作る女と食べる男のプロフェッショナルでプライベートな互換関係 あるいは【映画レビュー】「ポトフ 美食家と料理人 / La Passion de Dodin Bouffant」 (2023)
ポトフ 美食家と料理人 La Passion de Dodin Bouffant
2023年 フランス 134分
★★★★☆ (傑作、見ないと損)
監督:トラン・アン・ユン
脚本:トラン・アン・ユン
出演:ジュリエット・ビノシュ/ブノワ・マジメル/ボニー・シャニョー=ラヴォワール


日本における美食、いわゆるグルメの歴史というのはそれほど古いものではない。
「グルメ」という言葉が一般的になるのは1980年代初頭だ。
「美味しんぼ」がグルメブームを作り出したように思われているが、実際は違う。
あれは山本益博という演芸評論家が1980年に出したグルメ本が先鞭だった。
山本益博に代表されるどこか偉そうなグルメ評論家のパロディ的なコミックとして「美味しんぼ」はスタートした。
なんとなく時系列がごっちゃにされてるきらいがあるのだが、グルメブームとバブル景気は重なっていない。
グルメブームが先行し、バブル時代になってHanakoがイタめしを流行らせた。
「グルメ」はフランス語なので本流はフレンチだったのが、Hanako以降はおしゃれディナーというとイタリアンがメインになる。
プレバブルの「見栄講座」はフレンチを取り上げてるけど、バブルを描いた「バブルでGO!」に出て来るレストランはイタリアンだ。
「料理の鉄人」はいかにもバブルの産物っぽいが、放映がスタートしたのはほぼバブルが終わりかけていた1993年。
ここでは「フレンチ」が復権、鉄人の一人に名を連ねている。開始当初「イタリアン」の鉄人はおらず、登場するのは4年後のことになる。
イタリアンはオシャレでバブリーだけど、蘊蓄垂れるような美食の対象じゃない、ということだろうか。
ということで(例によって本筋とはあまり関係ないが)、これは蘊蓄満載の美食の本場フランス産のグルメ映画。
映画で蘊蓄だけ語っても仕方がないので、料理を通した人間関係を描くのが主題となる。食は人間の根源的な欲求に根差したものなので、食を描けば、そこに関わる人たちの関係も自然と浮かび上がってくる。
監督のトラン・アン・ユンはベトナム出身のフランス人。ベトナム人少女の日常を描いた長編商業映画デビュー作「青いパパイヤの香り」が代表作だが、日本では「ノルウェイの森」やキムタクが出てた「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」の監督さんとしての方が通りが良いだろうか。
「青いパパイヤの香り」は極めて台詞が少ない上にBGMも殆ど使われておらず、虫の声や雨音などの自然の音と、火をくべたり洗濯したりする生活音の響きが前面に出た見事な作品だったが、本作は台詞こそ普通にあるものの、劇中のBGMは一切ない。素材を切り、湯を沸かし、火で炒めるといった調理シーンの音を存分に響かせるのが、映画の構成上の重要な要素になっている。その意図は十分に成功しており、官能的にすら聴こえる料理シーンの音が、ややもすれば感傷に傾きがちな物語の進行に深い味わいを付与している。
舞台は19世紀末のフランス。名を成した美食家と、彼を陰から支える天才料理人の愛の物語。
同じくフランス映画の「デリシュ!」やラッセ・ハルストレム監督の「マダム・マロリーと魔法のスパイス」、ブラッドリー・クーパー主演の「二ツ星の料理人」など、食を描いた映画の中でもフランス料理を題材にした映画は多いのだが、それらはいずれもレストランを開くシェフを舞台にしたものだ。不特定多数の人に食べさせるために食を追求する人の物語である。
この映画はそうではない。
食べる男と作る女の話である。
と書くと、今日的なフェミニズム的視点からはアウトなのだが、一概にそうも言いきれない独特な関係性をこの二人は築いている。
「食べる男」ドダンは食に関して天才的な感覚を持っており、日々新たな味を閃いている。彼の閃きを実際の料理の形に落とすのが「作る女」ウージェニーだ。
