シン国語力――AIが書く時代に、私たちはどう読むのか【創作大賞】
AIが文章を書いてくれる時代になりました。
文章はAIに書いてもらえばいい。
わからないことはAIに聞けばいい。
本を読まなくても、要約してもらえばいい。
たしかに、そういう考え方もあるのかもしれません。
大昔の話ですが、私は国語が得意な学生でした。
文章を読んで、答えを探し出す。
それが楽しかったのです。
当時は、「国語力なんて、社会に出たら何の役にも立たない」と言われていたような気がします。
その後、世間、特に受験界隈において、少し「国語」の地位が向上し、「国語力がすべての土台である」と言われるようになりました。
そして、今。
AIの進化によって、また風向きが変わりつつあります。
風向きが変わったどころか、外に出るのが危険なレベルの暴風。
敵曰く、
「文章なんてAIに書かせればいい」。
「AIがあれば検索スキルも読書もいらない」。
……高まる一方の「国語力なんて何の役にも立たない」という圧力に、肩身が狭い思いをしている「国語好き」の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、私はむしろ逆だと思っています。
AIが文章を書く時代に、私たちに必要なのは、AIよりうまく書く力ではありません。
AIが出してきた言葉を読む。
人間の言葉を読む。
そして、それを自分の中で意味に変えていく力です。
AIが文章を書く時代だからこそ、私たちには「読む力」が必要になる。
文章を読む。
情報を読む。
相手の言葉の奥にあるものを読む。
そして、AIが出してきた、いかにも正しそうな文章を、
「本当にそうだろうか」と立ち止まって読む。
――「読む力」こそ、AI時代の国語力の本質。
ただし、ここで言いたいのは、「書く力はもう必要ない」ということではありません。
AIが文章を整えてくれる時代だからこそ、
「何を書くのか」
「なぜそれを書くのか」
「どんな背景や思いが、その言葉の奥にあるのか」
が、ますます大切になる。
文章のうまさだけではなく、そこにその人の経験や価値観がにじんでいるか。
その「にじみ」こそ、人間が書く文章の魅力なのではないか。
私は、今もそう思っています。
読むからこそ、他人の考えに触れられる。
読むからこそ、自分の中に言葉の地層ができる。
読むからこそ、やがて自分の言葉で書けるようになる。
つまり、「書く力」と「読む力」は別々のものではありません。
書く力の根っこには、読む力がある。
その意味で、AI時代の国語力は「読む力」から始まるのだと思います。
「国語力がすごい」という謎の評価
以前勤務していた会社の企画部門にいたときのことです。
その頃は、企画書を書いたり、経営会議に提出する書類を作ったり、とにかく、多くの文章を書きまくる日々でした。
そんなある日。
上司から、こんなことを言われました。
「きのころは国語力がすごいな!」
社会に出てから「国語力がすごい」と言われるとは思っていませんでした。
文章力ではなく、国語力。
その妙なほめ言葉が、なぜか格別に嬉しかったのを覚えています。
「そうだ、私は――
たしかに、国語が得意だった!」
業務に忙殺される日々の中で、特に思い出すこともなかった昔の記憶が、するすると蘇ってきたのです。
高校時代のことです。
私は現代文(現国)のテストで、107点を取ったことがありました。
200点満点ではありません。
100点満点のテストで、です。
当時の先生は、私に答案を渡しながらこう言いました。
「答案が素晴らしすぎて、加点したら満点を超えてしまった」――
……「そんなことある!?」と思ったものの、その先生は、その後も何かにつけて、私の文章をほめ、発想をほめ、表現をほめてくださいました。
それから、現国の偏差値は常に70を超え、私はクラスで「現国神」と呼ばれるようになりました。
大げさな呼び名です。
でも、その呼び名が、当時の私に大きな自信を与えてくれました。
その自信は、やがて他の教科にも、そして社会に出てからの仕事にもつながっていきました。
今でこそ、「どんな科目であっても国語の力が重要」ということは受験界の常識になっているようですが、私自身の実感として、それは正しいように思います。
