ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十一話〖歪む重力・二〇二五年 七月十四日〗#創作大賞2025
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明け方、雨の音で目が覚めた。そうか、今日はもう月曜日なんだと、スマートフォンを見てぼんやりと思う。もう一度眠ろうとしたけれど、夢の世界は既に遠のいていた。起きたものの、食欲がない。それでも無理矢理に、お気に入りの牛乳を飲むと、少しは力が湧いてきた気がする。
髪を一つに束ねる。ベージュのコットンのパンツを履き、白いTシャツの上にグレーの薄手のパーカーを羽織る。
ビニール傘をさして、いつもより一時間早く家を出た。業務の前に、間宮汐里の一件について、関係者に報告をするためだ。海音は、病院から徒歩圏内のマンションに住んでいる。今回のように急なスケジュール変更があっても、すぐに駆けつけることができるように。
今日は、樫木萌絵の胚移植がある。ついに、今まで育てた胚を萌絵の胎内に帰す日が来たのだ。胚移植の前処置は、胚培養士ができる最後の仕事だ。暗い考えに囚われまいと、手順を頭の中で復習しながら、速足で歩いていく。
朝七時。大学の門をくぐる。大学の構内に人はまばらだ。雨に溶けた木々の香りを体中に吸い込んで、目を閉じた。小鳥のさえずりが心を洗い、雨粒がビニール傘の上で踊る。雨は嫌いではない。
汐里が保護され、松居との通話を終えた後、警察から呼び出しがあった。海音は、小林と共に警察署に出向き、状況の説明をした。海音と汐里との通話の内容について、幾つもの質問をされた。覚えていることを詳細に、全て話した。気が動転していた部分の記憶については、隣で会話を聞いていた小林が補ってくれた。全てが終わった時、夜が、真っ暗に更けていた。
リプロセンターの事務室に荷物を置き、スクラブに着替えて、白衣を羽織る。七時二十分。そのまま、二階奥の会議室に向かう。
会議室の重いスチールの扉を押し開ける。河瀬と、安藤、松居、小林、そして病院の事務方と思われるスーツ姿の男性が席についていた。皆沈鬱な表情だ。金曜日の出来事の重さを感じ、海音の呼吸が浅くなる。
一礼し、入り口側の席に着いた。事務方の男性が、左手で眼鏡に触れ、「母袋さんですね」と海音を見る。
「はい。胚培養士の母袋です」
事務方の男性は、水原と名乗った。水原は、表情を変えずに、海音を見たまま話し出した。不安げな表情の小林と、目が合う。
「早速本題に入ります。先週七月十一日の、間宮汐里さんからの電話の件、松居さんから私に報告がありました。当日の状況を、ここで再度詳しく説明して頂けますか?」
海音は頷いて、説明を始めた。数日前の出来事が、何か月も前のことのように思える。
水原が相槌を打ちながらメモを取る。小林がつらそうな表情をして俯く。河瀬、安藤、松居の三人の表情は動かない。水原の話によると、汐里のスマートフォンから、リプロセンターへの非通知の発信履歴が三回、見つかったという。やはり、無言電話の主は、三回とも汐里だったのだ。
汐里との通話の後、何度も何度も考えたことをまた反芻する。汐里は、三か月前からSOSを発していた。どうして、一回目の電話を取らなかったのか。電話があったのは、汐里からの手紙が届いた翌日だった。あの電話に海音が応じていれば、汐里がここまで追い詰められる前に、医療機関に繋ぐことが出来たのではないか。隣で、小林が膝の上の両手を固く握りしめていた。
「今後、報道関係者から問い合わせが来るかもしれません。その際には独断で動かず、必ず私を通して対応を——」
水原の声が、頭に届かない。水槽の中に閉じ込められているみたいで、よく聞こえない。心が一重、また一重と閉じていく。未だに信じることができない。あんなに妊娠を望んでいた汐里が、ついに授かった命を葬ろうとしたなんて。
海音宛てに送られてきたパステルイエローの便せんには、丁寧に書かれた文字が整然と並んでいた。海音は、すべてを暗記するほどに、何度も手紙を読み返していた。
母袋海音先生へ無事に娘を出産しました私たちの娘の受精卵を育ててくださって本当にありがとうございました母袋先生のお陰でお母さんになることができました母袋先生の海音というお名前から一文字取って娘を七海と名付けることにしました今はとにかく娘の全てが愛おしいです授乳も添い寝もお風呂もおむつ替えもずっと憧れて来たことでしたから先の見えない不妊治療を続けてきたのはこうして娘を抱くためだったのだなあと——
「母袋さん、大丈夫ですか?」
河瀬の声がして、はっと現実に戻る。河瀬にじっと見つめられる。心の内を全て、見透かされている気がした。
「ご推察いたします。元ご担当患者さんが起こしたことです。非常にショックでしょう」
水原の声に頷いて机の上の両手を見つめる。こんなに苦しいのに、涙は一滴も出ない。ただ一切の感情が熱を失い、凍てつき、乾いていく。
『ごめんなさい……』
電話口で聞いた汐里の涙声が蘇る。一歩手前だった。あの時もし、傍に小林がいなかったら、少しでも通報が遅れていた、七海は浴槽に沈められていただろう。母親である汐里は、殺人犯になっていたかもしれないのだ。海音は両手を見た。震えが止まらない。
「ご連絡は以上です。それでは、私はこれで」
水原が去った後の会議室で、最初に口を開いたのは、河瀬だった。
「母袋さん。とりあえず今日の樫木萌絵さんの胚移植からは外れて、暫く休暇を取ってください」
「え?」
