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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十七話〖赤い花・二〇二五年 七月二十八日〗#創作大賞2025

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樫木萌絵の胚移植から、今日で二週間が経つ。今日は、血液検査があったはずだ。結果はどうだったのだろう。

一日の業務を終えた海音は、院内のコンビニエンスストアでカフェオレを買い、病院の温室に入った。今日の赤沢尚子の顕微授精を振り返る。樫木萌絵の顕微授精の時よりも、緊張しなかったと思う。卵子を覆う透明な膜が厚く、硬かったから、胚移植の際には注意が必要だ。

昨日のことが頭に浮かぶ。

採卵前に海音が赤沢に挨拶に行った時、赤沢は海音に以前の非礼を詫びた。赤沢は、もう取り乱してはおらず、毅然とした、強い目をしていた。

『夫と話し合って、もう一度だけと決めました。今回、赤ちゃんが来てくれなければ、不妊治療はおしまいにします』

赤沢の目は、それでも子供が欲しいという、切実な思いを湛えていた。この夫婦に、新たな命が舞い降り、すくすくと幸せに育ってほしい。顕微授精が終わった後、海音はインキュベーターに手を当てて、祈った。

病院の温室は小さな熱帯植物園のようで、様々な南国の植物たちが生い茂っている。しっとりとした空気を吸い込み、ガラスの天井を見上げる。夏の北海道の日暮れは遅い。時刻は午後六時を回ったが、空はまだ、金色のままだ。温室の中央に植えられた大きなヤシの木の周りに、円形のベンチがある。海音は、ベンチに腰掛けると、洗ったばかりの白いスニーカーを見つめた。

「母袋先生?」

左から声がして、海音は顔を上げた。声の主は、樫木萌絵だった。萌絵は、暫く海音を不思議そうな目で見つめていた。

「樫木さん。お久しぶりです。採卵の時以来ですね」

萌絵は、「ええ」と呟いて、笑った。萌絵に表情があることに、海音は驚き、次いで深い安心感を覚えた。萌絵は、小さなスケッチブックを膝の上で広げている。萌絵の左手が握っているのは、赤色の色鉛筆だ。

「赤」と海音が呟くと、萌絵はもう一度、少女のように笑った。

「大好きな赤色が、使えるようになりました」

萌絵が、スケッチブックを海音に向けた。絵の中では、大輪の赤い花に抱かれた小さな赤ちゃんが、すやすやと眠っている。

「今日、血液検査でした。妊娠判定で初めて陽性が出ました」

萌絵の瞳が濡れていた。

「おめでとうございます」

海音の瞳も、涙に飲み込まれていく。希望の光が、本当に嬉しかった。萌絵は、お腹に優しく触れた。

「母袋先生が、私と夫の卵子と精子を受精させてくださって、卵をずっと大切に育ててくださったからです。この子、きっと母袋先生のことが大好きだと思います」
「そんな、私は」
「まだ妊娠判定で陽性が出ただけです。これから、この子が生まれるまでちゃんとお腹に居続けてもらえるように、今はただ、願っています」

妊娠が成立した後も、母子の前には乗り越えるべき壁がいくつも立ちはだかっている。そして赤ちゃんが産まれた後にも、壁は存在する。

『私、お母さんになれるかしら』

間宮汐里の涙声が、今でも海音の耳に残っている。もう、後悔はしたくなかった。

「樫木さん」

声が震える。海音を見る萌絵の瞳は、穏やかだった。

「樫木さんの妊娠を喜んでいるのは、樫木さんご夫婦だけではありません。私たち胚培養士も、医師も、助産師も看護師も、皆が樫木さんのお腹の中の赤ちゃんを祝福しています。私たちは全力で、樫木さんを支えます。一緒に乗り越えましょう。元気な赤ちゃんを産みましょう。それから、お産が終わった後で、もし、赤ちゃんを育てることに苦しさを感じたら、迷わず私たちに教えてください。絶対に、一人で抱え込まないでください!」

海音は頭を下げた。涙の滴が、温室の床に落ちる。萌絵の手が、海音の肩に触れた。

「母袋先生。ありがとう。だからもう泣かないで」

萌絵は、スケッチブックのページを切り取ると、微笑みながら海音に差し出した。赤い花の中で眠る赤ちゃんの寝息が聞こえるような、母性溢れる絵だった。

>>第十八話(最終話)〖手紙・二〇二五年 十月二十日〗

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