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【劇場映画鑑賞記】【映画短評】「旅の終わりのたからもの / Treasure」(2025)

旅の終わりのたからもの Treasure
2025年 ドイツ・フランス合作 112分
★★★★☆ (傑作、見ないと損)
監督:ユリア・フォン・ハインツ
脚本:ユリア・フォン・ハインツ/ジョン・クエスター
出演:レナ・ダナム/スティーヴン・フライ/ズビグニェフ・ザマホフスキ



日曜日(1/25)、娘夫婦と四谷三丁目の完全予約制の有名ラーメン店で昼飯を食べることになったので、その前に新宿で一本映画を観ようと思い立ち、ほとんど事前情報なしに観てみた一本が思いのほか秀作だった。
何だか得した気分である。
いかにもキノフィルム配給らしい、地味ながらシネフィル魂を確実に刺して来る感じの逸品である。


ホロコーストのサバイバーの父を持つオーストラリアの著名作家リリー・ブレットの半自伝ベストセラー小説「Too Many Men」の映画化。
Inspired by the true storyと銘打たれているとおり、原作の設定は作者の体験に基づいている。1991年のポーランドを舞台に、アウシュビッツを生き抜いた父と、自らのルーツを探し求める娘の、どこかちぐはぐな二人旅を描いたロードムービーである。
原作の設定とメインストーリーを踏襲しつつも原作の重要なモチーフとなっていたファンタジックな設定を排して、リアルなヒューマンドラマとして再構築している。
監督も演者も知らない人ばかりの作品だったが、設定的に「リアル・ペイン〜心の旅〜」の親子版っぽい感じなので外れはないだろうと読んで、暇つぶしに鑑賞することにした。
正解だった。
「リアル・ペイン〜心の旅〜」もとても素晴らしい傑作ロードムービーだったが、此方は旅行者の関係性が親子だけに距離感がさらに近く、歴史の重みと家族の絆のリンクがさらに濃厚になっていて、あざとい。若干ベタつく感触はあるが、しつこさはなく、程よい塩梅の情緒があって心地よい。

ポーランドに出自を持つユダヤ系アメリカ人の親子が祖国ポーランドで自らのルーツと向き合う旅程を描いた映画で、形式的には典型的なロードムービーではあるのだが、登場人物は多く、エピソードもそれなりに豊富。起伏に富んだストーリーとまでは行かないが、平坦で直線的なしみじみ系ではない。尺の割には若干詰め込みすぎでごちゃつくところもあり、ロードムービーとしては必ずしも完璧な出来栄えとは言えないかもしれないが、その分観るものを飽きさせない展開となっているとは思う。


親子が主役のロードムービーなので、テーマはもちろん親子の絆である。

ニューヨークで生まれ育った娘ルーシーはジャーナリストとして一定の成功を収めているが、私生活では離婚して孤独な生活を送っている。一方アウシュビッツから逃れて新天地アメリカへと渡り人生を謳歌しているかに見える父エデクも、1年前に愛する妻を失った悲哀を隠せない。
両親のホロコースト体験を知らずに育ったルーシーは民主化され開かれた国となった両親の祖国ポーランドへと自らのルーツ探しの旅に出るが、心配したエデクがついて来てしまうことから物語は波乱含みのものとなる。
自由奔放で行き当たりばったりのエデクと神経質で細かいルーシーの関係は「リアル・ペイン〜心の旅〜」の従兄弟二人の関係と似通っていて微笑ましいが、こちらの二人は親子であり、一方は悲劇の直接経験者なので「珍道中」と笑い飛ばしてしまうのはどこか憚られる。このコミカルさとしんみり感が同居する微妙なバランス感覚がとても良い。

ホロコーストの直接の体験者でありその過酷な体験を生き延びたサバイバーである父と、アメリカで生まれ育ちホロコーストを「読み物」でしか知らない娘の「祖国」や「ルーツ」に対する感覚の差が随所に見られ、それがすれ違いを産んでいく様が軽妙なタッチで描かれる。物語を貫く父娘の関係の微妙さの最大の要因は最後に解き明かされるのだが、その齟齬も含め、世代を超えて受け継がれる歴史の記録と記憶の重さを上手く処理している傑作だと思う。

原題となっている”Treasure”は、劇中で触れられた、コートや写真や権利書やその他の諸々の思い出の品々の「記録」を指すだけではなく、それらに関する「記憶」の積み重ねを意図したものなのだろう。さらに言えば、エデクにとってそれは、娘のルーシーの存在そのものなのかもしれない。

