映画感想(18) ヨーロッパ映画 (2020~)
サブスクで見た有名な作品のちょっとした感想を書いてます。順不同。
備忘録みたいなものですね。随時追加していきます。
ベルファスト Belfast
2020年 アイルランド・イギリス合作 98分
★★★★☆
監督:ケネス・ブラナー
脚本:ケネス・ブラナー
出演:ジュード・ヒル/カトリーナ・バルフ/ジェイミー・ドーナン/ジュディ・デンチ/キアラン・ハインズ
1969年8月、プロテスタント暴徒がカトリック住民への攻撃を始めたことで激化した「北アイルランド紛争(The Troubles)」下のベルファストを舞台に、9歳の少年と家庭の苦悩を描いたケネス・ブラナー監督自身の幼少期の記憶をもとにした自伝的作品。
ごく普通の家庭が日常の生活の中で分断の暴力に巻き込まれ、最終的に故郷を捨てざるを得なくなる過程をモノクロ映像の抑制されたタッチで描いている。
民族分断という史実に基づく重いテーマを取り上げながら、同時に失われていく日常への郷愁もセンチメンタルな筆致で描かれている。日常の記憶が丁寧に積み重ねられる中で、宗派の違いだけで隣人同士が敵になる現実の異常な残酷さが浮き彫りとなる。映画は暴徒の襲撃の恐ろしさではなく、むしろ祖父母の温かみや家族で訪れた映画館の記憶、初恋のほろ苦さなどに焦点を与えており、必ずしも事変への批判のトーンは強くない。身近な人々が争った記憶を抱える者にとっては、どちらかに与することの難しさこそがリアリティなのだろう。その切なさが、映画の結末に重みを与えている。傑作。
哀れなるものたち Poor Things
2023年 イギリス・アメリカ・アイルランド合作 141分
★★★★☆
監督:ヨルゴス・ランティモス
脚本:トニー・マクナマラ
出演:エマ・ストーン/マーク・ラファロ/ウィレム・デフォー/ラミー・ユセフ/クリストファー・アボット
「女王陛下のお気に入り」で国際的評価を高めたギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス初の原作付き作品。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作。
ヴィクトリア朝風の架空近未来世界で、天才外科医の手によって“再生”された特異な存在が、言葉と身体と欲望を手探りで獲得していく過程を描く異色作。グロテスクな可笑しさと解放の快感を、豪奢な美術と歪んだ画面設計に封じ込めた秀作。
本作の魅力は奇抜な設定を単なる悪趣味に終わらせず、異形のものとして生まれた存在の「解放の物語」として組み立てている点にある。創造主ゴッドウィンの閉じた屋敷という実験空間で生み出され、彼の原理のもとに管理されていた存在が、やがて外の世界へ踏み出す。そこで待っているのは、より露骨で世俗的な男性支配の論理だ。幼児の精神を宿した主人公が、言語や身体感覚、快楽や怒りを一つずつ獲得していく過程は滑稽でありながら痛快であり、その都度、「彼女」を所有しようとする男たちは肩透かしを食らう。
ラストの着地も興味深い。外の世界へ出て自由を獲得したはずの彼女が、最終的には創造主の世界を継承する位置に収まっていく。この結末はそれまでの彼の作品に多かった「この先どうなるかは分からない(たぶん碌でもない)」で切り捨てる描写とは異なり、主人公が「生」を取り戻し安寧を得たハッピーエンドのようにも見える一方、解放の物語でありながら創造と支配の束縛が形を変えて循環し再生産されることを示唆している。
単なる自由と解放の物語に帰着させないところがランティモスらしい。
憐れみの3章 Kinds of Kindness
2024年 アイルランド・イギリス・アメリカ合作 164分
★★★
監督:ヨルゴス・ランティモス
脚本:ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリップ
出演:エマ・ストーン/ジェシー・プレモンス/ウィレム・デフォー/マーガレット・クアリー/ホン・チャウ/ジョー・アルウィン
三つの物語で構成されたオムニバス作品。
ヨルゴス・ランティモスとエフティミス・フィリップが再び組み、支配と服従の構図を冷ややかに描いた一作。
絶対的な上司に人生を一挙手一投足の指示を預ける男、事故から奇蹟的に無事帰還した妻に違和感を抱き続ける夫、教義に従うセックスカルト共同体の女。いずれも一見するとリアルなドラマの体裁を取りながら、関係の力学が歪んでいる。
「籠の中の乙女」や「ロブスター」といった初期作と肌触りは似ているが、それらの作品が設定そのものがどこか滑稽で異様さが剥き出しになっていたのに対し、本作はむしろ状況が現実にありそうな分、壊れ方が見えにくい。会話も振る舞いも整っているのに、世界の前提だけが微妙にずれている。その状態が持続することが冷酷さを際立たせる。三つのストーリーは独立していながらも構造的に呼応し、同じことが繰り返される感触だけが残る。その底意地の悪さは意図的だろうが、観る側を突き放す力も強い。完成度よりも作家の素地がむき出しになった印象。
アンモナイトの目覚め Ammonite
2020年 イギリス・オーストラリア・アメリカ合作 120分
★★★★
監督:フランシス・リー
脚本:フランシス・リー
出演:ケイト・ウィンスレット/シアーシャ・ローナン/フィオナ・ショウ
19世紀半ばのイングランド南岸。実在の化石採集家メアリー・アニングと、療養のため彼女の下に預けられた若い女性との関係を描く。荒涼とした海辺の風景と沈黙の多い演出が印象的なフランシス・リーによる静謐なドラマ。
物語自体は退屈だ。海辺で石を拾うだけの単調な反復の中で、二人の距離が縮まっていく様が淡々と描かれるだけとも言える。交わされる言葉以上に視線と間合いが感情を語り、切実さを際立たせる。荒々しい自然と閉ざされた社会の中で芽生える関係性を過剰な演出に頼らず描き切る演出は見事ながら、それを成立させているのはケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンという何れ劣らぬ名優の「寡黙な」演技といって良いだろう。二人の存在感と演技の密度が簡潔な物語に深みを与えている。ベタだが、快作。
CLOSE/クロース Close
2022年 ベルギー・オランダ・フランス合作 104分
★★★★☆
監督:ルーカス・ドン
脚本:ルーカス・ドン/アンジェロ・タイセンス
出演:エデン・ダンブリン/グスタフ・ドゥ・ワール/エミリー・ドゥケンヌ
トランス女性がバレリーナをめざす姿を描いた「Girl/ガール」に続くルーカス・ドン監督の長編第二作で、再び思春期と性自認の残酷な関係を主題に据えた第75回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。ベルギーの新鋭が、少年二人の親密な関係の変化を通して、成長の痛みを描く。
最終学年のひと夏を越え成長した親友二人。
進級したクラスでの同級生たちの反応が、両者の近すぎる距離感に微妙な軋轢と緊張を生む。少年は戸惑いの中、緊密な関係を断って自立を志向する。何気ないその判断が取り返しのつかない結果へとつながっていく。友情と性愛の境界が定まらないまま思春期の時間は過ぎていく。その過程で湧き起こされる拒否反応が決定的な断絶を呼ぶ。その流れを丁寧に追う構成が、感情を煽らずに痛みを伝える。LGBT的な主題をモチーフとしながらも、より普遍的な成長による喪失の痛みを観るものに突きつける力のある作品。
墓泥棒と失われた女神 La chimera
2023年 イタリア・フランス・スイス合作 131分
★★★★☆
監督:アリーチェ・ロルヴァケル
脚本:アリーチェ・ロルヴァケル
