「才」の先に「財」がある——創作の神様、弁才天【創作大賞】
創作に行き詰まったとき、私はわりと本気で神頼みをしたくなります。
書きたいことはあるのに、うまく言葉にならない日。
書き出しは思いつく。
題材も悪くない。
それなのに、文章が最後まで流れていかない。
そんなとき、「創作の神様」がいてくれたなら――
もちろん、神様が代わりに書いてくれるわけではありません。
けれど、書くための気持ちを整えてくれる神様なら、いるのかもしれない。
実は、私が個人的に「創作の神様」として崇めている女神がいます。
弁才天です。

弁才天は、日本で広く信仰されてきた女神のひとり(一柱)です。
言葉、学問、音楽、芸能。
――そして水。
多くの分野を司る存在として知られています。
もっとも、弁才天と聞いて、まず思い浮かべるのは「七福神」かもしれません。
七福神の一柱としての「弁財天」。
宝船に乗る福の神たちの中で、唯一の女神とされる存在。
琵琶を抱え、優雅に音を奏でる姿。
そして、金運、財運、商売繁盛の神様。
「弁財天」といえば、こちらのイメージの方が強い人も多いと思います。
銭洗い弁天のように、お金にまつわる信仰もあります。
水で銭を洗い、財を清め、福を願う。
そうした風景の中にいる弁財天は、たしかに「財」の神様です。
けれど、この女神を理解するうえで、知っておきたいことがあります。
それが、
「弁才天」と「弁財天」の違いです。
まず、「弁才天」は、インドの女神サラスヴァティーが起源とされます。

サラスヴァティーは、川の女神であり、言葉、学問、音楽、芸術を司る女神でした。
ここで大事なのは、
もともとの弁才天が「才」を司る女神だったということです。
・弁(ことば、弁舌)
・才(才能、表現力、知恵)
つまり「弁才天」は、
考えたことを言葉や音として表現する力――
考える力、書く力、話す力、奏でる力の神様。
その後、日本で信仰が広がる中で、
弁才天には福徳や財宝の神としての性格も重なっていきました。
その流れの中で広く用いられるようになった表記が、
「弁財天」です。
「財」とは、お金、豊かさ、繁栄です。
七福神の一柱としての弁財天は、
金運・商売繁盛のイメージが強くなりました。
「才」と「財」。
どちらが正しい、という話ではありません。
けれど、創作をしている私には、
このたった一字の違いが、とても大きく見えました。

弁才天の「才」が前で、
弁財天の「財」は後。
つまり、「才」の先に「財」がある。
これは、私が、弁才天という女神から受け取った、
ひとつの創作論としての読み方です。
そして、ここが、
創作をする人にとって、大事なポイントです。
表現する力が磨かれ、
それが人に届き、
結果として財が生まれる。
この順番なのです。
最初から、
「お金のための創作」を願うよりも、
・ことばを磨きたい
・表現を深めたい
・音や文章で何かを伝えたい
そんな願いの方が、
私には、弁才天らしく感じられます。
もちろん、創作でお金を得たいと思うことが悪いわけではありません。
書いたものが読まれ、
作品が誰かに届き、
それが収入につながる。
それは、とてもありがたいことです。
けれど、順番を間違えると、創作は少し苦しくなります。
財は、
才の「副産物」のようなもの。
才が流れた先に、財がある。
私は、そう解釈しています。

私にとって弁才天は、才能を授けてくれる神様ではありません。
才が流れ出す状態を整えてくれる神様です。
創作をしていると、つい、完成してから外に出そうとしてしまいます。
もっと整ってから。
もっと上手くなってから。
もっと自信が持てるようになってから。
そう考えているうちに、言葉は頭の中に溜まっていきます。
けれど、溜め込まれた言葉は、必ずしも熟成するとは限りません。
ときには、水のように濁ってしまうこともあります。
そんなとき、弁才天の「水」のイメージは、少し助けになります。
水は、最初から大きな川として流れるわけではありません。
ほんの小さな一滴から始まります。
創作も同じで、最初から立派な文章でなくてもいい。
まず一滴、外へ出してみる。
一文でも、断片でも、まだ形にならない思いつきでもいい。
外に出した言葉は、そこから流れを持ちはじめます。