記憶と記録は歴史の残酷さの中でも、決して潰えることなく続いて行く。
エデクの一家が連行されて空き家となった部屋に非合法的に居着いたポーランド人家族は50年の月日を経てなお、移住当時の遺物を捨てずに残していた。ご都合主義にも見えるが、おそらくは非ユダヤ系のポーランド人としても決して簡単には遺棄できない「記録」の象徴だったのだろう。
映画の終盤、ルーシーが渡したコートをエデクが一瞬で自分の父のものだと認識するのも、現代の我々の目から見るとやや不自然さを感じる演出だが、それもまた当事者として「記憶」から決して消すことができないレガシーとして描かれている。

記憶から消したいもの、しかし記録として残さなければならないもの。誰かが語らなければならないもの。世代を超えて語り継いでいくべきもの。
誰かが引き受けなければならないのだけど、それを継いで行くのは時として途轍もなく辛く、しんどい。その辛さに耐えられなかったエデクは、その「記憶」の重さゆえに、最も貴重で愛すべき「記録」であるはずのルーシーと向き合うことができなかった。

彼の型破りで奔放な生き方は、悲しい記憶をやりすごすための一種の防衛本能であると同時に、悲しみを次の世代に継承しないことを選択する確固たる信念だったのかもしれない。
けれど、娘は、父とその悲しみを分かち合いたかったのだ。
そんな風に、お互いへの配慮が、すれ違いを産んできたことを二人は最後に確認し、理解し合う。
それは救いでも解放でもない。
二人が同じ場所で、同じ記憶を分かち合った「記録」として刻まれるものだなのだろう。


物語の舞台となった1991年頃は、ソ連の支配から「解放」された東欧諸国への西側からの観光客が飛躍的に増加した時期であり、とくにアメリカから多くのユダヤ人がアウシュビッツを訪れそのルーツを探訪するのが一種のブームになっていた。ルーシーの旅にはそういう背景がある。そして、劇中で何度も言及されるアウシュビッツ「博物館」という呼称は、ポーランド人から見るとアウシュビッツが一種の観光資源であり、外貨獲得の有力なリソースとして認識されていたことを伺わせる。
それもまた記録と記憶の齟齬の一例だ。
アウシュビッツという「記録」を悲劇として消費しようとする人たちを、ルーシーは強く非難する。だが、彼女もまたそれを「記録」としてしか認識できていないのだ。彼女はそれを「記憶」として共有したい。だが、実際の「記憶」を持つエデクは共有を拒否し続けていた。
実際に其処を訪れ、耐えがたい「記憶」が呼び覚まされるまでは。

この映画の舞台となっている1991年には、まだ直接あの悲劇を語ることができる人たちが生きていた。
今はもうほとんどいないだろう。
だが、この映画を作った監督も原作を書いた作者も、いずれも肉親から直接の「記憶」を「記録」として語り継がれた人たちだ。だから80年経ってそれを生々しい「記憶」として描くことができるのだろう。
本作のような歴史の惨劇に関する優れた映画を観ると、語り継ぐことの重要性を痛感する。
「関心領域」のレビューでも書いたが、ヨーロッパの作り手は近年もホロコーストの悲劇を語り継ぎ続けている。
翻ってみると昨年日本の映画界でも久々にナガサキを描いた映画が公開された。だが、ほとんど話題にならず、続く作品もなさそうなのは時代の空気なのだろうか。少々暗澹たる気分になる。


監督のユリア・フォン・ハインツという人は全く初めて聞く名前だったが、ネットで調べてみると、社会的なメッセージ性をもった作品をきちんと描ける監督さんのようだ。前前作の「そして明日は全世界に」はネトフリで観ることができるようなので、見てみたい。

主演の二人は自分にはあまりなじみのない俳優さんだったのだが、いずれも見事な好演だ。
ルーシーを演じたレナ・ダナムの、妙に几帳面なのにどこか抜けててダメなパーソナリティの表現は秀逸で、彼女の存在感がややフラフラしがちな物語を引き締めている。
一方で父エデクを演じたイギリスのベテラン俳優スティーヴン・フライの飄々とした変な訛り(ポーランド訛りと言う設定?)の語り口がいかにもアメリカンなルーシーとの対比でチェンジ・オブ・ペースを作り出していて安心感がある。
こういう地味な役者さんが活躍する映画は見応えがある。
隠れた名作として、密かに語り継いでいきたい。



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