出演:ジョシュ・オコナー/カルロ・ドゥアルテ/ヴィンチェンツォ・ネモラート/アルバ・ロルヴァケル/イザベラ・ロッセリーニ
1980年代のイタリア、トスカーナ地方でエトルリアの遺物を掘り起こして闇市場に流す墓泥棒たちと、失われた恋人の面影を追い続ける男を描く。「幸福なラザロ」のアリーチェ・ロルヴァケルが自らの郷土の地と記憶をすくい上げるように紡いだ珠玉の物語。
「幸福なラザロ」で描かれる現実と幻想の交差が直線的だったのに対し、本作では多層的になっており、映画としての強度は高まっているが、その分ストーリーは複雑でやや追随しづらい構造になっている。「幸福なラザロ」同様の社会構造批判もしっかりとビルトインされてはいるが、映像の重心を幻想性に振った分「幸福なラザロ」ほどのシャープな批判性は失われているという印象を抱くのは致し方ないところか。
主人公は地中の遺物を探り当てる特異な能力を持つが、彼が本当に探しているのは過去に取り残された時間だ。仲間たちと掘り進める穴は、失われたものへ届こうとする衝動の形でもある。彼が真に掘り起こそうと願うのは財宝ではなく彼の心を捉えて離さない記憶の幻影そのものと言っても良い。
ラストシーンで主人公は現実と幻想の境界を越え、ついに探し求めていた最愛の人との再会を果たす。だがそれは喪失を克服した達成感よりも「死」との幻想に囚われた絶望感のようにも見える。
「幸福なラザロ」で提示されたダイレクトな寓話性とは別種の悲劇性に彩られたポリフォニックな重厚さに満ちた傑作。
秘密の森の、その向こう Petite maman
2022年 フランス 73分
★★★★★
監督:セリーヌ・シアマ
脚本:セリーヌ・シアマ
出演:ジョセフィーヌ・サンス/ガブリエル・サンス/ニナ・ミュリス/マルゴ・アバスカル/ステファン・ヴァルペンヌ
21世紀映画史に残る名作「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマが、三代続く親子関係の記憶という最小単位のテーマに徹して撮り上げた73分の小品。
祖母の死をきっかけに母の故郷を訪れた少女が、森の奥で出会った母と同じ名のもうひとりの少女と時間をともにする。理屈は何も示されない。どうやって時間が重なったのかも語られない。ただ、幼い頃の母と娘が同じ場所にいて、一緒に遊び、同じ空気を吸っている。それが特別な出来事としてではなく、当たり前の出来事として配置される。その異常なはずの日常の描写が驚くほど強固だ。
少女が相手を母だと悟る瞬間も、「未来から来たの?」と問われて「向こうから来た」と答えるやりとりも、あまりに自然で、過剰な意味づけを拒む。あまりに当たり前のように流れていく時間と空間のなかで、母もまたかつて子どもだったという事実が、説明ではなく体感として伝わる。タイムパラドックスの説明もなく、最後に抱き合う場面は奇跡の瞬間ではなく、時間を越えて続いていた感情の確認のように見える。構造は大胆なのに、着地は驚くほど軽やか。完璧な映画。
サントメール ある被告 Saint Omer
2022年 フランス 123分
★★★★☆
監督:アリス・ディオップ
脚本:アリス・ディオップ/アムリタ・ダヴィド/マリー・ンディアイ
出演:カイジ・カガメ/グスラジ・マランダ/ヴァレリー・ドレヴィル
ドキュメンタリーを中心に撮っていたセネガルにルーツを持つフランス人女性監督アリス・ディオップの初の長編商業フィクション映画。ヴェネツィア映画祭銀獅子賞受賞。 2016年にフランス北部の町サントメールで実際にあった事件をベースにしたノンフィクション仕立ての裁判ドラマ。
法廷映画の定石である「陪審の視点」をほとんど意識せず、観る者を当事者の位置に置かない。そのため、誰かに感情を預けて安心することができず、法廷での審判の進行を最後まで拠り所のないまま受け止め続けることになる。被告とよく似た境遇のラマという傍観者が配置されているのもまた微妙で、被告に近づこうとするほど、距離の取り方が見えなくなる様が描かれていく。
文化植民地主義に根差す民族と文化差そのものへの差別と偏見、性差の非対称性、移民の政治的・経済的・社会的孤立と言った今日的な問題が提示されるが、映画はそのいずれにも答えを出さない。
終盤の弁護士の母性をめぐる弁護は、一瞬感動談話として回収されそうになるが、事件を単なる「母の悲劇」に収斂させてしまう言説でもあり、傍聴席の涙やラマの反応まで含めて、個人の問題を共同体が「理解したこと」にして成立してしまう瞬間の不気味さを映し出している。
本質的には誰も裁かれず、理解もされない。それでも形式的な審理だけは進み、観客の思考は取り残される。その体験が、この映画を傑作にしている。
アイダよ、何処へ? Quo Vadis, Aida?
2020年 ボスニア・ヘルツェゴビナ・オーストリア・ドイツ・フランス・オランダ・ノルウェー・ポーランド・ルーマニア・トルコ合作 102分
★★★★★
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
出演:ヤスナ・ジュリチッチ/イズディン・バイロヴィッチ/ボリス・イサコヴィッチ/ボリス・レアー/ヨハン・ヘルデンベルグ
1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中に起こった「スレブレニツァの虐殺」を、当時国連軍として当地に駐留していたオランダ人部隊の通訳の目を通して描いた戦争ドラマ。
国連主導の戦後国際統治体制の汚点とも言うべき大虐殺を正面から扱いながら、ドキュメントとしての精度とフィクションとしての手触りを同時に成立させている点が圧倒的。民族国家、軍、国連といった巨大な権力機構の無力さと、その中で翻弄される個人の切迫した時間が同時に浮かび上がる。戦争映画でありながらいわゆる「戦闘」シーンはなく、進軍する兵士たちの暴力とただ待機するしかできない軍官僚たちの対比と、家族を守ろうと奔走する一般市民の行動の連続で極度の緊張を作り上げる脚本と演出は見事というほかない。
映画のラストシーンとなっている20年後のエピローグが秀逸。虐殺を告発して終わるのではなく、その後も同じ土地で生き続ける人々の現実を突きつける。加害者と被害者の家族が同じ町に住み、同じ学校で子どもたちが同じ舞台に立つ。その光景は「和解」でもなく、憎しみの連鎖が断ち切られたことを示すものでもない。あれほどの惨事の後でも人はその場所で生き続けるしかないという事実を静かに示す。
事件から30年。殺された人々の家族や友人は今もあの町で生きている。その記憶を抱えながら、それでも同じ土地で日常を続けていく人々がいるという現実を、映画はただそこに置いて見せつける。彼らの感情を傍観者である観客は実感として受け取ることはできない。ただ、その想像を観る者に委ねること自体が一つの批評になっている。
紛うことなき戦争映画の大傑作。
人間の境界 Zielona Granica
2023年 ポーランド・フランス・チェコ・ベルギー合作 152分
★★★★★
監督:アグニエシュカ・ホランド
脚本:マチェイ・ピスク/ガブリエラ・ワザルキェビチ=シェチコ/アグニエシュカ・ホランド
出演:ジャラル・アルタウィル/マヤ・オスタシェフスカ/トマシュ・ヴウォソク/ベヒ・ジャナティ/モハマド・アル・ラシ/ダリア・ナウス
ベラルーシ政府による、ポーランドへの大量の難民移送という対EU策略の中で、「人間兵器」として利用される亡命希望者たちを巡る物語を、当事者である難民たち、NGO支援者、ポーランド軍という異なる三つの視点からモノクロ映像で鋭く描いた一大傑作。史実をもとにEU内の難民問題処理の非道性を克明に描き国際的に高い評価を受けた一方で、当時のポーランド政権からは事実無根との非難を浴びた。その結果ポーランドで大ヒットしたのは皮肉としか言いようがない。史実を隠すことで却ってそれが剥き出しになる構造が社会に残っているのは本邦の現状を鑑みるに素直に羨ましくもある。