明日の自分が続きを書くかもしれない。
誰かの言葉と響き合うかもしれない。
別の表現へ姿を変えるかもしれない。
そこから、流れが生まれることもあるのです。
弁才天が教えてくれるのは、
才能を抱え込んで完成を待つことではなく、
まず流れ出す状態をつくることなのだと思います。
そう考えると、銭洗い弁天の信仰も、少し違って見えてきます。
銭を水で洗う。
財を水にくぐらせる。
握りしめるのではなく、清め、巡らせる。
そこにも、弁才天らしい「流れ」の感覚があります。
財とは、ただ増やすものではなく、
流れの中で生まれ、巡っていくもの。
そして、その前にあるのが「才」の流れです。
創作をしていると、こんなことが起こります。
・言葉が出てこない
・手応えがない
・書いても書いても空回りする
そんなとき、
弁才天がくれるご利益は、
派手な成功ではありません。
始めること。
続けること。
試行錯誤すること。
過程そのものを助けてくれる存在です。

創作における才能とは、
完成した塊のようなものではなく、
むしろ、水のようなものです。
水の神様でもある弁才天を思うと、
才は、溜め込むものではなく、
流れの中でこそ活きるのだと感じます。
書けない日も、まとまらない日も、
まず一文を外へ出してみる。
すると、止まっていた水が、
ほんの少し動き出します。
水は、せき止めれば濁る。
少しずつでも流せば、また澄んでくる。
頭の中に溜め込んでいるだけでは、
どれほど良い考えも重くなっていく。
外に出して、
人に触れ、
流れの中で形を変えていく。
そこで初めて、才は活きるのだと思います。

ところで、弁才天は、白蛇と一緒に描かれることがよくあります。
白蛇というと、金運を呼ぶ存在として思い浮かべる人も多いでしょう。
たしかに、白蛇は弁財天の使いと言われています。
水辺に現れる神聖な存在として、財運と結びつけられてきました。
けれど、今回の「才の流れ」というテーマで見るなら、
私には、白蛇がただの金運の象徴ではなく、
水の流れのそばにいて、その流れを守る存在のようにも見えてきます。
そして、私が白蛇に見たいのは、
金運よりも、「脱皮」です。
古い皮を脱ぎ、
新しい姿になる。
これは、創作にもよく似ています。
一度書いた言葉にしがみつかず、書き直す。
前の表現を脱ぎ捨てる。
昨日の自分の言葉を超えて、次の言葉へ移っていく。
創作とは、ある意味で、脱皮の連続です。
最初から完成した才能があるわけではありません。
書いて、直して、捨てて、また書く。
そのたびに、少しずつ古い自分を脱いでいく。
そう考えると、白蛇は、
財を運ぶだけの存在ではなく、
「流れの中で変わり続けること」の象徴でもあります。
水が流れるように、才も流れる。
蛇が脱皮するように、表現も更新される。
その流れの先に、
いつか財と呼ばれるものが生まれるのです。

さらに、弁才天は、琵琶を奏でる姿がよく描かれます。
完璧な演奏をしている風ではなく、
自然に音を鳴らしている状態。
私には、そう見えます。
そして、創作とは、
きっとそういうものなのだと思います。
創作は、頭の中に置いておくだけでは音にならない。
鳴らしてみて初めて、響くかどうかがわかる。
才能は、
完成してから差し出すものではなく、
不完全なまま外に出して、
流れの中で育っていくもの。
そうして続けていると、
気づけば誰かの役に立ち、
「財」と呼ばれるものにも姿を変える。
私にとっての弁才天は、
その遠回りに見える道を、
創作に必要な順番として示してくれる神様です。
それだけでなく――
水のように、才を流す。
白蛇のように、古い表現を脱ぎ捨てる。
琵琶のように、まず鳴らしてみる。
そんな風に、創作の流れを取り戻させてくれる神様でもあるのです。

私は、今日も書きます。
うまくまとまらないまま、
まだ自信がないまま、
それでも、まず一文を外へ出してみる。
それは、大きな川ではありません。
ほんの小さな一滴です。
けれど、一滴がなければ始まらない流れもあります。
その一滴が、
明日の自分の続きを連れてくるかもしれない。
誰かの心に触れて、
思いがけない場所へ流れていくかもしれない。
だから、私は、創作に迷ったとき、
「才能をください」とは祈らないようにしたい。
代わりに、こう思うことにします。
今日も、少しだけ流してみよう。
空振りする日もある。
誰にも届かない日もある。
それでも私は、打席に立ち続けたい。
才能そのものではなく、
才が流れ出す状態を願って、
今日の一文を外へ出す。
そう思いながら、私は今日も書いています。

<了>
(3,495字)
本日は以上です。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
※今回のエッセイは、
以前書いた、こちらの記事をリライトしたものです。
元は約1,000字だったエッセイが、3倍以上の長さになりました。
今回のエッセイも、まさに「脱皮」そのものでした。
たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
ありがとうございました。
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