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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十話〖まだあたたかな手首・二〇二五年 七月十一日〗#創作大賞2025

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医学部でのバーベキューパーティーが終わり、時刻は夜二十時を回った。海音は、小林と共にリプロセンターの事務室に戻った。

荷物を取り、ドアを開けて帰ろうとした時、電話が鳴った。

「誰だろう、こんな時間に」
「母袋さん、さっき医学部に忘れ物とかしたんじゃないですか?」
「それはないと思うけど……」

海音は受話器に手を伸ばした。

「はい。北都大学病院産婦人科リプロセンターです」

消え入りそうな泣き声がした。番号を確認する。非通知設定だ。

「どちら様ですか?」

電話の相手は、答えない。ザーッという水音のような雑音にまみれて、押し殺したうめき声が聞こえる。以前の無言電話と、同じ人物だろうか。だとすれば、電話は三回目だ。

「どうされました? 大丈夫ですか? 今、どこにいますか?」

水音が止まる。息を吸う音がした。

『母袋先生……?』

掠れた涙声。聞き覚えのある声だ。海音の脳裡で、一瞬のうちに記憶の歯車が噛み合った。

「間宮さん? 間宮汐里さんですね? 母袋です」

電話をスピーカーホンに切り替える。事務室のドアを開けようとしていた小林が、慌てて戻ってくる。

『母袋せ……。母袋せんせえっ……』

汐里は、電話口で泣き崩れた。

「間宮さん、どうしましたか? 何がありましたか?」
『私……。私、もう……』

ざわっと、嫌な予感が胸の内に沸き上がる。ガサガサという雑音に混じって、赤ちゃんの泣き声がした。

「間宮さん? 近くに七海ちゃんがいるんですね? 七海ちゃんがいる場所は安全ですか?」
『もう……疲れたんです、私……。このまま、七海と一緒に……』

海音は頭を高速で回転させた。事態は緊急を要する。一刻も早く、汐里と七海を助けなければならない。通話を聞いていた小林が、すぐにスマートフォンを取り出し、警察に電話を掛け始めた。海音は小林と目を合わせ、頷いた。

「北都大学病院です。産婦人科の元患者さんが、赤ちゃんを道連れにして……はい……緊急性が高いと思い連絡を……住所は……」

小林が急いでパソコンを立ち上げ、電子カルテを開く。小林が警察に通報しているのを横目に、海音は深呼吸をした。警察が到着するまで、汐里との会話を引き延ばさなければならない。意識的に、話すスピードを落とし、落ち着いた声を出す。

「間宮さん。何があったの? ゆっくりでいいから、私に教えてくれますか?」

電話口で、ぜえぜえと荒い呼吸音が聞こえる。

「まず一緒に呼吸してみましょう。いきますよ、息を吸って。止めて。ゆっくり吐いて」

汐里は、海音の指示に従った。規則正しい呼吸音が聞こえる。汐里と共に、五回、深呼吸を繰り返す。

「ありがとうございます。どうですか? 少し落ち着いたかな?」
『ご迷惑を……おかけしました……』
「全然迷惑なんかじゃないですよ。今、どこにいますか?」
『家の……浴室に』

最悪の事態が頭をよぎる。しかし、動揺を汐里に気取られてはならない。七海の泣き声が聞こえる。七海は生きている。「自宅で間違いありません。浴室です」と、小林が警察に説明する声が聞こえた。

「七海ちゃんは? 今どこにいますか?」
『私の、腕の中です』
「まず七海ちゃんの安全を確保しましょう。しっかり抱いていてください!」
『もう、いいんです。このまま、七海を浴槽に……。その後で私も』

海音の手から熱が失われていく。鼓動だけがばくばくと激しさを増す。しかし今、大きな声を出しては逆効果だ。もし電話を切られたら。汐里をひとりにしてはいけない。絶対にだ。