国境を越えてきた難民を法的手続きに乗せることなく強制的に国外へ送り返す「プッシュバック」と呼ばれる強制移動が映画の中心テーマとなっている。人権に対する非道な扱いを描きながらも、本作が単なる告発やプロパガンダ映画に堕していないのは、当事者である難民の苦難だけでなく警備隊や支援者の側の葛藤も描き、制度化された暴力がどのように現場で正当化されていくのかを冷静に見つめているからだろう。国家と個人、法と倫理の境界を鋭く問いかける現代ヨーロッパ映画の重要作であり、2020年代を代表する名作である。
聖地には蜘蛛が巣を張る Holy Spider / عنکبوت مقدس
2022年 デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス 117分
★★★★
監督:アリ・アッバシ
脚本:アリ・アッバシ/アフシン・カムラン・バーラミ
出演:ザーラ・アミール・エブラヒミ/メフディ・バジェスタニ/アーラシュ・アシュティアニ
イラン国籍をもちデンマークで活動を続ける鬼才アリ・アッバシが故郷イランを舞台にその閉鎖性を告発する社会派クライム・スリラー。
ストーリーはフィクションだが、事件は21世紀初頭に実際に起こった事件を元にしている。聖地マシュハドで発生した娼婦の連続殺人事件を追う女性ジャーナリストがイラン社会に根強く蔓延る女性差別によって起こされた事件の真相を追っていく。
警察や司法の怠慢や裏取引、「街を浄化する」犯人を英雄視する市民たちの描写、そして何より映画のラストで語られる犯人の息子による父の神格化宣言はイラン社会の闇を端的に描き出している。あまりにもストレートすぎる表現に戸惑う瞬間もあるが、それが彼の地のリアリティなのだろう。
主役を演じカンヌ国際映画祭の最優秀女優賞を獲得したザーラ・アミール・エブラヒミはまさにそのリアリティによって実質的にイラン国内での芸能活動が不可能になっていた。そういった背景も含めて世界の重さを感じさせる作品。
ぼくの家族と祖国の戦争 Når befrielsen komme
2023年 デンマーク 101分
★★★★☆
監督:アンダース・ウォルター
脚本:アンダース・ウォルター
出演:ピルー・アスベック/ラッセ・ピーター・ラーセン/カトリーヌ・ローゼンタール/モルテン・ヒー・アンデルセン
ナチスドイツの敗色が色濃くなった第二次大戦終戦間近ナチスドイツ占領下のデンマークでドイツからの難民を救済しようとした家族の孤独な戦いを描いた歴史ドラマ。ストーリーはフィクションだが、ベースとなった出来事は概ね実話。デンマークの「戦勝史」に隠された汚点でもある。
市民大学の学長ヤコブは敗戦間近のドイツから押し寄せてくる大勢の難民を学校に受け入れることを命じられる。想定をはるかに超える500人以上の難民を受け入れたものの、十分な食料も医療体制もない劣悪な環境の中で、多くの子供たちや老人が、飢えや感染症で次々と命を落としていくという厳しい現実に直面する。難民の苦境を見かねたヤコブと妻はあらゆる手段を尽くして救済を試みるが、敗走間近のドイツ軍からの協力はなく、難民を「敵国」と見做すデンマーク人も支援を拒否する。家族の苦闘は理解されず、戦勝に高揚する同胞たちからは裏切り者の烙印を押される。
人倫と共同体の感情が真っ向から衝突し、感情によって人倫が断罪されていく過程を12歳の息子の目を通して描く冷徹で残酷な作品。
原題は「自由になる時・解放がやってくるとき」。だが、それは誰にとっての自由であり、解放なのか?映画は単なる相対主義に陥ることなく人間の尊厳のあるべき形を静かに謳う。
実直な作風が多いデンマークの戦争映画の中でもその真摯さが際立つ名作。
ありふれた教室 Das Lehrerzimmer
2023 ドイツ 98分
★★★★
監督:イルケル・チャタク
脚本:ヨハネス・ドゥンカー/イルケル・チャタク
出演:レオニー・ベネシュ/レオナルト・シュテットニッシュ/エーファ・レーバウ/ミヒャエル・クラマー/ ラファエル・シュタホヴィアク
学校という閉鎖的空間で起こった連続盗難事件をきっかけに共同体の信頼の連鎖が脆く崩れていく姿を描いた社会派サスペンス。
犯人が誰なのかは映画の焦点からは完全に外れており、社会のどこにでもありそうな小さな疑惑から偏見と相互無理解が積み上がることによって共同体の意図せぬ悪意を増幅させ、正義が相対化され、結果的には逆転による断罪にまで至るプロセスを緊張感あふれるタッチで描いている。取り返しのつかない結末を迎えるまでに、悪意の形跡は示唆されるが、それを断罪するのではなく、むしろその所在を曖昧にすることで、閉鎖的な共同体の無責任さを炙り出す構図となっている。批評性は高いが、正義の無力さを放置しているようにも見え、メッセージ性は強くない。それはトルコ出身のドイツ人監督自身がその経験から語る「不寛容な世界の縮図」に対して無力さを告白しているに等しい。優れた現実描写には高い評価が与えられるべきと感じる一方で、映画が押し出すメッセージの弱さは明確な弱点だろう。

コンパートメントNo.6 Hytti nro 6 / Compartment Number 6
2021年 フィンランド・ロシア・エストニア・ドイツ合作 107分
★★★☆
監督:ユホ・クオスマネン
脚本:アンドニス・フェルドマニス/リビア・ウルマン/ユホ・クオスマネン
出演:セイディ・ハーラ/ユーラ・ボリゾフ/ディナーラ・ドルカーロワ
フィンランドの新鋭ユホ・クオスマネンがロサ・リクソムのセンチメンタルな旅行小説の肌触りをかなり違えて映画化したロードムービー。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。
大学教授の恋人(♀)にドタキャンされモスクワからシベリア鉄道に乗って世界最北端駅ムルマンスクまで一人で旅行することになった失意の女子大生が、列車の同室に乗り合わせた粗野な炭鉱労働者との間の微妙な距離感を徐々に詰めていくラブ・ロマンス。
偶然出会った正反対のキャラの男女の列車の旅という設定はロードムービーとしてはよく機能しており、逃げ場のない寝台車という閉じた空間と、窓外に広がる極寒のシベリアの風景がこの物語を映画として支えている。
ただ、本筋のはずの自分探しの旅としては筋立てがあまりに素直で、原作では重要な意味を持つはずの「ソ連崩壊直前」という時代背景もほとんど語られない。原作の設定では繊細で気弱な文学少女だった主人公は教養はあるもののわりとガサツなその辺のおねえちゃんに改変されており、そのためか関係の変化が社会や歴史と接続せず、ロマンスとしても浅く映ってしまうのが惜しい。
マイ・ニューヨーク・ダイアリー My Salinger Year
2021年 アイルランド・カナダ合作 101分
★★★☆
監督:フィリップ・ファラルドー
脚本:フィリップ・ファラルドー
出演:マーガレット・クアリー/シガニー・ウィーヴァー/ダグラス・ブース
小説家をめざす若い女性がニューヨークで老舗の出版エージェンシーに就職し、伝説的隠遁作家J・D・サリンジャーの担当となって彼と彼のファンを繋ぐ役割を通じてエージェントとして成長していく姿を描いたジョアンナ・ラコフの自叙伝の映画化。
