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読む女 第五話 今度、という永遠

  銀座の夜において、「今晩どう?」という言葉は挨拶のようなものだ。

  タクシーを待つ数分間。アフターの店へ向かうエレベーターの中。

  男たちは、半分は本気で、半分は「断られることも含めた様式美」として、その言葉を投げてくる。
  それに対する私の返答は、十年前から変わらない。

「今度ね」

  たった四文字。

  けれど、これほど便利な言葉を、私は他に知らない。

  冗談っぽく笑いながら言えば、その場の空気を壊さずに「おあずけ」を食らわせることができる。

  声を少し落とし、視線を絡めて言えば、その「今度」が特別な約束であるかのような錯覚を与えられる。

  相手の手をギュッと握り、体温を伝えてから放つ「今度ね」は、どんな甘い台詞よりも深く、男の独占欲を刺激する。

  決定的な拒絶はしない。肯定もしない。 ただ、「今度」という未来を差し出す。

  それは、決して来ない未来だ。

  エレベーターの中で、私はいつものようにその言葉を使った。
  七階から一階へ降りる、わずかな時間。

「今度ね」

  そう言ったとき、彼は一瞬だけ笑って、それから黙った。
  数字の表示がゆっくりと減っていくあいだ、彼の指が、探るように私の手首に触れる。

「約束だからね」

  ドアが開く直前、彼はそう言った。
  私は笑って頷いた。
  約束なんて、していないのに。

  それでも、その男は次の週も、その次の週も、店に来た。

「今度」を待つために。


  別の日、アフターの店でも同じことがあった。

「今日はこのまま帰したくないな」

  少し酔った声。グラスの縁を指でなぞりながら、私は一拍だけ間を置く。

「今度ね」

「その“今度”って、いつ来るの?」

「来たら、教える」

  彼は笑って頷いた。
  納得したわけではない。
  ただ、その場で納得するしかなかっただけだ。 
  それでも、次も来る。
  来ない未来に、男は自分から意味を与える。

  それでいい。

  それが、正しい。

――だったはずなのに。

  最近、その「今度」がひどく軽く感じる。軽いくせに、妙に手に残る。

  昔、一度だけ、そういう調整が効かない時間があった。

  三日だけ、一緒にいた男。

  島で出会って、何も決めずに過ごした。
  海に入って、ビールを飲んで、同じ部屋で寝て、朝になると、まだ隣にいる。

  それだけだった。

  あのときは、何も読まなかった。次に何が起きるかも、どこで終わるかも、どう振る舞えばいいかも、全部、考えなかった。

 だから、あれは成立した。

  三日後に終わると分かっていて、それでも、終わる前に全部やってしまうような時間だった。

  別れのとき、私は泣いた。

  理由はよく分からなかった。
  終わるからじゃない。
  終わると分かっているのに、ちゃんと成立してしまったことのほうが、少し怖かった。

  あれ以上のものは、そのあと一度もなかった。

――と思っている。

「今度ね」と言えば、だいたいのことは収まる。

  収まる代わりに、何も起きない。

  最近の若いヘルプたちは、この「今度」を待てない。彼女たちはすぐに答えを欲しがり、すぐに境界線を越えてしまう。

  読みが浅いのだ。

  若さは、持っているあいだだけ本物のように扱われる。少し減るだけで、周りの目つきが変わる。女のほうが先にそれに気づく。

  男は、たいてい最後まで気づかない。

  自分がまだ選ぶ側にいると思っている。でも店では、誰が選ばれているのか、すぐ分かる。選んでいる顔をした男ほど、だいたい選ばれていない。

 この前、新しく入った子が、誇らしげに手を差し出してきた。

「見てください、これ。三万かけたんです」

  指先には、宝石のようなストーンがいくつも散りばめられていた。光を反射して、小さく瞬いている。

「可愛いね」

  そう言いながら、私はグラスを受け取る。
  その指では、氷をつかめない。
  男は結局、清楚な白を好む。

  余白を好む。

  私はネイルをしない。短く切り揃えられ、丁寧に磨かれただけの地爪。
  それは、「私はあなたの色に染まる余白を残している」という、言葉にしない約束だ。

  例えば、男がグラスを置くタイミングを見る。
  話が終わる前に置く男は、結論を急ぐ。話し終えてから置く男は、余韻を求める。

  指先がグラスの縁に残る時間で、その夜の長さが分かる。

 だから私は、ほんの少しだけ遅れて笑う。そうすると、相手は続きを話す。

  それでいい。
  それが、仕事だ。

――けれど。

  そうやって完璧に整えてきた私の日常が、最近、ひどく息苦しい。

  体幹を鍛えるために始めたボルダリングジムで、私は一人、壁に取り付く。

 指先が、ホールドに引っかかる。
  次の一手は分かっている。
  右手を出せば届く。
  でも、体が上がらない。
  落ちるか、行くか。

  ここには、「今度」はない。

  指先の感覚と、筋肉の悲鳴だけが、嘘のない「今」を突きつけてくる。

  隣の壁で、若い男が軽々と登っていく。
  ルートを読んでいない。
  ただ、行ける方向に身体を出している。

  無駄が多い。けれど、止まらない。

  私は一手ごとに考える。
  どこに重心を置くか。
  どこで力を抜くか。
  正解を選び続けて、途中で止まる。

  あの男は、間違えながら登る。
  私は、間違えない代わりに、進めない。

  男とのセックスも、同じだ。

  分かってしまう。

  次に触られる場所も、言われる言葉も、男が自分に酔いはじめる瞬間も。

  ベッドの上で、男が私の顔を覗き込む。

「何考えてるの?」

「何も」

  そう答えながら、私は相手の呼吸を数えている。

  次にどこに触れればいいか。
  どのくらいの強さで応えればいいか。
  全部分かる。
  分かるから、外れない。
  外れないから、つまらない。

  私は、間違えたかった。

  予想と違うところに手が来てほしかった。
  言うはずのないことを言われたかった。
  けれど男たちは、だいたい同じ順番で近づいてくる。

  私はそれを読む。
  読んでしまう。
  読めてしまう自分が、少しずつ嫌になった。

  予測できない展開がない。

  驚きがない。

  あの三日間には、それがあった。

「今度」はなかった。だから、終わった。でも、終わったものの中にしか、残らないものもある。

  鏡の中の自分を見る。

  今日もきちんと手入れされた、三十四歳の顔がある。

  崩れてみたい。けれど、崩し方が分からない。
  どこを外せばいいのかも分からない。
  たぶん私は、壊れないように整えすぎた。

 ――いや。

 壊れないように整えたつもりで、ただ、壊れ方を知らないだけなのかもしれない。

  そんな私に訪れるのが、あの「やらかした後輩」の暴走であり、「やらかした元カレ」の劣化だった。

  この時の私はまだ、崩れるのはいつも他人の世界だと思っていた。

  自分の足元に、もう亀裂が入っていることにも気づかずに。



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