「間宮さん、何でもいいです。今、どんなことが辛いのか、私に教えてくれませんか?」

汐里が沈黙した。まずい。このまま切られたら……。

「間宮さ——」
『研究室の後輩の女の子が』

海音の言葉を遮って、汐里がぽつりぽつりと話し始めた。

「後輩が、どうしました?」
『私が産休と育休を取っている間に、有力な学術雑誌に、論文が掲載されて』

汐里は、北都大学工学部の研究室で、ポスドク研究員をしていたはずだ。海音は汐里に相槌を打った。

『その子、ポスドク研究員から、助教に昇格したんです。本当は、私がもらうはずだったポストに就いたんです……。研究の世界って、食うか食われるかなんですよ。超競争社会っていうか』
「そうですか……」
『その女の子が……。隣の研究室にいる私の夫と、その……』

嗚咽が聞こえた。汐里の夫も研究者だと聞いている。まさか、汐里の夫が、後輩の女性と関係しているというのか。

『母袋先生。私、母親になる資格がなかったんです。毎日が、辛くて辛くて……。夫は家に帰って来ないし、家事も育児ももう、限界なんです』

汐里の声に、再び嗚咽が混じる。

「間宮さん。私に電話をかけてくれて、本当にありがとうございます。心の底から、ありがとうございます」

電話の向こうで、汐里がはっと息を飲んだ。

「今、落ち着いて、間宮さんご自身と、七海ちゃんの安全を確保しましょう。落ち着いたら、次にどうするか一緒に考えましょう。私たちがお手伝いさせていただきますから」

汐里と七海の泣きじゃくる声が聞こえる。二人の泣き声が、海音の胸をしきりに掻きむしる。どうして今まで気づかなかった? もっと早くに汐里の異変に気付いていれば。心臓がどくどくと激しく脈動し続ける。

『私、何て駄目な母親なの……』
「駄目なわけがないです。間宮さん、あんなに辛い不妊治療も頑張ったじゃないですか。間宮さんから頂いたお手紙、私、何度も何度も大切に読ませて頂いているんですよ」

海音の眼に、涙が滲む。手紙を書く事で、汐里は海音を呼んでいたのか。デスクの上に飾った写真を見つめる。写真の中で、汐里も七海も、笑っている。もしかしたら、この手紙を書いた時にはもう、汐里は限界を感じていたのではないか。汐里の孤独に気付くことが、どうしてできなかったのか。

『母袋せんせ……。もういいんです。ごめんなさ……』

汐里の声が遠のく。ガサガサという雑音が大きくなる。

「間宮さん! 間宮さん、切らないで! おねがい!」

電話の向こうで、ガチャリと扉が開く音がした。次いで、バタバタという慌ただしい足音が聞こえる。

『警察です! 大丈夫ですか?』
『赤ちゃんを保護! お母さんの無事を確認しました!』

浴室に反響する警察官の声が聞こえた。急に力が抜けた海音は、その場にへなへなと座り込んだ。受話器を握りしめた左手が、冷たくなって震えていた。

「小林くん。私、この件、取り急ぎ松居室長に報告する」
「わかりました。とりあえず間宮さんも七海ちゃんも無事で、本当に良かった。母袋さん、少し休んでからにした方がいいですよ」
「そうだね。ありがとう」

海音は、小林に礼を言うと、鞄から出したペットボトルの麦茶を一気に飲み干した。信じられないほど喉が渇いていた。手の震えが止まらない。なんとかスマートフォンの画面をタップし、松居に電話を掛ける。三回のコール音の後で、松居が出た。松居の落ち着いた声を聞き、海音はやっと深く呼吸した。

『母袋さん、小林君。まずは感謝します。間宮さんと七海ちゃんの命が助かって、本当に、本当に良かった。冷静な判断に基づいて行動してくださって、ありがとうございました』

電話の向こうの松居の声が、珍しく動揺していた。

>>第十一話〖歪む重力・二〇二五年 七月十四日〗


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