設定から想定されるのは「プラダを着た悪魔」の出版社版のような展開だが、実際にはドラマチックな起伏はほとんどなく、周囲の人たちも意外なほど常識的で、全体に穏やかな空気に包まれた物語になっている。主人公の主張も強くはなく、自らの資質と進路に疑問を抱きながらも与えられた仕事を自分の信じた通りにこなしていく姿が淡々と描かれる。エキセントリックな役回りが多いマーガレット・クアリーが、我の強さがなく控えめで実直な主人公を意外なほどさらりと演じていて、見終わった後の感触もとても良い。ただ、主人公を含め登場人物が総じて好人物すぎて緊張が弱く、映画としての強度はやや物足りなく感じられるのも事実。良作だが、その分評価は敢えて控えめにした。
苦い涙 Peter von Kant
2022年 フランス 85分
★★★☆
監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
出演:ドゥニ・メノーシェ/イザベル・アジャーニ/ハリル・ガルビア/ハンナ・シグラ/テファン・クレポン/アマント・オーディアール
フランソワ・オゾンが、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの代表作「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」を大胆に翻案した作品。登場人物の性別を入れ替え、舞台をファッション界から映画界へ移し、孤独な映画監督ペーター・フォン・カントの恋愛と破滅を描く。
原作の閉鎖空間劇の構造をほぼそのまま踏襲しながら、主人公を映画監督に置き換えたことで、作品にはファスビンダーもしくはオゾン自身を想起させる自伝的なニュアンスがより強く滲む。一方で重要な変更も多い。オリジナルではペトラと助手の関係は一方的な主従関係でありながらも共依存的な緊張に満ちていたが、本作ではより明確な労使関係として整理され、主従関係の力学も変化している。物語の最後、助手が明確な拒絶を示し契約関係の終了を示すことで、主人公の孤独の描かれ方も微妙にニュアンスを変える。ファスビンダー版の毒と残酷さには及ばないものの、オゾンらしい軽やかな再解釈として興味深い。
ペルシャン・レッスン 戦場の教室 Persian Lesson
2020年 ロシア・ドイツ・ベラルーシ合作 127分
★★★★
監督:バディム・パールマン
脚本:イリヤ・ゾフィン
出演:ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート/ラース・アイディンガー/レオニー・ベネシュ/ヨナス・ナイ/ダーヴィット・シュッター
ホロコースト映画としては異色の設定を持つ作品。第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に送られたユダヤ人青年が処刑を免れるため自らをペルシャ人と偽り、ペルシャ文化に憧れるナチス将校に「ペルシャ語」を教える役を引き受ける。だが彼が話すのはもちろん本物の言語ではなく、収容者の名前をもとに即興で作り上げた完全なデタラメである。
筋立てだけ見るとブラックコメディのようにも思えるが、映画のトーンはむしろ緊迫したサバイバル劇に近い。主人公は何百もの偽の単語を記憶し続けなければならず、一つでも矛盾が生じれば命取りになる。その緊張が全編にわたって持続し、笑いに転がりそうな設定でありながら安易なコメディには決して逃げない。言葉を捏造する行為が、結果として収容者たちの名前を記憶し続ける貴重な記録へと変わっていく構成も秀逸で、それが戦後、失われるはずだった死者たちの名前を歴史に刻む効果をもたらす。奇抜なアイデアをきちんとドラマに昇華した秀作。
デリシュ! Délicieux
2021年 フランス・ベルギー合作 112分
★★★★☆
監督:エリック・ベナール
脚本:エリック・ベナール/ニコラ・ブークリエフ
出演:グレゴリー・ガドゥボワ/イザベル・カレ/バンジャマン・ラベルネ/ロレンツォ・ルフェーブル
フランス革命前夜、大衆文化としてのフランス料理の成立と世界初のレストラン誕生の背景を描いた歴史ヒューマンドラマ。自由を求める人々の情熱が、貴族のものであった「料理」を民衆に解放する、という筋立てで、自由と解放をテーマにした革命譚でもある。
公爵の邸で開かれる食事会にジャガイモを料理を出したことで宮廷料理人をクビになったピエール・マンスロンは故郷に戻り、実家で旅籠を営みながら、旅人たちに料理を振る舞う生活を送る。革命を支持する先進的な考え方を持つ息子と、伯爵に因縁を持つ謎の女弟子の扶助を得てマンスロンは旅籠を改装し、大衆向けのレストランを始める。
料理という身近な題材を通して、身分制度の揺らぎと新しい社会の誕生を描く構成が巧みで、食卓を彩る料理の楽しさと革命の自由の空気が自然に結びついている。物語の基軸となっているのは、彼を追放したシャンフォール公爵との因縁で、庶民の料理を出したことで侮辱され職を追われた料理人が、今度は身分に関係なく誰もが食べられる店を作ることで貴族社会そのものに復讐していく。その過程で明らかになる弟子ルイーズの復讐の物語との連携も鮮やかだ。公爵に人生を破壊された彼女は料理に毒を盛って復讐しようとするが、その怒りは最終的に料理を民衆に解放するという別の形の革命へと転化する。やがて公爵自身が店を訪れ、民衆と同じ席で食事を強いられることになる場面は象徴的で、料理という文化が身分制度を静かに崩していく瞬間を鮮やかに示している。グルメ映画としての愉悦と革命前夜の高揚感が心地よく溶け合った、ベタだが爽やかな余韻のある秀作。
パラレル・マザーズ Madres paralelas
2022年 スペイン 123分
★★★★★
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
出演:ペネロペ・クルス/ミレナ・スミット/イスラエル・エレハルデ
「オール・アバウト・マイ・マザー」「ボルベール」など母性を描き続けてきたペドロ・アルモドバルが、二人のシングルマザーの奇異な交流をスペイン内戦による虐殺の歴史と交差させて描いた異色作。新生児取り違えの物語は20年以上前から温められていた企画だが、ペネロペ・クルスが年長の母親役に相応しい年齢になるのを待って実現したもので、アルモドバルにとってもクルスにとっても渾身の一作と呼ぶにふさわしい名作。
産院で出会った年の離れた二人の母親の関係は、互いの子供の取り違えをきっかけに思いがけない方向へと導かれていく。物語の背後では、フランコ時代に虐殺された人々の遺骨を発掘する作業が進められる。この歴史的作業を主導するのは法人類学者アルトゥロだが、彼は生まれてきた子供に責任を持たない典型的なアルモドバル的「父」である。父性の象徴である国家の暴力は人々を殺し骨を埋めるが、父性に囚われたものはその過去を掘り起こすところまでしかできない。取り違えによって父の子は失われ、母の子だけが生き残るという構図は象徴的であり、歴史を継承していく主体が国家ではなく人間の関係そのものにあることを浮き彫りにする。母性のメロドラマを通して国家と記憶の問題に踏み込んだ、アルモドバル後期の最重要作。
ザ・ルーム・ネクスト・ドア The Room Next Door/La habitación de al lado
2024年 スペイン・アメリカ合作 107分
★★★★
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
出演:ティルダ・スウィントン/ジュリアン・ムーア/ジョン・タトゥーロ
ペドロ・アルモドバルの長編商業映画としては初の英語作品。ハリウッド資本が本格的に入ったのもほぼ初めてであり、いつものアルモドバル組にはいないハリウッド・スターの競演となっている。ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞作。癌に犯され死を決意した女性ジャーナリストが旧知の友と過ごす最期の数日間を描いた、人生と死、友情がテーマのヒューマンドラマ。
