ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第八話〖満月を指す指・二〇二五年 七月十一日 前編〗#創作大賞2025
樫木萌絵の顕微授精の日から、三か月が経とうとしている。ついに、萌絵の体調が安定し、子宮内膜は、胚を受け入れられる状態になった。胚移植は、七月十四日に行われることになった。
移植を週明けに控えた金曜日の夕方、海音は、小林と一緒に、医学部産婦人科研究室へつながる連絡通路を歩いていた。病院から医学部の研究棟に向かうためには、複雑怪奇な道のりを辿らなければならない。
「小林くんがいてくれて助かった。私、こう見えて重度の方向音痴なんだよ」
「はい。母袋さんを見ていて、割とすぐに分かりました」
「えっ? ばれてた?」
「だって、病院の中でさえいつも迷ってるじゃないですか」
「まあ、リプロセンターがある三階はとりあえずマスターしたよ」
小林は呆れたようにくるりと目を回した。今日は、これから産婦人科研究室のカンファレンスがある。海音と小林は、胚培養士として、カンファレンスに参加を求められたのだった。自動ドアを開け、細く古い階段を昇ったり降りたりしながら、医学部研究棟の奥へと踏み込んでいく。
「それにしても、母袋さん、緊張しないんですか? 医者がうじゃうじゃいる中で発表するなんて」
「私、こう見えて無駄に年齢を重ねてないのよ。理学部で大学院まで行ってから、医学部保健学科に入り直したから、学生だった期間が長いの。学生時代って、毎週論文の内容をまとめて発表したり、実験の進捗を報告する生活をしてたでしょ? トータルで十年間学生やってりゃ、いい加減慣れるのよ。先輩とか教授からの容赦ない批判に、心を折られ続けることにね」
「母袋さん。それ、自慢になってないです」
「そっか。じゃあ考えてみて? 難しい卵子で顕微授精する時のプレッシャーに比べればさ」
「そもそも、カンファレンスでの発表と顕微授精のプレッシャーは比較できないです。あーだこーだ言って、母袋さん今日の発表に自信ないんですよね?」
ぎくりとして、思わず足が止まった。ぎこちなく笑って、緊張を紛らわせようとしたが、効果はなかった。研究室のカンファレンスルームに辿り着くと、海音と小林は入口側後方のパイプ椅子に座った。周囲は白衣を着た医師ばかりで、医療専門用語が飛び交っている。確かに、培養室とは全く異なる、張り詰めた空気が充満している。
カンファレンスルームの最前列に陣取っているのは、若い医師達だ。研修医の吉田茉莉の姿が見える。看護師の杉森とふざけ合っている時とは打って変わって、吉田の真剣な表情からは知性が漂っている。照明が消え、大きなスクリーンに、スライドが投影された。司会進行役の若い医師が、マイクを取り、カンファレンスの開始を告げる。
数人の発表が終わった段階で、司会の医師が、部屋の最後部に目を向ける。
「教授、いかがですか?」
マイクが最後列に座す人物に渡る。産婦人科の教授、渡井苑美だ。渡井は、一目で上等と分かるツイードのジャケットの上に、皺ひとつない白衣を羽織っている。髪の毛は肩の上で左右対称にふわりと巻かれている。話し方は穏やかで、知的で、威厳に満ちている。渡井の世代の女医は、女性というだけでハンデを負うことが当たり前だったはずだ。渡井はきっと、相当な逆境をくぐり抜けて教授まで登り詰めたのだろう。
「実際、ドラマみたいに教授総回診とかやるんですかね」
「しっ!」
浮きたって囁く小林を肘でつつくと、海音は手元のカンニングペーパーに目を落した。緊張感が高まって来る。
「続きまして、リプロセンターより、胚培養士の立場から、環境管理の重要性について、母袋海音さん、お願いします」
呼ばれた。海音は立ち上がると、背筋を伸ばしてスクリーンに近づき、マイクを握って、レーザーポインターを構えた。
*
「お疲れ様です。いい発表でしたね」
カンファレンスが終わり、医師たちがディスカッションをしながらカンファレンスルームを出ていく足音が聞こえる。椅子に座ったまま放心して天を仰ぐ海音の視界に、微笑んだ河瀬が入り込んだ。
「えっ! はっ! 河瀬先生。失礼いたしました。ぼーっとしてしまって」
「いいんです。頑張りましたね」
医師である河瀬が、カンファレンスに参加していることをすっかり忘れていた。
「この後、医局のバーベキューパーティーがあるんです。母袋さん、小林君、参加していきませんか? 肉だけじゃなくて、海産物もありますよ。費用は医学部産婦人科同窓会の先輩方が持ちます。つまり、無料です」