現代文で鍛えられたのは、文章を読む力だけではありませんでした。
問いを読む力。
文脈をつかむ力。
答えを自分の言葉で組み立てる力。
それは、社会に出てから企画書や会議資料を書くときにも、たしかに役立っていました。
シン国語力とは何か
かつて「文章を書く力」は、語彙力、構成力、論理力などを含む、かなり強力な武器でした。
企画書を書く。
報告書をまとめる。
メールで相手に意図を伝える。
SNSで自分の考えを発信する。
仕事においても、生活においても、「書けること」は大きな力でした。
しかし、AIの登場によって、「書く」という行為のかなりの部分は、自動化できるようになりました。
報告書や企画書、メールの文案、SNSの投稿まで――
AIは、驚くほど速く、整った文章を作ります。
たしかに、AIが作った文章は読みやすい。
論理も通っている。
言葉遣いも破綻していない。
けれど、その読みやすさの裏側に、ふと空虚さを感じることがあります。
どんなに整っていても、「その文章を書いた人の顔が見えてこない」ことがあるのです。
人が文章を書くとき、そこには背景があります。
なぜそれを書くに至ったのか。
誰に向けて書いているのか。
どんな気持ちで綴っているのか。
なぜ、今このテーマを取り上げるのか。
そうしたものは、言葉の選び方や文体、構成の端々ににじみ出ます。
そして、その「にじみ」を受け取るには、読む側にも力が必要です。
整っている文章を、ただ「わかりやすい」と受け取るだけでは足りません。
その奥にある背景や文脈まで読み取る力が、AI時代にはますます重要になるのだと思います。
それは、単なる文章力ではありません。
文章を正しく読むだけでもない。
自分の中の文脈をつかみ、相手の文脈を読み取り、読んだものを自分の中で意味づけていく力。
これこそが、AI時代における「新しい国語力」なのだと思います。
私は、この力を「シン国語力」と呼んでみたいと思います。
「シン」という言葉には、正直、いまさら感があります。
そして「国語力」という言葉にも、どこか使い古された響きがあります。
それでも、ここではあえて、この二つの言葉を組み合わせてみたいのです。
目新しい言葉で飾るのではなく、少し使い古された言葉の中に、まだ使い切られていない意味を探したい。
AIが文章を書く時代に、もう一度、国語力の「シン」――つまり、その「芯」にあるものを見つめ直すこと。
「シン」は、「芯」だけではありません。
「新」――AI時代に更新される力。
「真」――言葉の本質に向き合う力。
「伸」――読書と経験によって育っていく力。
「進」――これからの時代を進むための力。
「心」――人間の心を置き去りにしない力。
そんな意味を込めて、私はこれを「シン国語力」と定義します。
これからの時代、「シン」に必要となる力。
それは、ただ正しく読む力ではありません。
前提を読むこと。
抜け落ちを読むこと。
問いとのズレを読むこと。
自分の文脈との距離を読むこと。
そして、読んだものを自分の中で意味づけ、自分の言葉につなげていくこと。
AIは、既存の言葉を上手につなぎます。
けれど、その文章が本当に自分の問いに答えているのか。
自分の仕事や生活に引き寄せたとき、どこに違和感があるのか。
そこを読むのは、やはり人間です。
AIが文章を整えてくれる時代だからこそ、私たちは、出てきた言葉をそのまま受け取るだけではいられません。
読み、立ち止まり、自分の中で意味に変えていく。
その力を育てる土台にあるのが、やはり「読書」なのだと思います。
読書とは、他人の文脈を体験すること
「なぜ読書が大事なのか?」とあらためて問われたとき、私はこう答えたいと思います。
読書とは、他人の文脈を体験することであり、
それは、読書でしかできないことだから、です。
私たちは、普段、自分の価値観、自分の環境、自分の感情の中で生きています。
それは決して悪いことではないけれど、狭い枠の中に閉じこもりがちでもあります。
本を読むと、そこにはまったく違う時代、違う文化、違う性格をもった人たちの思考や感情があふれています。
・大正時代の女学生が抱えていた葛藤