と書くと何だか美しく見えるが、自殺幇助とまでは言わないものの、自死を看過するという倫理上の問題は残る。尊厳死というと聞こえはいいが、自ら死を選びとることを是とする「友情」は作品内で語られるよりもおそらくは希薄なものでしかなく、孤独死を回避するために偽装された友誼のようにも見え、映画全体に言いようのない影を落としている。
もっとも、この物語が単なる感傷に流れないのは、死を選び取る主人公の決意の強さによるところが大きい。ティルダ・スウィントンはその揺るがぬ確信を静かに体現し、作品に極度の緊張を与えている。映画としての完成度は高いが、「パラレル・マザーズ」などで母子の未来を描いてきた作家と同じ筆致とは思えないところに戸惑いを覚えるのもまた事実だ。
瞳をとじて Cerrar los ojos
2023年 スペイン・アルゼンチン合作 169分
★★★★★
監督:ビクトル・エリセ
脚本:ビクトル・エリセ/ミシェル・ガスタンビデ
出演:マノロ・ソロ/ホセ・コロナド/アナ・トレント
スペインの巨匠ビクトル・エリセが30年のブランクを経て解き放った待望の復活作であり、世界の映画界を震撼させた奇蹟の名作。
「ミツバチのささやき」「エル・スール」の二作に続く長編映画第三作はエリセの創作活動の集大成的な作品であり、彼自身の人生や過去作へのオマージュが散りばめた映画ファン垂涎の珠玉の逸品である。エリセが映画を完成させるというだけでも大事件なのに、その内容が映画製作をめぐる記憶と失われた青春のノスタルジアを感じさせるものだったのはオールド・ファンには堪らない至高の贈り物というしかない。
映画の撮影中に謎の失踪を遂げた友人俳優の消息を追う元映画監督の主人公の姿は監督自身の自己投影であり、俳優の娘役のアナ・トレントはあの名作「ミツバチのささやき」のアナの成長した姿を彷彿とさせる。
40年の歳月を経て再び語られる「私はアナ」という台詞に涙が止まらなくなるのは私だけではないだろう。
こんなものを冷静にレビューなどできない。完璧。
アネット Annette
2021年 フランス・ドイツ・ベルギー・日本・メキシコ合作 140分
★★★
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス/ラッセル・メイル/ロン・メイル
出演:アダム・ドライバー/マリオン・コティヤール/サイモン・ヘルバーク
「ポンヌフの恋人」などでカルト的な評価を受けるレオス・カラックスが、アメリカのロックデュオ、スパークスと組んで制作したミュージカル映画。2021年カンヌ国際映画祭オープニング作品で監督賞を受賞。スタンダップ・コメディアンと世界的オペラ歌手というスター夫婦の破滅的な関係を軸に、ショービズの虚構性やスターの自己神話を皮肉る物語がミュージカル形式で展開される。
カラックスにしては珍しく物語を一本通した「ちゃんとした映画」を撮ろうとした形跡があり、国際共同製作の規模からもその野心は明確に伝わってくる。ただしミュージカルコメディとして振り切るでもなく、メタ映画的な皮肉へ徹するでもなく、全体のトーンはどこか中途半端で、結果として映画としての完成度は決して高くない。「汚れた血」などで見せた映像の爆発力には定評があるカラックスだが、結局のところ今作もその路線で押し切っている印象は強い。各シーンでの映像の瞬間的な輝きは疑いようがないが、それらを一つの作品として統御するところでいつも足が止まる印象がある。とはいえ自己破壊的なスター像を体現するアダム・ドライバーの存在感は圧倒的で、カリスマ性と卑小さを同時に成立させるキャラクター構築力が映画に確かな強度を与えている。相手役がなあ(以下自粛)。
落下の解剖学 Anatomie d'une chute
2023年 フランス 152分
★★★
監督:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:ジュスティーヌ・トリエ/アルチュール・アラリ
出演:ザンドラ・ヒュラー/スワン・アルロー/ミロ・マシャド・グラネール
人里離れた山荘で起きた転落死をめぐり、妻が殺人容疑で裁かれる法廷劇。
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。ジェンダー問題を始めとする社会的テーマっぽさを散りばめ、真相を確定せず、観客に判断をゆだねる、いかにも批評家受けしそうな構造を持った映画だが、実際のところそれほど深い洞察をもった作品ではない。
法廷で展開されるのは陪審員受けするストーリーであり、事件の真相よりも、夫婦の私生活や人格、関係の力学といったイエロージャーナリズム的要素を散りばめた人物像と事件との因果関係を暗示する物語構成が重要視される。フィクションなのでそういった印象操作はかなりデフォルメされた実際にはありえない演出で語られており、法廷劇として冷静に見ると審理そのものが不自然さを否めない。その不自然さと俳優の迫真の演技と真偽を揺らがせる細工が観客の判断を鈍らせ、最後まで興味を引かせる展開となっているが、所詮はフェイクとしての面白さである。
よくできた映画ではあるが、だからこそ、最終的な判断を観客に委ねる結末には不満が残る。社会構造を問う映画であれば曖昧さを観客に委ねることに大きな意味があるが、本作が扱うのはあくまで夫婦の痴情関係であり、そこまで大仰な保留が必要だったのか。むしろ息子の視点に焦点を絞り、家族の崩壊をどう理解して生きていくのかという物語として掘り下げていれば、別の強度を持つ作品になったのではないだろうか。ダメな映画ではないが、そこまで絶賛されるほど良質な映画ではない。ヤク中の中年男性が何で死んだかなんてどうでもいいじゃん(それを言ったらおしまい)。
イニシェリン島の精霊 The Banshees of Inisherin
2023年 アイルランド・イギリス・アメリカ合作 109分
★★★★
監督:マーティン・マクドナー
脚本:マーティン・マクドナー
出演:コリン・ファレル/ブレンダン・グリーソン/ケリー・コンドン/バリー・コーガン
「スリービルボード」のマーティン・マクドナー監督によるブラック・コメディ。アイルランドの孤島で、長年の友人から突然絶縁を宣告された男が関係の修復を試みるうちに、事態が奇妙な暴力へと発展していく。舞台設定や遠くで響く砲声からアイルランド内戦の隠喩として読むのが自然だろうが、対立の中身は結局のところ小さな男同士のすれ違いに過ぎず、政治的メタファーとしてはそれほど鋭いものではない。小さな共同体の中で暗黙のうちに共有されている協調の倫理を無邪気に信じる側と、それに耐えられなくなった側、その認識の差が理解されないまま、関係は恩讐の対立にまでエスカレートしていく。
映画が描いているのは、友情や共同体といった曖昧な関係が崩れたとき、幼稚なマチズモが増幅して共同体を壊していく滑稽で陰惨なプロセスだろう。とはいえマクドナーはそれを道徳的に断罪するわけでもなく、どこか奇妙な共感を残したまま突き放す。マチズモに対する批評性はほとんど感じられず、愚かさを愚かさと分かったうえでコミカルに描くところに、この監督特有のブラックなユーモアがある。マクドナーの映画はいつもそうだが、映画のテーマよりもただひたすら人間が壊れていく様子を眺める奇妙な快楽の方がはるかに強い。簡単に言うと性格の悪さが滲み出て面白いということ。
パワー・オブ・ザ・ドッグ The Power of the Dog
2021年 イギリス・オーストラリア・アメリカ・カナダ・ニュージーランド合作 128分
★★★★☆
監督:ジェーン・カンピオン
脚本:ジェーン・カンピオン/ベネディクト・カンバーバッチ/キルスティン・ダンスト/コディ・スミット=マクフィー/ジェシー・プレモンス
