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【完結】ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第一話〖いのちと春暁・二〇二四年 四月十日〗#創作大賞2025  

〖あらすじ〗
母袋海音もたいかいねは、母親の命と引き換えに生まれた。胚培養士となった海音は、不妊治療の最前線で、様々な命の始まりと向かい合う。

「神の手」を持つ先輩胚培養士の芽衣に師事し、芽衣の夫で医師の河瀬に淡い思いを抱きながらも、技術を磨き成長していく日々。

その矢先、初めて担当した命に悲劇が訪れ、海音は胚培養士として生きる意味を問い直すことに。不妊治療は、本当に人を幸せにするのか。家族をもつ意味とは。

母のように慕う恩師、ハツ先生が営む喫茶店での偶然の出会いがきっかけで、海音は自らの出生の真実を知る。母が最期に遺した言葉を知った海音が見出した答えとは。喪失の中から立ち上がり、再生へと向かう、お仕事ヒューマンドラマ。


産声を上げるずっと前に、温かな海の中で始まる命がある。透明なディッシュの中の、培養液の海だ。今日、母袋海音もたいかいねは、胚培養士になって初めて、体外受精を任された。顕微鏡を覗き込み、目の前に広がるミクロの世界のあまりの静謐さに、海音は息を飲む。

直径約八分の一ミリメートルの卵子の周囲には、ゼリー状の卵丘細胞らんきゅうさいぼうが、分厚い壁のように立ちはだかっていた。卵丘細胞に守られた卵子は、雲間から見え隠れする太陽のようだ。

卵子が精子と融合することで、生殖細胞は命となる。すべてのいのちは、たった一つの、ガラス細工のように輝く受精卵たまごから始まる。

一度始まれば、命は前にしか進まない。決して後には引き返せないのだ。

海音は、手が震えていないことを確認した。胚培養士の両手は、微細な空間で卵子と精子を受精させ、「命を始める」ためにあるからだ。

『落ち着いて。イメージ通りにやれば大丈夫』

心の中で自分自身に言い聞かせ、海音はマイクロピペットを握って、ディッシュの上で構えた。いよいよ、卵子と精子が出会う時が来たのだ。

海音は、ピペットに力を込め、ディッシュの中に精子を放った。数は、十万。吐出された精子たちが、培養液の中で踊る。精子たちは、ただ一つの卵子に到達するため、卵丘細胞に群がり、競い合うように壁を分解し始めた。

『頑張れ』

海音は心の中で呟くと、瞬きをした。鞭毛べんもうを揺らして精子たちが懸命に泳ぐ、バシャバシャという音が聞こえた気がしたのだ。

「外的環境に晒す時間は最小限にすること。速やかにディッシュに蓋をして、インキュベーターに入れてください」

すぐ左後ろで、低く落ち着いた声がして、はっと瞳孔が縮む。海音の上司である、北都大学病院リプロセンターの室長、松居健吾の声だ。海音は頷くと、ディッシュに蓋をし、両手で丁寧に包んで、インキュベーターに入れた。母胎内の環境を再現したインキュベーターは、いわば赤ちゃんの卵たちの保育器だ。

「松居室長、ご指導ありがとうございました」
「お疲れさまでした。受精確認は、明日朝です。明日のために、まずは培養液を準備しましょう」

マスクと帽子の間から覗く、松居の目は、優しいが鋭い。松居の言葉に頷き、海音は、精子を選別したり、卵子や胚を育てたりするための、様々な培養液の調合に取り掛かった。身長百九十センチの、どっしりとした体格の松居は、外見からは想像ができないほどに手先が器用だ。室長に相応しい確固たる技術と優れた判断力を持ち合わせる松居を見ていると、海音は深く安心する。

患者の目に触れることがない、病院の奥地の培養室ラボで過ごすことにも慣れた。塵一つない培養室には、いつも機械のモーター音が微かに響く。

明日に向けて一通りの準備を終えた帰り際、インキュベーター内部の温度や湿度、炭酸ガスの濃度を確認した。

「頼んだよ、相棒」

海音は呟くと、培養室のLED灯を消した。

春の空気は、乳化したようにうっすらと白く霞んでいて、芽吹いたばかりの草木の匂いが甘い。息を吸って存分に肺を春の匂いで満たしながら、海音は駅に向かって北都大学のキャンパスを歩いた。北海道の南西部に位置する北都大学は、自然公園のようで、散歩やピクニックを目的として多くの市民が訪れる。最新の研究施設と、原始林や草原などの自然が共存するキャンパスは、まさに都会のオアシスだ。まだ葉を茂らせていないニセアカシアの並樹を仰ぎながら、毎年初夏に放たれる甘美な芳香を想像する。

大股で歩いていると、耳に残った声がまた脳内で再生されて思わず立ち止まった。体外受精を行った卵子の主で患者の、間宮汐里まみやしおりの掠れた涙声だ。

『培養士さん。お願いします。私、赤ちゃんが欲しいんです。他には何も要らない。私と夫との赤ちゃんが、どうしても欲しいんです』

卵子を採取する前に、海音が汐里に挨拶に行った時のことだ。汐里は、濃紺色のスクラブ姿の海音を見るなり、ぼろぼろと涙をこぼして泣いた。血の気が引き、取り乱した顔に、涙にぬれたショートボブの髪の毛が貼り付いていた。普段の汐里が、知的で清楚で、静かに落ち着いていることは容易に想像できた。汐里は、祈るように、胸の前で両手を組んでいた。海音の肩に預けられた責任が、重力を歪ませているようだった。

