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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第九話〖満月を指す指・二〇二五年 七月十一日 後編〗#創作大賞2025  

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足音のする方へ振り向くと、白いTシャツにブルーのデニム姿の芽衣が立っていた。

「照!」
「あ、おかしゃん」

海音の心臓が、大きく脈打つ。照の顔が段違いに明るくなる。照は、芽衣の子供だったのだ。芽衣と、河瀬の子供だったのだ。

芽衣は、「すみません、娘が」と言って、顔を上げ、海音と小林に気付いた。刹那、芽衣と海音は互いに見つめ合った。

「芽衣さんもいらしてたんですね。私と小林くんは、カンファレンスで研究室に来ていて、おこぼれに預かることになって」

平静を装って笑った。職場の外で芽衣に会うのは初めてだ。海音は妙に緊張した。

「私は、河瀬の同僚の先生に誘われて」

芽衣はふわりと笑った。培養室では見せない、自然な笑顔だった。プライベートでの芽衣は、優しい雰囲気を纏っている。額の真ん中で分けたショートヘアが、さらりと揺れた。

「照ちゃん、将来は虫博士になるかもしれませんよ」

小林が屈託なく笑う。小林が隣にいてくれて、本当に助かった。一人で来ていたら、きっと顔に出てしまう。芽衣への葛藤が。河瀬へ叶わぬ思いが。

「お。こんなところにいたの?」

男性にしては少し高いテノールの、弾んだ声が近づいてくる。海音は、ぎゅっと目を瞑りたい衝動を何とか堪えた。

「照。突然いなくなっちゃったら、お母さんもお父さんも心配するだろ?」

私服の河瀬がいた。清潔なライトグレーのシャツに、黒いコットンのパンツ姿。私生活ではこんな雰囲気なのか。河瀬は、照の頭を形のいい手でゆっくりと撫でた。

「どう? 小林君、母袋さん、食べてる?」

河瀬の二重瞼の下の瞳は、いつだって残酷なほどに優しい。

「はい! 信じられないほどお肉が美味しくて。ごちそうさまです!」

小林が威勢よく立ち上がって、深々と頭を下げた。

「私は海産物が好きで。すごく美味しいです。ごちそうさまです」

海音も、小林に倣って頭を下げた。苦しかった。

「以前はアルコールもあったんだけどね。今はほら、色々と問題になるといけないから、アルコールは用意してないんだ」
「大丈夫です。僕も、母袋さんも下戸なので」
「ええ? そうだったの? 母袋さん、お酒強そうだと思ってたけど」

『どんな偏見だよ』、と胸の内で毒づく。芽衣は、漆黒の綺麗な瞳のまま、ふんわりと笑って河瀬を見つめていた。河瀬と芽衣と照は家族だ。一分の隙もない、家族という集団だ。河瀬は海音と小林に手を振って、その手で照の小さな手を握った。もう片方の手を、芽衣が握った。三人は、繋がれたまま、ゆっくりと遠くへ歩いて行った。

心に黒い染みが広がっていくのが分かる。海音は奥歯を噛みしめた。出会わなければ良かった。知らなければよかった。河瀬を好きな人は他にもたくさんいる。河瀬は「光る君」なのだ。もちろん、源氏物語の主人公のように浮気はしない。けれど河瀬は、存在しているだけで多くの人を惹きつけてしまう。自分もその中の一人に過ぎないのだと、海音の孤独が一重、深くなる。

いつもはここで思考を止める。だが今日は、制御がきかない。もしも、芽衣より先に河瀬と出会っていたら、河瀬は自分を選ぶだろうか。子供を望まない自分を。出産に命を懸けることがとてつもなく怖い、この自分を。

答えは否だろう。だから独りだ。独りで生きて、誰にもバトンを渡さずに消えていくのだ。

世界の音が、どんどん遠のいていく。

「胚培養士の、母袋海音さん?」

名前を呼ばれて、現実に引き戻された。顔を上げると、産婦人科教授の渡井苑美わたらいそのみが、海音を見つめていた。渡井は、スーツから着替えたのか、高級そうなパステルグリーンのポロシャツに、真っ白なパンツ姿となっていた。顔には美しく化粧が施されている。白衣を着ていなくても、教授としての品格がにじみ出ている。おそらく年齢はもうすぐ六十歳に到達するのだろうが、とにかく若い。

「渡井教授、大変失礼いたしました」

渡井は、産婦人科組織のトップだ。ドラマのように、毎週水曜日には教授総回診がある。一介の胚培養士にとって、渡井は雲の上の存在だ。恐縮して頭を下げようとした海音に、渡井は「今日は無礼講よ」と、気さくな声で告げた。

「母袋さん、先ほどの発表、興味深く聴かせていただいたわ。どう? 産婦人科同窓会の先生方のお肉、楽しんでる?」
「はっ、はい。大変美味しく頂いております。ありがとうございます」

隣の小林と共に、海音は深々と頭を下げた。

「あなた達胚培養士のお陰で、リプロセンターは回っているの。仕事にやりがいはある?」

目の前に渡井がいて、直接話せていることが夢のようだ。

「はい。実は、初めて担当させて頂いた間宮様という患者様から、ご出産のお知らせを頂きました。とても嬉しくて、頂いた写真をデスクに飾っています」
「まあ。素晴らしいわね。やりがいを持って働いていてくれて、私も嬉しいわ」
「僕が初めて体外受精をさせて頂いた患者様も、現在妊娠を継続しておられます。とても嬉しいです!」

小林の声が、緊張で裏返っている。

「医師も看護師もそうだけれど、胚培養士の仕事は特に集中力が求められるし、体力勝負だものね。今日はたくさん食べていって頂戴ね」
「ありがとうございます!」

小林とまた、頭を下げた。渡井が、海音に一歩近づく。

「母袋さんって、珍しいお名前ね。失礼ですけど、ご両親はどちらのご出身?」
「両親ともルーツは山形ですが、生まれは札幌と聞いています」
「そう。それじゃあ、あなたも札幌の病院の生まれなのかしら?」

海音の思考が停止した。渡井の問いに対する答えが見つからない。

「恥ずかしながら存じておりません。実は、私を出産した際に、母は他界しておりまして。物心ついた時には父と札幌で暮らしていたのですが、出産時のことについては、ほとんど聞かされていないもので」

隣で小林が凍りついていくのが分かった。海音が母親について知っていることは、海音を産んだ時、母親が三十歳であったこと、理恵という名前であること、そして、出産後の大量出血で命を落したことだけだ。

「個人的なお話でした。申し訳ございません」
「そうだったのね。ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまって」
「いえ、とんでもございません」

渡井の目が、わずかに光ったように見えた。遠くで、「渡井教授!」と呼ぶ声がする。渡井は、上品に微笑んで海音と小林に会釈をすると、踵を返して去っていった。

「母袋さん、あの」

小林が、「大丈夫ですか」という言葉を飲み込んだことが伝わって来た。

「うん。大丈夫。もう三十二年前のことだから。それよりも来週月曜日、だね。樫木萌絵さんの胚移植がある。今日は美味しいものをたくさん食べられてよかった。緊張してたけど、リフレッシュできた」

何も言わない小林の優しさに、心の中で深く感謝をした。茜色から群青色に変わった空を見上げた。

遠くから、照の声がした。
見ると、大きな楓の木の下で、河瀬が照を肩車している。

「おつきさま、まんまる!」

小さな手が、落ちてきそうなほど大きな満月を指さしていた。

>>第十話〖まだあたたかな手首・二〇二五年 七月十一日〗


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