寡作で知られる『ピアノ・レッスン』のジェーン・カンピオンが10年ぶりにメガホンを取ったNetflix配給作品。キャリア30余年にして初のアカデミー賞監督賞受賞作。1920年代のモンタナを舞台に、カウボーイ精神とマチズモの継承者である牧場主フィルの抑圧的な振る舞いと、その背後に潜む秘められた欲望をめぐる周囲の人々との微妙な軋轢を描いたポリフォニックな西部劇。
前半の牧場主フィルの暴君ぶりから一転、後半はマチズモを体現するフィルと、繊細に見える青年ピーターの静かな対決へと移っていく。表向きは母ローズを貶めた男への復讐劇だが、ピーターの行動は感情よりも観察と計算に支えられている。フィルの弱点を見抜き、状況を整え、最終的に相手を排除するまでの過程はむしろ狩猟のような冷たい合理性を帯びている。
復讐のために冷静に策略を積み重ねていくピーターは単なる弱者ではなく、フィルの粗野なマチズモとは別の男性性の勝利とも読める。フィルの粗暴な男らしさが消えたあとに残るのは、より静かで知的な支配である。
「ピアノ・レッスン」と似通った題材だが、ここでは物語を動かし選択する女性の欲望は描かれず、二つの男性性の対決に焦点が絞られている。家父長制の解体というより、男性性の更新の物語として閉じてしまう点に微妙な後退も感じるが、世界観と構造の完成度にはカンピオンらしい力量がはっきりと表れている。
ファーザー The Father
2021年 イギリス・フランス・アメリカ合作 97分
★★★☆
監督:フローリアン・ゼレール
脚本:フローリアン・ゼレール/クリストファー・ハンプトン
出演:アンソニー・ホプキンス/オリヴィア・コールマン/イモージェン・プーツ/マーク・ゲイティス/オリヴィア・ウィリアムズ/ルーファス・シーウェル
認知症を患う老人の視点から世界の崩壊を描いた心理ドラマ。舞台劇を原作とする作品で、同一の室内空間や登場人物の入れ替わりを巧みに使いながら、記憶と現実の境界が徐々に曖昧になっていく過程を観客自身にも体験させる構成が見事だ。映像の主観が入れ替わる仕掛けはよく出来ており、観客は次第に何が現実なのかわからなくなっていく。途中でその構造に気づくとしても、それは欠点ではない。むしろ認知症というものの怖さを観客が実感するためには、こうした形で体験させる必要があるのだろう。
認知症という重いテーマを真正面から扱い、逃げずに描ききった誠実な作品であり、アンソニー・ホプキンスの演技も圧巻である。彼を介護する娘役オリヴィア・コールマンの存在感も見事。ただし題材の重さゆえ、映画として気軽に楽しめるタイプの作品ではない。優れた映画であることは疑いないが、観る側にかなりの負荷を要求する一本でもある。
エミリア・ペレス Emilia Pérez
2024年 フランス 132分
★★★★☆
監督:ジャック・オーディアール
脚本:ジャック・オーディアール
出演:カルラ・ソフィア・ガスコン/ゾーイ・サルダナ/セレーナ・ゴメス/アドリアーナ・パス/エドガー・ラミレス
フランスの名匠ジャック・オーディアールが、麻薬カルテルのボスが女性として生き直す決断をするという奇抜な設定をミュージカル形式で描いた異色作。犯罪映画、メロドラマ、ミュージカルが混ざり合う大胆なジャンル横断の作品で、カンヌ国際映画祭では審査員賞と女優賞(女優陣の共同受賞)を受賞。アカデミー賞でも有力候補と目されていたが、主演のカルラ・ソフィア・ガスコンの過去の差別的発言が掘り返されて炎上し、作品自体も思わぬ形で政治的論争に巻き込まれることになった。その影響もあって、メキシコ社会を麻薬と暴力のステレオタイプで描いているという批判など、公開後には様々な悪評も飛び交った。
ただ、映画として見れば、オーディアールらしい過剰な荒っぽさがそのまま魅力になっている。物語は途中までかなり大胆な設定を軽やかに転がしていくが、最後は結局ドンパチに雪崩れ込む。このあたりの乱暴さはまさにオーディアール的だろう。しかし同時に、性別を変えて生き直したいという変身願望と、子供たちへの愛情というきわめて根源的な欲望に従って生きる主人公の姿には、奇妙な解放感がある。すべてを美しく装飾しすぎていると言われれば確かにその通りなのだが、その過剰な装飾も含めて、この映画の持つ奔放なエネルギーの一部になっているように思える。
モーリタニアン 黒塗りの記録 The Mauritanian
2021年 イギリス・アメリカ 129分
★★★★
監督:ケヴィン・マクドナルド
脚本:M・B・トラーヴェン/ローリー・ヘインズ/ソフラブ・ノシルヴァン
出演:ジョディ・フォスター/タハール・ラヒム/シェイリーン・ウッドリー/ベネディクト・カンバーバッチ
2001年のアメリカ同時多発テロ事件の直後にテロリストとして疑われ、その後、米軍のグアンタナモ基地に収容され続けた実在の人物の手記を映画化した作品。天才俳優ジョディ・フォスターが久々に存在感を見せた映画。
モーリタニア出身のモハメドゥ・ウルド・スラヒはテロ発生2か月後突如逮捕され対テロ戦争で拘束された容疑者らを収容するグアンタナモ基地に収容されたあと、同時多発テロの首謀者の1人として告発されながらも起訴も裁判もされないまま長期間身柄を拘束されている。ニューメキシコの弁護士ナンシー・ホランダーはテロの戦いという美名の下、容疑者の人権が守られていない状況を憂慮し彼の弁護を引き受ける。
9・11後のアメリカが作り出した一方的な正義への傾倒を鋭く抉る法廷ドラマであり、拷問や恣意的拘束といった重いテーマを扱いながらも、映画としては比較的オーソドックスな構成に徹している。だが、その抑制された語り口がかえって、安全保障の名の下に法の原則の不在を静かに浮かび上がらせる。人権という近代国家にとって最も重要な原理原則が蔑ろにされる状況をただ糾弾するのではなく、抑圧する側の視点からも正統性への疑義を問う姿を描いたことで、法の理念と精神がどこで踏みとどまれるのかを問い直す物語として機能している。決して派手な作品ではないが、9・11後の世界を振り返る上で見過ごすことのできない一本である。
さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について Fabian oder Der Gang vor die Hunde
2021年 ドイツ 178分
★★★
監督:ドミニク・グラフ
脚本:コンスタンティン・リープ/ドミニク・グラフ
出演:トム・シリング/ザスキア・ローゼンダール/アルブレヒト・シューフ/メレット・ベッカー
児童文学作家として名高いエーリヒ・ケストナーの最初の大人向け小説「ファビアン あるモラリストの物語」の映画化。
ワイマール期の後期・ナチス台頭の前夜を時代背景にしたシュトゥルム・ウント・ドラング風の自己実現ストーリー。作家を志してベルリンにやってきたファビアンは退廃的な空気の中で自らの行く先に惑い、不安を抱えながらも、女優を目指す恋人コルネリアや唯一の親友ラブーデと織りなす狂騒と葛藤の日々を描く。コラージュ風に切り取られた映像のせわしなさと独特のカメラワークが居心地の悪さを掻き立てる、どこか扇動的な外形に反して内容はさほど深みもなく刺激も不足気味だ。
名作「ある画家の数奇な運命」に引き続いての競演となるトム・シリングとザスキア・ローゼンダールの現代ドイツを代表する名優コンビの演技の圧が作品の緊張感をギリギリ維持させているが、それでも3時間近い尺はさすがに長すぎる。ワイマール末期の退廃を描いた青春の迷走譚としては雰囲気は悪くないものの、映画としては少々気取りすぎた長編エチュードといった印象が残る。
ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女 Stella. Ein Leben.