・アフリカの小さい村で暮らす少年の日常
・数式の美しさを追求する数学者の世界観
本を通して、他人の人生の一部を“内側から”体験できること。
それこそが、読書の本当の醍醐味だと思うのです。
そして、それらの体験が、いつのまにか「言葉の地層」として自分の中に堆積していく。
「どこで覚えたんだろう?」と思うような表現や、ふと口をついて出る比喩、微妙な感情の言語化――
それらは、決して一朝一夕では身につきません。
本を何十冊、何百冊と読み続ける中で、ようやく「自分のものとして扱える言葉」になっていくのです。
そして、そうやって育った言葉だけが、人の心を打つ文章の材料になってくれるのだと思います。
私の「国語力」を支えているのが、今まで読んできた5000冊以上の本であることは間違いありません。
だから、私はこれからの若い人に、
「読書なんてしなくていい」とは、絶対言えません。
私は、誰よりも、読書の恩恵を受けてきた人間だからです。
読書は、単なるインプットではありません。
他人の文脈を、自分の中に一度通す訓練です。
だから、この力は仕事にもつながります。
顧客の言葉を読む。
企画書の背景を読む。
相談者の本当の困りごとを読む。
チーム内の沈黙を読む。
メールの文面に書かれていない要望を読む。
仕事の場面で必要になる「読む力」の根っこにも、他人の文脈を想像する力があるのです。
AIの文章を、どう読むか
読む力は、AI時代において、さらに重要になります。
ただ文字を追うだけでは、足りません。
読む側にも、かなりの判断が求められます。
その文章は、自分の文脈に合っているのか。
その答えは、問いの本質に触れているのか。
その言葉は、人間の生活や感情に寄り添っているか。
こうしたことを読まないまま受け取ってしまうと、
AIの文章はただの「正解っぽい何か」になってしまいます。
正しそう。
整っている。
わかりやすい。
でも、どこか顔が見えない――
では、そんなAIの文章を読むときに、具体的に何を見ればよいのでしょうか。
私は、少なくとも5つの視点があると思っています。
1.前提を読む
その文章は、何を当然のものとしているのか。
どんな人に向けて、どんな価値観の上に立って書かれているのか。
AIの答えは、なめらかに見えるほど、その前提が見えにくくなることがあります。
2.抜け落ちを読む
そこに書かれていないものは何か。
反対意見、例外、少数派の立場、現場の事情は落ちていないか。
整った文章ほど、抜け落ちまで整って隠れてしまうことがあります。
3.問いとのズレを読む
その答えは、本当に自分の問いに答えているのか。
それとも、似ているけれど別の問いに答えているだけなのか。
問いがずれていれば、どれほど立派な答えでも、欲しかった答えにはなりません。
4.自分の文脈との距離を読む
その答えを、自分の仕事や生活にそのまま持ち込んでよいのか。
自分の場合はどうなのか。
AIの一般論を、自分の文脈に引き寄せるところで、読む人の判断が必要になります。
5.届き方を読む
整っていることと、届くことは違います。
人間が読む文章である以上、そこには必ず受け手がいます。
その文章は、誰に届くのか。
読んだ人は、納得するのか、置いていかれるのか、動きたくなるのか。
――上記の5つを意識するだけでも、AIの文章はただの「便利な答え」ではなくなります。
それは、AIの出力を疑うためだけの作業ではありません。
AIの言葉を、自分の言葉として引き受けてよいのかを確かめる作業なのだと思います。
AIの言葉を5つの視点で読むこと。
それもまた、AI時代のシン国語力です。
けれど、読む力が必要なのは、AIの回答を読むときだけではありません。
情報を読む。
人の言葉を読む。
その背後にある前提や、書かれていないものまで読み取る。
大人にとっての国語力は、もはや生活インフラなのだと思います。
電気。
水道。
国語力。
ちょっと変な並びですが、
でも、本当にそれくらい大事だと思います。
そしてもうひとつ、AIが決められないものがあります。
それは、
「自分は何に心が動くのか」
ということです。
どんな本に手を伸ばすのか。
どんな言葉に立ち止まるのか。
どんな物語に胸を打たれるのか。