四十二歳の汐里はとても痩せていて、排卵周期は極めて不安定だった。これまでタイミング法や人工授精を試みてきたが、妊娠には至らなかった。十歳年下の夫の精子の形状や運動能、数に問題はない。つまり汐里の卵子さえ得られれば、卵子に精子を振りかける媒精法ばいせいほうという体外受精によって、妊娠が成立する可能性があるのだ。

汐里は、排卵を促すため、過酷なホルモン治療を続けてきた。仕事と家庭の両立を維持したままで、二年間だ。毎日自分で打つ頻回の注射や服薬による体調の揺らぎは、想像を絶するものだったはずだ。汐里の職業は、大学の研究職だと聞いている。不妊治療と研究の仕事が並列で進む日々の過酷さは、想像に難くない。

赤ちゃん。汐里をここまで追い込んだ、聖なる存在。汐里は、切実に、狂おしいほどに、妊娠の成立に焦がれ、子供を授かりたいと望んでいた。

不安な一夜が明けた。海音は早まる鼓動と共にインキュベーターを操作し、画像を確認した。卵の中に、仲良く並んだ二つの丸い核が見える。受精の証だ。受精状態が気になって眠れなかった海音は、深い安堵のため息を吐いた。

事務室に急ぎ、早速、汐里に電話をする。たった一回の呼び出し音の後、汐里の不安げな声が聞こえた。

「お預かりした卵子ですが、本日、無事受精を確認いたしました」

汐里が、電話口で嗚咽する。

『ずっと先が見えなくて。お金もどんどんかかるし、このまま赤ちゃんが来てくれなければ、どうなっちゃうんだろうって不安で。でも、私、今度こそお母さんになれるのかしら』

汐里の「お母さん」という発音があまりにも温かくて、海音の心の水底みなそこがむせ返る。どうか、お母さんも赤ちゃんも無事で生まれて。受話器を握りしめ、喉元まで出かかった声を、何とか飲み込んだ。

海音は、母親が死んだ日に生まれた。母親の命と引き換えに。海音は、母親の顔を、肌を、声を知らない。

受話器を置き、事務室の窓ガラスに映った自分の姿と目を合わせた。色白で、少し離れたつり目の海音自身が、泣き出しそうな顔をしていた。気持ちを逸らそうと、窓を鏡代わりにして髪を結び直したが、意識とは関係なく涙は溢れる。

息を吸って、両手を見つめ、開いたり閉じたりした。この体は、かつては一個の受精卵だったのだ。温かく暗い子宮の中で、生まれるまで守られてきた命なのだ。

「ママに会いたい」

いつもの独り言がトリガーとなった。追憶の果てから蘇ってうごめく、形のない極彩色の感情が、頭を乗っ取ろうとする。生まれるまで海音を守り通した母親の白い頬が、黄泉の沼から生え出た何本もの黒い手に攫われ沈んでいく。

思い切り窓を開けて風を浴びた。わずかな残雪と土の匂いを乗せた春風が、頬に冷たい。

海音は、かつての自分自身と出会いたかった。受精し、分裂し、母親の胎内で守られ育った自分自身の姿を、顕微鏡を覗き見つめ続けたかったのだ。それは、胚培養士になるには十分すぎるほどの理由だった。

病院の庭のハクモクレンに視線を移す。ハクモクレンは、白い蕾の先を天に向け、冬の眠りの終わりを高らかに歌っていた。春が来たのだ。この世界に、海音が始めた生命が存在しているのだ。

生きている。一度だけではない何度もの奇跡が重なって、自分というこの体は、心は、今この時、生きてこの世に存在している。

乱れた感情が嵐のように頭の中で吹き荒れた。海音は両手で顔をぐしゃぐしゃと擦った。火照った頬を春風で再び冷やし、晴天を見上げる。空の頂上で輝く太陽は、受精卵のように神々しかった。

「つなげるんだ」

海音は呟いて、静かに目を閉じた。自分の使命は、この世界に生まれたい命をお母さんにつなげることだ。不妊治療を通して、人々の幸せを叶えることだ。

あまりにも細い希望の糸を辿って誕生した、汐里の受精卵に祈った。どうか無事に、この手で始めた小さな命が、元気な産声を上げますようにと。

>>第二話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 前編〗


全話のリンクは下記となります。
第二話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 前編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/naee4897c1f69

第三話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 後編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/nc608117c3f6a

第四話〖人間の手・二〇二五年 四月十六日 前編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/na688ee538ba0

第五話〖人間の手・二〇二五年 四月十六日 後編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n10e665190a9d

第六話〖晴れの海と裸足 二〇二五年 四月二十六日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n6d0978d41a0a

第七話〖絶望とライラック 二〇二五年 五月二十日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n2b034407ff11

第八話〖満月を指す指・二〇二五年 七月十一日 前編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n04f3641b5e4c

第九話〖満月を指す指・二〇二五年 七月十一日 後編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n50c58e9917d7

第十話〖まだあたたかな手首・二〇二五年 七月十一日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n298255e3fdef

第十一話〖歪む重力・二〇二五年 七月十四日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n11bc71b71464

第十二話〖家族の温度・二〇二五年 七月十七日 前編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/nf893d6395bf8

第十三話〖家族の温度・二〇二五年 七月十七日 後編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/nd3a5ef2b2792

第十四話〖水平線・二〇二五年 七月十九日 前編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n3ce63d18405f

第十五話〖水平線・二〇二五年 七月十九日 後編〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n47e724a73659

第十六話〖救い・二〇二五年 七月二十二日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/nd411ebcec2ca

第十七話〖赤い花・二〇二五年 七月二十八日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/n137d62b932cb

第十八話(最終話)〖手紙・二〇二五年 十月二十日〗
https://note.com/ritsuka_itsuki/n/nc9bdc1e5d715


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