2024年 ドイツ・オーストリア・スイス・イギリス合作 121分
★★★
監督:キリアン・リートホーフ
脚本:マルク・ブルーバウム/ヤン・ブラーレン/キリアン・リートホーフ
出演:パウラ・ベーア/ヤニス・ニーヴーナー/カッチャ・リーマン/ルーカス・ミコ
第二次世界大戦中、収容所送りを免れるため、ゲシュタポに協力して数百人に及ぶ同胞を密告によって収容所送りにした実在のユダヤ人女性スパイ、ステラ・ゴルトシュラークの半生を描いた作品。
ステラを演じるのは現代ドイツきっての演技派女優パウラ・ベーア。ジャズシンガーをめざし、自由と夢を追い求める奔放な少女が荒れた退廃的な生活の末裏社会との交流から転落していく過程が冷ややかに描かれている。
極限状況の中での人間の倫理的転落という重いテーマを扱いながらも、映画は彼女を単純な悪として断罪することも、安易に擁護することもしない。その慎重な距離感がこの人物の複雑さを浮かび上がらせる一方で、どこか踏み込みの足りなさも感じさせる。題材の重さに比して映画自体はやや平板だが、パウラ・ベーアの強い存在感が作品を最後まで支えている。
水を抱く女 Undine
2020年 ドイツ・フランス 90分
★★★
監督:クリスティアン・ペツォールト
脚本:クリスティアン・ペツォールト
出演:パウラ・ベーア/フランツ・ロゴフスキ/マリアム・ザリー/ヤコブ・マッチェンツ
水の精ウンディーネの神話をモチーフに、現代のドイツ・ベルリンで都市開発を研究する歴史家の女性と彼女を巡る二人の男性との数奇な関係を描くダークファンタジー。
現代の都市計画や歴史の中に神話が亡霊のように残っているというペツォールト一流のテーゼに沿って、水の近くでウンディーネを誹謗すると、彼女は水の世界の里に戻ってしまうという古来からの民間伝承を踏襲してはいるが、現代風への翻案の演出も含めてストーリーテリングは必ずしも親切ではなく混乱している印象は否めない。
最大の問題は幻影と現実の境界を曖昧にしたことで、映画の作りをファンタジーホラーにしたいのか、もう少しリアル寄りの心理ミステリーっぼく落としたいのか、最後まで中途半端に見える点だろうか。
神話を現代都市の歴史の再現の試みの中に呼び戻すという設定自体はペツォールトらしいが、ウンディーネという既に出来上がった「神話」に物語が引き寄せられた結果、彼の本領である現実と幻影の不安定な揺らぎはむしろ弱まってしまった。結果として本作は、美しい瞬間を持ちながらもどこか観念が先行した印象の残る作品となっている。
トリとロキタ Tori et Lokita
2022年 ベルギー・フランス合作 89分
★★★★
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ/リュック・ダルデンヌ
脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ/リュック・ダルデンヌ
出演:パブロ・シルズ/ジョエリー・ムブンドゥ/アウバン・ウカイ
ベルギーの名匠ダルデンヌ兄弟が、血の繋がらないアフリカ難民の少年トリと少女ロキタがまるで姉弟のように寄り添いながら、理不尽な運命に立ち向かっていく姿を描いたヒューマンドラマ。
ロキタがビザを獲得するため二人は偽の姉弟関係を偽装する。生きるために犯罪に手を染める。分断が進む世界の中で、社会からも、制度からも、人々の眼差しからも取り残される若い命の迸りと限界を残酷に描いた渾身の一作。
社会の片隅で生きる人々の姿をリアルに切り取って来るのはダルデンヌ作品の一貫したテーマではあるが、本作が衝撃的なのは、これまでかろうじて残されてきた救済の回路がここでは完全に閉じていることだ。出世作「イゴールの約束」以来の不法移民テーマだが、描写ははるかに直裁的で、現在の状況に対する彼らの怒りが明確になっている。ラストのトリの歌は一歩間違えば感傷的にも見えるが、彼らがこれまで安易な感動を避けてきた作家であることを思えば、むしろ救済の不在を静かに確認する行為のようにも見える。辛い映画だが、今の世界を考えるなら決して目をそらしてはならない一本だろう。
わたしは最悪。 Verdens verste menneske
2021分 フィンランド・フランス・デンマーク・スウェーデン合作 128分
★★
監督:ヨアキム・トリアー
脚本:エスキル・フォクト/ヨアキム・トリアー
出演:レナーテ・レインスヴェ/アンデルシュ・ダニエルセン・リー/ハーバート・ノードラム/ハンス・オラフ・ブレンネル
直感的な自分探しを続け職を転々とする三十路の女性の刹那的な恋愛選択が最悪な結果を生むダークなロマンスストーリー。
トリアー監督の新作のレビューでも書いたが、人間関係の描写をおろそかにしたままの自分語りが目立ち、極論すると、割と今風で共感を得やすい主人公への感情移入設定だけで「いいね♡」をつけてもらおうとするような姑息な映画に見え、印象は良くない。
敢えて美点を挙げるならば、それでも人は生きて行くという当たり前のテーゼを当たり前に描き切った点にあるが、そういう映画はたくさんあるので、特にこの映画が秀逸である理由にはならない。ゼロ年代の世代の気分をうまくまとめているのが良いらしいが、批評家だって馬鹿ばかりじゃないはずなのでそんな下らない理由だけでここまで評価は上がらないだろう。劣悪な映画ではないが、描かれているのは時代の「雰囲気」だけだ。そんな凡作がなぜここまで評価が高いのかわからないので理由を教えてほしい。
そして明日は全世界に Und morgen die ganze Welt / And Tomorrow the Entire World
2020年 ドイツ 111分
★★★★
監督:ユリア・フォン・ハインツ
脚本:ジョン・クエスター/ユリア・フォン・ハインツ
出演:マーラ・エムデ/ノア・サーベトラ/トニオ・シュナイダー
「旅の終わりのたからもの」でホロコースト映画に新境地を開いたユリア・フォン・ハイツがNetflixの資本で製作した2020年のWeb配信映画。右翼テロの攻勢が色濃くなるドイツで、上流階級出身の法学生ルイーザが反ファシスト集団に身を投じ、理念と恋情と集団力学に押されながら過激化していく。
