読む女 第六話 今度のない夜
里佳子が入店してからの九ヶ月、私は彼女を特等席から観察し続けてきた。
最初の三ヶ月、彼女はほとんど喋らなかった。呼ばれても、グラスに触れる手がわずかに遅れる。相手の言葉が終わるまで待ちすぎて、間が空く。笑うタイミングも、ほんの半拍だけずれていた。
けれど、そのズレが逆に、男の視線を引き留めていた。上手くやろうとしていない人間の呼吸は、整えられた空気の中では異物になる。
四ヶ月目、彼女はようやく「間」を覚えた。私たちがやっていることの意味を、言葉ではなく身体で理解し始めた。
それでも、どこか決定的に違うものが残っていた。
彼女は、読まない。
読む前に、踏み込む。
その危うさが、客を惹きつけていた。
一月に入店した当初、週に二日だけ、借りてきた猫のように待機席の隅にいた彼女。その彼女が「エース」として繋ぎ止めた福山という男について、私は当初から、里佳子とは全く別の「読み」を持っていた。
ITベンチャーの旗手。メディアではもてはやされ、店でも平静を装ってシャンパンを開ける。
けれど、私の観察眼は彼の振る舞いの端々に、制御不能な「焦り」を見て取っていた。
彼の動きには、根がなかった。
金の使い方が軽い。
軽いのに、執着だけが重い。
資産の裏付けがある男は、金を使うときに迷わない。福山は違った。
グラスを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
注文を出す前に、わずかに呼吸が乱れる。
決断ではなく、加速だ。
止まったら終わるものを、無理やり回し続けている動きだった。
ある夜、彼はグラスを置いたあと、ほんの一瞬だけ言葉を失った。普通なら、その沈黙を拾う。軽く笑って、空気を逃がす。けれど里佳子は、何もしなかった。
ただ見ていた。
その視線に押されるように、福山のほうが先に口を開く。
踏み込ませたのは、彼女だった。
私はそのとき、はっきりと理解した。
この子は、読む前に壊す。だからこそ、強い。そして危うい。
十月のあの朝、ニュースサイトで見つけた一行に、驚きはなかった。
『ITベンチャー企業代表の福山容疑者を詐欺容疑で逮捕』
「やっぱりね」と冷めた独白が漏れる。
けれど、その後に判明した事実は、私の冷徹な予測を遥かに上回っていた。
里佳子が積み上げていた福山の売掛は、積もり積もって二千万円を超えていたのだ。
その日から、店の空気が変わった。誰も口には出さない。けれど、全員が同じことを計算している。
二千万。
その数字が、フロアのどこにいても、微かに響いている。ボーイがグラスを置く手つきが、少しだけ丁寧になる。ママの笑顔が、ほんの少しだけ長く続く。他のホステスたちの視線が、里佳子の背中に一瞬だけ止まって、すぐに逸らされる。
助けるでもなく、見捨てるでもない。ただ、距離を測っている。
銀座は、優しい場所ではない。けれど、冷たい場所とも少し違う。
誰かが沈むとき、その深さを、全員が静かに見ている。
「一ヶ月で、なんとかします」
ママの前でそう宣言した里佳子の横顔を、私は信じられない思いで見つめた。
彼女は貯金の一千万を吐き出し、ブランド品を叩き売って三百万を工面した。残る借金は七百万円。
里佳子の歩合は、売上の約四割だ。逆算すれば、彼女がこの一ヶ月で稼ぎ出さなければならない数字は、一千八百万円。
銀座は土日が休みだ。残された営業日は、およそ二十日。
一日あたり、九十万円。
このくらいの数字を叩き出すホステスは、いる。けれど、銀座に来て一年も経たない新人がやる数字ではなかった。
そこからの里佳子は、別の生き物になった。
スマホが鳴り続ける。画面には、同じ名前が並ぶ。
未読、既読、返信、未読、既読。
「今夜だけでいいから来て」
「お願い、助けて」
「私、待ってるから」
そんな言葉を、彼女は迷いなく送るようになっていた。そこには、もう「今度」はなかった。あるのは、この瞬間だけ。未来は全部、切り捨てられていた。
私はふと、自分の手を見た。
私は未来を売る。
この子は、今を売る。
どっちが正しいのかは、まだ分からなかった。
ある夜、私は彼女の席にヘルプで入った。テーブルの上には、開けかけのボトルが三本。グラスの水位が揃っていない。
里佳子は笑っていた。
けれど、その笑いは、誰にも向いていなかった。私は氷を足し、グラスを整え、場の温度を均す。
いつもの仕事。
いつもの「読み」。
けれど、その横で里佳子は、客の腕に指を絡めていた。
「ねえ、もう一本だけ開けて」
甘える声。
でも、甘さの中に逃げ道がない。
客が一瞬だけ迷う。
その迷いを、彼女は押し切る。
読むのではなく、押す。
空気を整えるのではなく、ねじ曲げる。
それでも、ボトルは開いた。
私はグラスを持ちながら、少しだけ遅れて笑う。
整える役と、削る役。同じ席で、真逆の仕事をしていた。
バックヤードで、彼女は電卓を叩いていた。数字を打ち込むたびに、肩がわずかに上下する。
呼吸が浅い。
私はロッカーから、小さなパックを取り出した。
「これ、食べなさい」
机の上に置く。
「……なんですか」
「梅干し。あんた、今、自分が何食べてるかも分かってないでしょ」
彼女はしばらくそれを見ていた。それから、無言で口に入れる。強い酸味に、顔が歪む。その瞬間だけ、彼女は“戻った”。
ただの二十三歳の女の顔に。
十一月末。
締め日の夜、レジから吐き出された数字は一千八百五万円。
彼女は、地獄を走り抜けたのだ。
営業終了後、客のいなくなったフロアで、里佳子はソファに深く沈み込んでいた。私はグラスを二つ持ち、彼女の隣に腰を下ろした。
「お疲れ。……無理だったら、あたし、あんたの代わりにママに頭下げようと思ってた。本当に、バカな子」
里佳子は力なく、けれど晴れやかに笑った。
「真璃さん、私、二十三歳なんです。まだ、バカになれる時間が残ってたみたいです」
その言葉に、私は自分の指先を見つめた。ネイルもせず、整えられた白い指。
「……あんたはいいわね」
少しだけ笑う。
「私、三十ってことにしてるけど、本当は三十四なの。この四年の差を埋めるために、必死に自分を整えてきたの。読み間違えないように、傷つかないように」
言葉を切る。彼女の一千八百万が、まだ空気に残っている。
「……あんたのその数字、私の十年より、ずっと重いわ」
里佳子は何も言わず、グラスを飲み干した。その透明な喉越しだけが、彼女の熱を冷ましているようだった。
その直後だった。スマホが震えた。
表示された速報の文字を、私は二度見た。
『文壇の寵児・榊悠人(31)、18歳女子高生と深夜の密会』
同じ画面を、もう一度見る。
――読めていたはずだった。そう思っていた。
けれど、その一行は、あまりにも簡単に、私の「読み」を裏切っていた。
