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500の顔を持つ私――私の中の五百羅漢

#500note祭り

こんにちは、きのころです。

突然ですが、五百羅漢ごひゃくらかんをご存じでしょうか?

五百羅漢とは、仏教における羅漢たちを表したものです。
羅漢とは、悟りに至った聖者のこと。

寺院などで、「五百羅漢」として、
五百体前後の羅漢像が並べられていることがあります。

興味深いのは、その羅漢たちが、決して同じ顔をしていないことです。

穏やかな顔。笑っている顔。
何かを考えているような顔。怒っているような顔。

ありがたい存在であるはずなのに、どこか親しみを感じる。

見る人は、その中に自分に似た顔を探したくなる。
誰かに似た顔を見つけたくなる。

実際、五百羅漢の中には、
自分に似た顔が必ず見つかるとも言われています。

一つとして同じではない顔の中に、
生きた人間の姿が重なって見えるのです。


ところで、私たちは、
自分のことを「ひとりの人間」だと思っています。

もちろん、それは間違いではありません。
というより、完全に正しいです。

名前は一つ。
身体も一つ。
履歴書に貼る証明写真も、基本的には一枚です。

けれど、内側まで一枚の写真で済むかというと、
そんなに単純ではありません。

まじめな自分がいます。
ふざけたい自分もいます。

学びたい自分がいます。
遊びたい自分もいます。

庭の野菜が大きくなって喜んでいる自分。
変な言葉遊びを思いついて盛り上がっている自分。

どれか一つが本物で、
その他は偽物ということはありません。

どれも同じ境内に鎮座しています。

それなのに私たちは、その中から一つだけを選んで、
「これが私です」と言わなければならない場面に、
たびたび出くわします。

職業は何ですか。
専門は何ですか。
何をしている人ですか。

この問いは、便利です。

自己紹介も、プロフィール欄も、名刺も、
何か一つわかりやすい言葉があると助かります。

でも、人間はひとつの肩書きだけでできているわけではありません。

私は会社員です。
私は親です。
私は専門家です。
私は初心者です。
私は読書好きです。
私はnoterです。

どれも間違いではありません。
でも、どれか一つだけでは足りない。

仕事をしているときの顔。
家族といるときの顔。
ひとりでいるときの顔。
学んでいるときの顔。
迷っているときの顔。

そのすべてが、同じ自分の中にあります。

少し矛盾しているように見えることもあります。

何かを極めたいのに、新しいことも始めたい。
人とつながりたいのに、ひとりの時間もほしい。
真面目な文章を書きたいのに、冗談も入れたい。
前向きに頑張りたいのに、今日は何もしたくない。

でも、それらは矛盾というより、顔の違いなのだと思います。

五百羅漢にたとえるなら、
一体の羅漢だけを「これが私」と決めるのではなく、
境内に並んだたくさんの羅漢たちを、
まとめて自分の内側の風景として引き受けるようなものです。

まじめな羅漢もいる。
怠けたい羅漢もいる。
知りたがりの羅漢もいる。
すぐ飽きる羅漢もいる。
でもまた戻ってくる羅漢もいる。

仕事の締切を気にする羅漢の隣で、
昼寝の場所を探している羅漢がいる。

堅実に家計を考える羅漢の横で、
「でもちょっと面白そうだからやってみたい」と言い出す羅漢がいる。

にぎやかです。

いや、かなりにぎやかです。

でも、それを「うるさい」と切り捨ててしまうと、
自分の中の大事なものまで黙らせてしまう気がします。


ここで一つ、勘違いしないようにしたいことがあります。

500の顔を持つとは、
500の顔を同時に使いこなすことではありません。

五百体の羅漢が一斉に前へ出てきたら、
それはもう境内ではなく会議です。

しかも、かなり収拾のつかない会議です。

人間も同じです。

いくつもの顔があるからといって、
全部を同時に前へ出さなければならないわけではありません。

仕事の顔も、家庭の顔も、学ぶ顔も、遊ぶ顔も、
悩む顔も、怠ける顔も、
いつも全員集合していたら、境内の掃除だけで日が暮れます。

大切なのは、全部を同時に前へ出すことではなく、
その時々で前に出る羅漢が違うことを受け入れることなのだと思います。

ある日は、仕事人の羅漢が前に出る。
ある日は、読書家の羅漢が前に出る。
ある日は、何もしたくない羅漢が、堂々と真ん中に座っている。

その日、前に出ていない羅漢も、消えたわけではありません。

ただ、少し後ろに座っているだけです。
出番が来るまで、お茶でも飲んでいるのかもしれません。

そう考えると、自分の気持ちが移り変わることを、
少し違う目で見られる気がします。

いつも同じ顔でいられないことは、
必ずしも不安定ということではありません。

場面によって違う顔が出てくることは、
必ずしも一貫性がないということでもありません。

それは、世界との接点が多いということでもあります。

とはいえ。

500の顔を持つ生き方は、良いことばかりではありません。

自分でも何をしたいのかわからなくなることがあります。
気持ちが多すぎて、時間が足りなくなることもあります。

境内が広すぎると、掃除も大変です。

でも、広い境内には、広い境内なりのよさがあります。

一つの顔にまとめきれないからこそ、
いろいろな人の気持ちが少しわかる。

いくつもの顔があるからこそ、
一つの出来事を一つの角度だけで見なくなる。


そして、五百羅漢について考えていて、
もう一つ面白いことに気がつきました。

羅漢は、悟りに至った聖者です。

普通に考えると、
悟るというのは、迷いが消えることのように思えます。

矛盾がなくなり、欲もなくなり、個性も丸くなって、
みんな同じような静かな顔になる。

そんなイメージがあります。

けれど、五百羅漢はそうではありません。

悟った聖者のはずなのに、みんな違う顔をしている。

笑っている羅漢も、怒っている羅漢も、眠そうな羅漢もいる。

つまり――
悟っても、顔は残るのです。

ここに、少し救われる気がします。

昔の私は、大人になれば、迷いがなくなる。
矛盾も消えて、顔も一つになる――

そんなふうに思っていました。

実際に、大人になった自分は、
迷いだらけ、矛盾だらけの存在です。

でも、五百羅漢は、
それを肯定してくれているように思うのです。

成熟するとは、一つの顔に整うことではないのだ、
と教えるかのように――

悟ったのに、顔は残っている。

ならば私たちも、いくつもの顔を抱えていてもいい。

500の顔を持つということ。

それは、ひとつの顔にまとまれない弱さではなく、
自分の中にたくさんの顔を置いておける広さなのだと思います。

どれか一体を追い出す必要はありません。

その全部を同じ境内に置いたまま、
その日その日の顔で生きていけばいい。

そして今日も、私の中の境内のどこかで、
読書家の羅漢が本を読み、
仕事人の羅漢が締切を気にし、
怠け者の羅漢が昼寝の場所を探し、
言葉遊びの羅漢が、また余計なことを思いついています。

(了)
 


路地裏の〇〇〇職人、たかっちさんの
「#500note祭り」に参加します。

私は、過去2回、お祭りに参加しました。

300note祭り

400note祭り

未読の方は、これらも合わせてお読みいただけると嬉しいです。
 


本日は以上です。
お読みいただきまして、ありがとうございました。

#500note祭り




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