彼女の関わる反ファシスト運動は、ネオナチに対抗する自衛と集団内部の高揚が暴力行為をエスカレートさせていき、国家からは刑法129条(犯罪組織認定)の対象として監視・摘発されうるものへと位置づけられていく。 その結果、法制度の枠内で闘う正統性は失われ、残されるのは基本法20条4項の「抵抗権」(ほかに救済が不可能なとき、秩序破壊を企てる者に抵抗する権利)だけになる。
本作は相対主義冷笑者が陥りがちな「左右どっちもどっち」という立場は取らない。反ファシズムの正しさを些かも疑ってはいない中で、正しさが治安への脅威との烙印を押され、正義の適法性が失われる絶望の構造を描く。ラストの戦闘の決意はナチスの生の記憶が息づく国と時代でしか成立しにくい、遅すぎる決意宣言となる。
タイトルの”Und morgen die ganze Welt ”はナチス時代の流行歌”Es zittern die morschen Knochen”(腐った骨)の一節"Denn heute gehört uns Deutschland, und morgen die ganze Welt."(なぜなら、今日はドイツが我らのもの、明日は全世界が我らのものだからだ)からインスパイアされたもの。そうなってからでは遅いのだ。
帰れない山 Le otto montagne
2022年 イタリア・ベルギー・フランス合作 147分
★★★★
監督:フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン/シャルロッテ・ファンデルメールシュ
脚本:フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン/シャルロッテ・ファンデルメールシュ
出演:ルカ・マリネッリ/アレッサンドロ・ボルギ/エリザベッタ・マッズーロ/フィリッポ・ティーミ/ エレナ・リエッティ
少年時代の夏を山小屋で過ごした二人の少年が築いた固い絆と生涯埋めることができなかった溝の深さを、親子の関係性や山の険しさと絡めて描いたヒューマンドラマ。
隠された父の愛、男同志の友情、超常的な「自然」との融合、中途半端なオリエンタリズム…と、マチズモ丸出しのクサい要素が満載で、山で死ぬ必要性も何の説得力もないのに、最後まで呆れずに見られるのは、アルプスの山の険しさの描写の秀逸さに負うところ大。
その意味では、本来父と子の映画になるはずだったが、いろいろな要素を詰め込み過ぎた結果変なマチズモに引きずられた山の映画になってしまってるとまで言うと酷だろうか。
父との関係を断って人生の旅を続けるピエトロの自分探しの旅はいかにも頭でっかちな都会の中産階級のステレオタイプながら一種の成長譚として帰結しているが、山に留まり続けるブルーノの描かれ方は自滅願望のようなものが強く、やや単調に感じられる。
観終わってみると、少年時代の山小屋のエピソードが一番映画としてよく出来ているように思えるのも少し惜しい。とはいえ、風景と時間の重みを感じさせる映画としての強度は高く、粗さも含めて印象に残る一本ではある。
コット、はじまりの夏 The Quiet Girl
2022年 アイルランド 95分
★★★★☆
監督:コルム・バレード
脚本:コルム・バレード
出演:キャサリン・クリンチ/アンドリュー・ベネット/キャリー・クロウリー
アイルランドの片田舎の大家族の中で、父からは蔑まれ、母からは愛情を受けられずに孤独を感じていた9歳の寡黙な少女が、母の出産までのひと夏の間、預けられた親戚の家で真の家族の温かさを体験する珠玉のヒューマンストーリー。「公用語」である英語だけではなく、関係性の言語として共同体の「母語」であるアイルランド語が象徴的に使われているのが効果的(父は英語しか喋らず、母と里親たちはアイルランド語を話す)。
ストーリーとしては単純すぎるほど単純で、それ以上特にひねりもない。コットを取り巻く貧困や家庭環境は何一つ解決していない。それでもラストには確かな希望が残る。この「何も解決していないのに希望だけが生まれる」という構造こそ、この映画の力だろう。コットが経験するのは、名前を呼ばれ、愛情を注がれ、静かな時間を共有するという、ごく小さな関係の記憶に過ぎない。しかしその記憶は確実に彼女の中に残る。ラストの疾走は、観客とキンセラ夫妻、そしてコットの間にだけ共有される記憶の迸りのような奇跡的な瞬間であり、映画という表現の力を静かに証明する美しいエンディングだった。名作。
ヨーロッパ新世紀 R.M.N.
2022年 ルーマニア・フランス・ベルギー 127分
★★★☆
監督:クリスティアン・ムンジウ
脚本:クリスティアン・ムンジウ
出演:マリン・グリゴーレ/ユディット・スターテ/マクリーナ・バルラデアヌ
「4ヶ月、3週と2日」でカンヌのパルムドールを獲得し、新世代の欧州映画の旗手となった感のあるルーマニアの鋭才クリスティアン・ムンジウが、2020年にルーマニアで実際に起きたディトラウ外国人排斥事件を題材に、欧州を席巻する排外主義と、欧州各地で進むクマの駆逐と保護運動を連動させてドキュメンタリー風に描いた問題作。
森、熊、移民、ハンガリー系住民とルーマニア人、そして無言になる子どもまで、「共同体の外部」に対する反応が様々な形で反復され、排外主義の感情がどこから生まれるのかを淡々と観察していくかのような構造になっている。テーマは多岐に亘るように見えるが、描いているものはほぼ一つで、共同体が異物にどう反応するかという生理的な反射反応でしかない。鋭い視点や独創性があるわけでもなく、映画としての構成も比較的整理されており、言われているほどの難解さは全くないし、深さもない。さらに言えば、排斥の論理に対する批判や糾弾よりも、集団心理の観察に重心が置かれているため、社会批評としての弱さは否めない。それでも、差別の根にある畏れの感覚を浮かび上がらせる構造の提示は効果的で、一定の胆力を持った作品と言えるだろう。
more to come…(近日公開予定)
その他、2020年代のヨーロッパ映画の名作のレビューはこちらにもあります
★★★★★ 映画史に残る名作、必見
★★★★☆ 傑作、見ないと損
★★★★ 秀作、見るべき
★★★☆ 快作、見た方がいい
★★★ 良作、見る価値あり
★★☆ 佳作、悪くないので見て損はない
★★ 凡作、時間があれば見てもいいかも
★☆ 迷作、色々ダメだが見たいなら止めない
★ 駄作、ダメな映画のサンプルとして見るなら止めない
☆ 愚作、人生の苦難に耐える訓練として見るなら止めない
💀 見るべき理由が一切ないゴミ、時間の無駄
ヨーロッパ映画の感想はこちらもどうぞ