この二人は表面的には雇用主と従業員という関係に近いものの、数十年にわたり生活を共にし、食を介して感覚や生を共有してきた相互パートナーである。法的には結婚していないが、互いの存在なしには成り立たないほど密接な関係を築いており、夫婦以上に親密でありながら、微妙な距離を保つことを選んでいる。この距離感こそが、単純な愛の物語ではなく、共依存的な複雑性をもった関係を成立させている。
ウージェニーとドダンの関係を単純な恋愛関係に当てはめることは難しい。二人は互いに愛情を持ちながらも、結婚や社会的承認を拒否するという特異な関係を選んでいる。この形態は一種共依存的ではある。
ドダンは美食家として卓越した感性を持っているが、それを具体化する手法は持たない。彼の理想を具現化し、食の芸術に昇華させるのは常にウージェニーだ。つまり彼の生き様は彼女の料理技術なくして成立しない。彼が彼女を求めるのは愛情であると同時に、生の充実のための必然でもある。
一方のウージェニーは、料理人として究極の技を発揮する場をドダンによって与えられている。単に客に料理を提供するのではなく、ドダンという理解者・批評家・パートナーとインタラクトすることで、彼女の技術は芸術の域にまで到達している。彼女にとってドダンは、自分の存在意義を最大限に引き出す相手であり、まさに鏡のような存在である。
このように、両者は互いに依存し合い、相手を必要とすることで自己を確立している。これはロマンティックでセンチメンタルな甘美さを帯びつつも、どちらか一方が欠ければ成立しない危うさを孕んでいる。
さらに言えば、この共依存には支配と非支配の力学が潜んでいる。
表面的には男性であり社会的地位を確立しているドダンが立場上優位に見える。だが、彼は実際に彼のコンセプトを形にするウージェニーなしではその社会的地位を維持できない。
「食べる」ドダンが「作る」ウージェニーを支配しているように見えるが、実際には逆なのだ。
彼は幾度もウージェニーに結婚を申し込み、彼女との精神的結合を法的・制度的に保証するとともに、自分の妻としての社会的地位を確定させようと試みる。それは当時の制度下においては、男尊原理に基づいて支配と被支配の関係を確定させる法的処置であり、ドダンにとっては、合理的な提案だが、ウージェニーにとってはそうではない。
19世紀末のフランスの結婚制度において妻の権利は保証されておらず、夫の許可なく自分の財産を処分できないなど、妻を法的無能力者と規定していた。妻は夫の従属物と見られていたのだ。
劇中では語られないが、当時の婚姻という制度は自立可能な女性にとっては束縛でしなかった。
ウージェニーがドダンの愛を受け入れながらも、結婚という形式を拒み続けたのは、彼女のプロフェッショナルな料理人としてのプライドと信念故のように描かれるが、そもそも婚姻制度が持つ性差の不平等を受け入れる合理的な理由がウージェニーにはなかったのだ。
ドダンは、ウージェニーの拒絶の理由を理解しており、愛する人を支配することと愛に基づく対等な関係を尊重することの間で葛藤する。この構図は、二人の関係が単純な上下関係や恋愛関係に収まらないことを示している。
ただ、ウージェニーが今日的な意味での「自立」した女性かというと、必ずしもそうではない。
彼女の才能はドダンの類まれなる発想があってこそ発揮できるものであり、ドダンから完全に自立してプロフェッショナルな料理人として生きて行けるわけではない。この微妙な共存と非対称性が物語の基調となっている。
物語の転換は、来仏中のユーラシア皇太子がドダンとその仲間たちを晩餐に招くことから始まる。
来仏中のユーラシア皇太子が主催した豪華な晩餐は、大量の良質な食材を惜しげもなく使い、技巧も凝らされているが、ドダンの目には「豪華なだけで何の哲学もなく、提供の順序も適切ではない」と映る。
第一部から第三部まで都合8時間以上振舞われたという晩餐は、当時の常識で考えても過剰に華美で非常識なものであったのは間違いないが、この常識外れな催しは決して皇太子の悪意に基づくものではない。おそらくは自らの権勢と財力を誇示するという目的はあったものの、当代きっての美食家であるドダンを歓待する目的だったことは疑いようがない。
