それはたぶん、正しい。正しいことは、だいたい人を傷つける。

 投稿者のアカウントに戻る。
 最後の投稿を見る。

 二年前。
 軽バンの後ろ姿だった。

 夕方の駐車場で、荷台の扉が半分開いている。中には何も積まれていない。空っぽの荷台は、なぜか満載のときより疲れて見えた。

 文章は一行。

>しばらく休みます。

 それきり、更新は止まっている。
 理由は分からない。

 腰をやったのかもしれない。仕事を辞めたのかもしれない。別のアカウントへ移ったのかもしれない。あるいは、ただSNSに飽きただけかもしれない。

 どれでも成立する。成立するから、何も選べない。

 僕は画面を拡大する。

 軽バンのバックドアに、薄く何かが反射している。人影のようにも見える。建物の影のようにも見える。もちろん、ただの影だ。そう思うべきだった。

 でも、一度意味を探し始めると、影まで言葉を持ち始める。

 僕はスマートフォンを伏せた。
 出典は見つかった。

 あの画像は、片付け屋のビフォー写真だった。ネットミームになった理由も分かる。壊れた部屋は、意味を乗せやすい。アフター画像は捨てられ、ビフォーだけが残った。そこにタグが貼られ、別の物語が生まれた。猫になり、DVになり、ODになり、人生終了になった。

 すべてに、いちおう筋が通る。

 なのに、説明されたことで消えるはずの気味悪さだけが、まだ残っている。
 たぶん、真相というものは、思っているほど人を安心させない。

 真相は、ただ場所を変えるだけだ。
 血だと思っていたものがワインになる。
 事件だと思っていたものが生活になる。
 告発だと思っていたものがネタになる。
 不倫だと思われたものが、取材になる。

 言葉を変えれば、現実は変わる。

 でも、変わったあとに残るものがある。
 それが何なのか、僕にはまだ分からなかった。

 ノートパソコンを開く。
 画面は白い。

 カーソルが点滅している。今度は、急かしているように見えた。

 タイトルだけを打つ。

>#犯人は猫でした

 それから、しばらく手が止まった。
 猫は、たぶん何もしていない。

 それでも、猫のせいにしておけば、話は始められる。


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