「いや、でも……」
「行きます! ありがとうございます!」
遠慮する海音の背後から小林が威勢よく手を挙げた。
「ちょっと……。小林くん」
「よかった。それじゃあ、三十分後に、医学部正面玄関横のスペースで待ってますね」
河瀬はにこやかに手を振って、研究室の扉の向こうに消えた。扉に貼られた「バイオハザード」のマークがなんだか物々しい。扉の向こうは、海音や小林には伺い知ることが出来ない、別世界だ。
「母袋さん、どうしました?」
小林に声を掛けられて気付いた。無意識に研究室の扉を凝視していた。
バーベキューパーティーは、控えめに言ってとても豪華だった。バーベキューコンロは五台あり、それぞれのコンロの脇のテーブルには、霜が降った高級な牛肉のパックが幾重にも積まれている。分厚いサガリや牛タン、貝殻付きのホタテやカキが、じゅうじゅうと音を立てながら、炭火の上で焼けていた。思わず、海音は小林と顔を見合わせた。お腹が鳴る。
「最高ですねえ」
青いピクニックシートの上に座った小林が、紙皿を手に呟く。小林が、こんがりと焼けた大きな牛タンを焼き肉のたれにつけ、割りばしでつまんで頬張る。よほど美味しいのか、小林は目を閉じてゆっくりと肉を咀嚼している。白衣にたれが付かないか心配だ。
「最高だねえ」
小林につられて、海音も感嘆の声を上げた。あつあつの大きな蒸し岩ガキにレモン汁と胡椒をかけ、つるりと飲み込む。口の中一杯に広がる磯の香りが、たまらなく甘い。次は殻付きのホタテをバター醤油で食そうかと立ち上がった時、背中を小さな手が叩いた。振り返ると、虫かごを持った小さな女の子が目の前に立っていた。
「さなぎ、みゆ?」
女の子は、グレーのレギンスの上に、水色のワンピースを纏っている。女の子は、ピクニックシートの上に、自信たっぷりといった表情で足を踏ん張って立ち、海音と小林を交互に見て、にんまりと笑った。
「ねー。さなぎ、みゆ?」
「見る」をまだ「みゆ」と発音しているところが可愛い。虫かごの中には、葉がついた木の枝と、葉にしがみつく緑色の蛹があった。どうやら女の子は海音を驚かせ、「気持ちわるい!」とリアクションをさせたいようだ。しかし海音は、虫を怖がるか弱い女子ではない。
「これ、オオムラサキの蛹でしょう? 葉っぱにそっくりできれいな色! どこで捕まえて来たの?」
「おとしゃんが、おやまでつかまえてきた」
「そうなんだ! この緑の蛹からはね、とってもきれいな蝶が出てくるんだよ」
女の子は目を大きく開いて輝かせ、虫かごを両手で抱え蛹を見つめると、ほうっとため息を吐いた。海音が隣を見ると、小林が震えていた。小林は、虫が極度に苦手なのだ。
「母袋さん、虫いけるんですか?」
「まあね。伊達に理学部生物学科に行ってたわけじゃないよ。生物学科には、爬虫類もサナダムシもゴキブリもいるんだから」
小林は悲鳴を上げて震えあがった。危うく焼き肉のたれをこぼしそうになる。海音と小林のやり取りを、くりくりとした目で追っていた女の子は、左手で海音の白衣をむんずと掴んだ。
「ね、おねーちゃん。さなぎ、いつちょうちょになる?」
「今は七月の中頃だから、あと二週間くらいかな」
「にしゅうかんって、あした?」
「二週間はね、明日のずっと先。今日のお月様は真ん丸なんだけど、真ん丸になったら、お月様ってだんだん細くなっちゃうんだ。お月様がきれいに消えちゃう日が、今から二週間後だよ」
「ふーん」
「難しかった?」
「わかった。おつきさま、みゆ」
女の子は、ピクニックシートの上にそうっと虫かごを置くと、真剣な面持ちで頷き、夕空を見上げた。賢い子だ。
「お名前は?」
小林が、シートに膝をついて女の子と目線を合わせる。自然な動作だ。目が優しい。そうだ。小林は、子供が大好きなのだった。胚培養士になるか保育士になるかを迷ったほどに。
「てるだよ」
「てるちゃんか。素敵な名前だね。てるちゃんは何歳?」
「さんさい!」
てるは、四本の指を立てると、手をじっと見て、指を三本に立てなおした。
「おねーちゃんと、おにーちゃんは?」
「海音だよ」
「僕は、優助」
てるの顔に、太陽のような笑みが広がる。
「かーねちゃん! ゆーすけくん!」
てるは、海音と小林を順に指差して、キャッキャッと笑った。てるのショートボブの髪が夕風に揺れる。小さな子供は可愛い。この子も、最初は一個の受精卵だったのだ。
「ねえ、てるちゃん。お母さんかお父さんは来てる?」
心配した海音がてるの肩に触れようとした時、背後から足音が聞こえた。