ドダンはここで「食」の基本に立ち返る。
食とは何のためにあるのか、その問いが、彼にフランス家庭料理の象徴「ポトフ」を皇太子に振る舞うという着想を与える。豪勢で奢侈な装飾を排した一皿にこそ滋味と深みがあり、哲学が宿るという逆説的な理念がここでドダンの意識の中に生まれる。
その矢先、ウージェニーが病に倒れる。
ここで二人の関係の力学は大きく変化する。これまで「作る女」であった彼女が料理できなくなると、ドダンが自ら厨房に立ち「作る男」となって、愛する人のためにポトフを調理する。ウージェニーは初めて「食べる女」になる。
皇太子に振る舞う予定だった「哲学の一皿」が、この場面では愛そのものを象徴する料理に変わるのだ。役割の逆転は象徴的であり、支配と依存の構造を揺るがす。ドダンは受け手から支え手へと転じ、ウージェニーは初めて弱さをさらけ出す。この瞬間、二人の関係は単なる依存の連鎖から、互いの存在を認め合う相互承認的な関係へと昇華する。つまり、美食の哲学的深化と個人的な愛の物語が「ポトフ」という料理を媒介に重なり合うのである。
物語は、「食べる女」を経験したウージェニーが「作る男」の役目を果たしたドダンの求婚を受け入れるというやや安直なメロドラマ的展開を見せた後、予定調和のようなウージェニーの逝去をもって二人の関係性の終わりが訪れる。
本格的に料理を学びたい、という天才少女ポーリーヌの希望は果たされることなく終焉を迎えるのかと思いきや、ラスト直前でドダンのお眼鏡に敵う料理人が突如発見され、ウージェニーとの関係はストーリー上では婚姻という形で書類上に残る過去のものとなる。
「作る女」の代わりは見つかったが、「食べる女」にはなりえない。
映画はその答えを語らないが、そう信じたい。
少なくとも、料理という文化は人から人へ継承され、ウージェニーの不在の後にも続いていくのである。
本作は、美食を官能的に描くことで聴覚を中心に観客の感覚に訴えると同時に、心理的な繊細さや人間関係の複雑さも描き出す。料理の描写は素材の選別から調理、盛り付けに至るまでリアルで、見ているだけで匂いや味が想起される。しかし本質はそこにとどまらない。料理を通じて描かれるのは、人がなぜ他者を必要とし、なぜ縛ろうとし、なぜ縛られたくないのかという普遍的な問いだ。
二人の関係は最後まで破綻せず、むしろ病や弱さを通じて深まっていく。共依存は時に破滅をもたらすが、ここでは縛らずに依存し合うことで成熟する。ウージェニーの自由は守られ、ドダンの愛は尊重される。その微妙なバランスこそがこの作品の肝なのだ。
ラストシーンで、ウージェニーの「私はあなたの妻?それとも料理人?」という問いかけに対し、ドダンは「料理人」と答え、ウージェニーもそれに満足する。ウージェニーほどすぐれた才能の持ち主は、この時代には「妻」にはなりえない。それをお互い理解していながら、敢えて婚姻という「形式」を二人の関係に刻んだのは、「食べる男」と「作る女」の束の間の逆転現象がもたらした一瞬の煌めき故なのだろうか。
ウージェニー役を務めるのはジュリエット・ビノシュ。ドダン役のブノワ・マジメルとは、かつて私生活で結ばれ、娘をもうけた関係にある。長年の別離を経てスクリーン上で再び顔を合わせた二人が、熟練の俳優として見せる呼吸の合致は、さすがプロフェッショナルといった趣である。
本作は、美食を描いた映画としての官能的魅力だけでも十分に価値があり、そのように消費することも可能な作りになっている。
だが、見終わった後に残るのは、もちろん、料理の香りや味のイメージだけではない。この作品は、人が愛と自由のバランスをどう保つかという古典的な問いを突きつけている。答えがあるわけではない。
映画のような二人の関係が人間関係の理想だというつもりもない。あんな緊張感に並みの人間は耐えられないだろう。
だが、こんな風に「二人で」老いることができたら幸せだろうな、という羨望が芽生えたとしても故なきことではないだろう。
その程度には巧妙な作りになっている。
手遅れになりつつある壮年の人たちよりも、若い人にこそ見てほしい映画だ。