そこには、その人自身が出ます。
本を選ぶことは、自分を知ることでもある。
本棚は、自分の内面のポートフォリオでもある。
読んだ本の内容を細かく覚えていなくても、読書は残ります。
考え方の軸として。
言葉の選び方として。
知らないものへの好奇心として。
読書によって、自分の中に言葉の地層ができていく。
その地層があるから、ある日ふと、自分の言葉が出てくる。
そう考えると、読書は単なるインプットではありません。
未来の自分が使う言葉を、少しずつ蓄えていく行為でもあるのです。
AIを使わない、という話ではありません。
ただ、その便利さに、自分の感じ方や考え方まで預けてしまわないために。
そのための土台として、読書はやっぱり必要なのだと思います。
人間が読むから、言葉に意味が生まれる
AIは、整った文章を、いくらでも生み出せます。
今でも十分猛威を振るっていますが、ここでは、少し未来の社会を想像してみましょう。
AIがさらに進化し、ありとあらゆる文章を秒速で生み出すようになった世界。
ここでAIが作った文章を読んでいるのは――
やはりAIです。
人間同士の共感ではなく、AIの評価アルゴリズムに最適化された文章が量産される社会においては、作者も読者も、AI。
AIが書いた文章を、AIが読んで、評価し、また学習していく。
……いやはや、なんとも効率的な世界です。
でもそんなサイクルに、いったい何の面白さがあるでしょうか。
それはまるで、AI同士で指している将棋や囲碁を、無言で見せられているようなもの。
精密で完璧だけど、心が動かない。
人間同士の試合が見たいと思いませんか?
自分が書いた文章を、AIではなく、人間の誰かに届けたい、と。
考えてみてください。
人間よりも速く走れる車ができても、オリンピックの陸上競技はなくなりませんでした。
飛行機で簡単に空を飛べるようになっても、鳥人間コンテストは毎年のように開催されています。
言葉も、きっと同じです。
AIがどんなに便利になっても、
人間が読み、人間が受け取り、人間が自分の言葉にしたいという気持ちは消えないはずです。
ただし、今回の話で本当に問題にしたいのは、AIが書くことそのものではありません。
人間が読まなくなることです。
文章があふれているのに、誰も本当には読んでいない。
情報は処理されているのに、意味が受け取られていない。
そのとき、言葉はただのデータになってしまいます。
AIが文章を書く時代になっても、読むのは私たちです。
受け入れるのも、考えるのも、選び取るのも、私たちです。
AIは文章を処理できます。
要約できます。
分類できます。
評価できます。
けれど、ある文章を読んで、昨日までの自分と少し違う自分になること。
うまく言えなかった気持ちに名前がつくこと。
自分だけだと思っていた悩みが、誰かの文章の中に見つかること。
誰かに、自分の言葉を届けたいと思うこと。
それは、人間が読むから起こることです。
読むことは、考えることです。
読むことは、自分を知ることです。
読むことは、誰かの文脈を体験することです。
そして、読み重ねた言葉は、自分の中に地層のように積もっていく。
その地層があるからこそ、私たちは、自分の言葉で考え、判断し、誰かに向けて言葉を手渡すことができる。
だから、AI時代に求められる国語力とは、AIより速く、うまく文章を書く力ではありません。
AIの出した言葉も、人間の書いた言葉も、自分の経験と照らし合わせながら読む。
その前提を読み、抜け落ちを読み、自分の仕事や生活に引き寄せて考える。
そこから、自分にとっての意味を見つけ、自分の判断や言葉につなげていく。
情報が増え、文章が増え、もっともらしい答えが増える時代だからこそ、ただ受け取るだけでは足りません。
読み、意味づけ、判断し、必要な言葉として返していく。
その一連の力こそが、AI時代の「シン国語力」なのです。
<了>
本日は以上です。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
ありがとうございました。
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