海音はぽかんと口を開け、河瀬を見た。
「自分ではわからないと思いますが、顔面が蒼白です。それと、眼球や指先に震えがある。かなりの精神的な動揺を認めます。医師として、今の状態のあなたに胚培養業務をさせることはできません」
「でも、少し休めば……」
「無理はいけません。松居さん、母袋さんのアシストは基本的に芽衣さんですよね?」
松居が「はい」と返答すると、河瀬は「では、今後暫く母袋さんの担当業務は、芽衣さんを主に。アシストは尾上さんで行きましょう」と静かに言った。
河瀬は、「小林君も、当分は無理をせず、アシストに回ってください」と続けた。小林は気丈にも、背筋を伸ばして、静かに頷いた。
「母袋さんに責任はありません。どうか思いつめないでください。まずは、きちんと三度の食事をし、日中に太陽光を浴びて、夜には睡眠をとること。心身の不調を感じたら、遠慮せずすぐに僕や安藤さん、松居さんに教えてください。カウンセリングを受けてもらうようにします」
この会議室に、窓はない。きっと今、病院の庭では、見事な紫陽花が咲き誇っているのだろう。春の訪れを教えてくれたハクモクレンも、初夏の風に揺れていたライラックも、とうに花を終えてしまった。
「河瀬先生」
海音は俯いたまま、絞り出すように声を出した。
「カウンセリングが必要だったのは、私ではなく間宮さんです。先生は医師ですよね? どうしてもっと早く、間宮さんの異変に気付かなかったんですか!」
海音は、感情を制御することが出来なかった。呼吸が荒くなる。吸っても吸っても、酸素が頭に回らない。河瀬は刹那、沈黙すると、静かに頭を下げた。
「僕の落ち度です。もし、母袋さんと小林君が事務室に残っていなければ、間宮さんと七海ちゃんを助けることはできなかった。一人の人間として、間宮さんの異変に気づけなかったことを深く反省しています。どれだけ謝っても謝り尽くせません」
河瀬に激昂する自分自身に、海音は絶望した。河瀬は、再び頭を下げると、会議室を去った。
「母袋さん。今日はもう帰って休みなさい。それから、河瀬先生が仰っていたように、今週一杯は有給を取って休養しなさい。母袋さんの業務は皆でカバーしますから、どうか安心してください」
松居の声は、いつものように落ち着いていたけれど、今の海音を安心させることはできなかった。
「母袋さん、小林君。まずはあなたたちが、非常に強いショックを受けたということを認識して下さい。母袋さん、まずはしっかりと体調を立て直してから、現場に帰って来てください。僕たちはいつまでも、待っていますから」
海音は、千切れ乱れる意識の中で、返答をしようと思った。しかし、「あ」とか、「はい」とか、切れ切れにしか反応ができない。
松居は、安藤に目で合図をして頷くと、会議室を出た。小林が、いつものように茶化してくれればいいのに、と海音は思った。とんでもなく場違いな考えだった。
「母袋さん……」
小林の顔を見上げた。小林の瞳に、海音の顔が映る。きっと今、自分はひどい顔をしているのだろう。さっと目を逸らす。
「僕、あの時冷静な対応ができた母袋さんを、尊敬しています。必ず、戻ってきてください。辞めるなんて、どうか思わないで下さいっ!」
小林は早口でまくし立てると、大袈裟に頭を下げた。小林の洗い立ての髪から、いつもの銘柄のシャンプーの香りがして、海音は少しだけ安心した。小林は、何度も頭を下げながら、会議室を出て行った。
安藤が、海音の隣の椅子に座り直す。背中に温かさを感じた。安藤の手が、海音の背をさすっていた。人間の体温が、徐々に海音の感情を現実世界へと引き戻していく。
「間宮さんのベビーちゃんね、私が担当して、お産で取り上げたの。元気な声で泣く可愛い女の子でね。あの時は、まさかこんなことになるなんて」
安藤が俯いて頭を振った。声に震えが混じっている。
「びっくりしたよねえ。悲しいよねえ。でもまずは、間宮さんと七海ちゃんの命が助かって、本当に良かった。母袋さん、ありがとうねえ。今ここでは、感情を出していいんだよ」
安藤が、親指で目の端を拭った。普段は意思の強そうな太い眉毛が、八の字に曲がっている。海音は、耐えられなくなって机に突っ伏した。
悲鳴のような、言葉にならない声が、食いしばった奥歯から漏れる。無機質な会議室に、海音の泣き声が響く。
安藤に付き添われて、海音は誰もいない事務室に戻った。午前九時を過ぎていた。デスクに目が行く。白い木目調のフォトフレームに縁どられた、汐里と七海の写真。もう壊れてしまった、親子の関係。写真を伏せることで精一杯だった。パステルイエローの手紙は、引き出しの中にしまったままにした。
もう、だめかもしれない。これが、リプロセンターでの最後の日になるのかもしれない。
ちょうど今頃、河瀬夫婦によって、萌絵の胚移植が行われているのだろう。
震えて使い物にならない両手を見つめた。この手は、命をつなぐ手だと思っていた。それなのに。
もう、思考を前に進めることはできなかった。
「ママ。私、どうしたらいい?」
エスカレーターに乗りながら下を向いて呟いた。当然、返事はなかった。玄関を出て、傘をさす。透明なビニール越しに空を見上げる。涙のような水滴が、ダイヤモンドのように輝いていた。
「止まない雨はないって言うけど」
雨が奏でるリズムに合わせて、濡れたキャンパスを歩く。七海が何をしたというのだ。ふと、照の笑った顔が頭に浮かんだ。七海も、照も、最初は一個の輝く受精卵だったのに。なのにどうして七海は、母親に殺されかけなくてはいけなかったのか。
「残酷すぎるよ」
海音は呟いて、雨にまぎれてまた泣いた。
