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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十六話〖救い・二〇二五年 七月二十二日〗#創作大賞2025

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一週間ぶりに、濃紺色のスクラブに着替えた。いつもの感覚を呼び覚ますように、石鹸を泡立てて肘までを洗う。培養室ラボに入ると、同僚の胚培養士たちが一堂に会していた。いつものように、皆サージカルマスクと手術用キャップを着用しているため、表情は目元を見て確認する。

「母袋さん」

小林が心配そうに呟いて海音を見つめた。小林の隣には、芽衣が立っている。芽衣は、瞳孔の位置が分からない漆黒の瞳で海音を捉えると、一言「お帰り」と呟いた。芽衣が微笑んでいることが、綻んだ目元で分かった。

海音は勢いよく頭を下げた。

「長くお休みを頂き、ご迷惑をおかけしました。気持ちを切り替えてきましたので、またよろしくお願いします!」
「母袋さん、機械の動作確認が終わったら、まずは精子カウントからです」

どっしりとした佇まいで、松居がいつものように声を掛けた。色々なことがあったけれど、こうして任される仕事があることに、海音は幸せを感じる。

「はい!」

顕微鏡を覗き、ミクロの世界に没入する。プレパラートの上に放たれた精子の数を数えるためだ。精子たちは、無作為な方向へ絶えず動く。カウンターのカチカチという音が培養室に響く。運動する精子を数えるのは一苦労だ。今回カウントしている精子は、前処理を経て人工授精に用いられる。運動性が低下する前に濃度を計測しなければならないので、迅速な操作が求められる。

精子を素早く数えていく。手が、指が、技術を思い出していく。仕事に没頭することで、救われることがあるのだ。マスクの下で、海音は微笑んだ。

「母袋さん、ちょっとお話しできますか?」

精子カウントを終えた後で、松居に促され、スタッフルームに入る。河瀬が席についていた。河瀬は、目を少し細めて、海音に会釈をした。松居と海音が着席すると、河瀬が口を開いた。

「母袋さん、体調はどう?」
「はい。この一週間、じっくり自分と向き合う時間を頂きました。親しい人に会いに行って、気持ちを話すことで整理できました。だから、もう大丈夫です」
「よかった。よく立ち直ったね」
「河瀬先生。あの時は、ひどいことを言ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」

海音は深く頭を下げた。河瀬は、首を横に振ってから、海音の目を覗き込んだ。

「事件の直後に見られた、目線や指先の震えがない。気持ちが安定していることがわかります」

松居が、河瀬の隣で頷く。

「あの、その後、事件の影響はあったのでしょうか」

河瀬がゆっくりと頷く。

「予想通り、報道関係者から多数の問い合わせがあった。けれど対応は最小限で切り上げたよ。病院の業務に支障が出ないようにね」
「間宮さんは、やはり……」
「そうだね。無実とはいかないでしょう。今後については、今色々と調査をしているそうだよ。とにかく、母袋さんと小林君のお陰で、最悪の事態は免れた。本当に、ありがとうございました」

海音は、静かに頷いて目を伏せた。

「母袋さん、大丈夫?」

松居が海音の方を向いて身を乗り出した。

「はい。もう大丈夫です」

海音は、息を吸うと、前を向いた。

「私、それでも命の始まりに立ち会い続けたいです。この仕事が、本当に好きなんです」

河瀬と松居が、顔を見合わせて微笑み、頷き合う。

「普段はこんなこと言わないんだけど、母袋さんの手技を、僕も松居さんも信頼しているからね。現場の芽衣さんも、母袋さんの仕事ぶりを高く評価している」

河瀬の言葉に、海音は驚いた。河瀬が、いつものように軽やかに笑う。松居が、太い腕を組んで海音を見つめた。

「母袋さん。母袋さんには、今後も継続して、胚培養業務を行って欲しいです。早速ですが、来週、赤沢尚子さんの顕微授精、できますか? 顕微授精が成功したら、次は胚移植の前処置もお願いしたい。ひと悶着あった患者さんですが、母袋さんに謝罪したいと仰っていました。もう一度、治療に挑戦されるそうですよ」

赤沢尚子。海音の胸ぐらを掴んで泣いていた、あの女性だ。赤沢も、切実に子供を望んでいるのだ。色々あったけれど、それでも赤沢の幸せを叶えたい。不妊治療を通して、赤沢の人生を支えることが出来たなら。

「やります。やらせてください」

海音が勢いよく立ち上がって頭を下げると、松居は、組んでいた腕を解き、破顔して頷いた。

>>第十七話〖赤い花・二〇二五年 七月二十八日〗


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